1章②
僕ら三人は珍しく僕の部屋に集まっていた。
「にしても本当にいいの、標ちゃん。初日から信也の外出なんて」
僕は信也と将棋を指しながら、部屋の隅でじっと窓の外を眺めている標ちゃんにもう一度確認をとった。
彼女は僅かに首を傾けてこちらを一瞥すると、
「大丈夫」
とだけ言ってすぐに視線を窓の外に戻した。
「でもよく今日みたいな日に信也の外出申請が通ったね? こういう行事のある時は研究者たちがこぞって反対して、許可日にしようとしてもいつもは通らないのに」
「強引に認めさせたから」
「あ、そうなんだ」
「そう」
会話終了。
完全無欠の無表情美少女、鳰鳥標さんは今日も健在のようです。
この状態の標ちゃんに何を言っても無駄だということは百も承知だ。僕は彼女との会話を続けるのを諦めて、目の前の将棋に集中することにした。
標ちゃんと会話していたせいであまり注視していなかった将棋盤を再び見ると、始めて間もないというのにもう詰みかけていた。……僕の大勝利という形で。
けれど正面に座っている信也は、そんなほぼ自分の負け確定な状態でも不敵な笑みを浮かべている。
確かにまだ勝負は終わったわけじゃない。信也、その意気やよし。
僕はそんな彼に敬意を表して躊躇いなく相手の王を追いつめる手を打った。
「いいよ、信也」
「俺の番か。……よし。いいぜ、圭介」
さて、信也はいったいどんな手を打ってきたのだろうか。
期待半分恐ろしさ半分で僕はその一手を確かめた。
それは確かに完璧な一手だった。——ただ惜しむらくは、それが信也にとってではなく僕にとってだということだ。
盤上の全ての駒が次の僕の一手で十数手先に信也が詰みになることを告げる。
信也が今動かした銀は、これ以上ないぐらい絶妙に王の逃げ道を塞いだ上、どうぞ私の死角に駒を置いて王手をかけてください、といわんばかりの位置に坐していた。
「? 圭介、何ずっこけてんだ? 早く続き打てよ」
いや続きを打てと言われても、詰んでる以上もう打つ意味ないんだけど。ひょっとして試されているんだろうか。
「……まあ。信也が望むならいいけど」
心の声は心の声として留めておき、僕は定石通りに駒を進めた。
「俺だな。んー、よし。次、圭介の番」
詰むのがさらに四手早くなった。
「……。……あのさ、信也」
「なんだ? 圭介」
「どうして、そこで、銀を動かすの?」
「え、駄目なのか?」
「いや……」
心底不思議がる信也の姿をみとめた僕は諦めて次の手を打った。しかし。
「よし、俺はこれだ」
さらに三手短縮。……これはアレか。僕の突っ込み待ちなのか。
信也にそのことを尋ねようか尋ねるまいか悩んでいると、突然ふわっと甘い匂いが漂ってきた。気になって香りの源流に目を向けると、いつ近づいたのか標ちゃんが将棋盤を見ていた。
「信也」
「なんだよ、標。口出しなら無用だぞ」
「そんなことはしない。それよりこの一局はもう詰んでいる」
「ん、そうなのか? ……へっ、少しやらない内に随分弱くなったな、圭介」
何故こんな圧倒的敗北を喫しておいて、この男は自分が勝っていると思っているのだろう。
視線を感じてふと顔を上げると標ちゃんと目があった。
「圭介」
「ん。何? 標ちゃん」
「……」
僕の言葉が耳に届いていないのか、はたまた言葉を返す気がないのか、標ちゃんは無言で僕の瞳を見続ける。
堪らず目を逸らした僕だったがやっぱり標ちゃんは何も言ってこない。数秒して恐る恐る視線を戻すと標ちゃんはもう僕を見ておらず、何かを考えるようにじっと将棋盤を見つめていた。い、いったい何だというのだろう。
しばらくして標ちゃんはポツリと、ともすれば木々が囁いたのではないかと思えるぐらい小さな声を、いつものようにほとんど動くことのない唇から発した。
「信也。今ここで銀を動かしたのは、良い判断だった」
「お、珍しいな。お前が何かを褒めるの」
確かに彼女が何かを褒めるところなんてそうそう遭遇できない。信也の言うとおり、これは珍しい……っていやいやいや!
「ちょっと待ってよ! この一局、どうみたって僕の勝ちでしょ、標ちゃん!」
抗議の言葉を発した僕の方へと、標ちゃんのほっそりとした首がゆっくりと動く。
「圭介」
「な、なに?」
「正直、見苦しい」
「ええぇーっ? なんでっ? 信也がここで銀を動かす動かさない以前に、もう何手も前からこの一局は詰んでるじゃないかっ!」
「やっぱり。圭介は、詰んでいるのを気づいて打っていた」
……。…………。……あ。
は、はめられた……。
「何だと? おい圭介。勝敗はどうでもいいが、決着ついてたんなら言えよ。……ったく、せっかくの外出許可日なのに意味ない時間を過ごしちまったじゃねぇか」
信也が口を尖らせて僕をそう責めた。……そうか、考えたら分かることだった。滅多にない外出許可の日に、信也が詰んでいるのに気づいてなお詰み将棋なんか続けるはずがない。
「ごめん……」
「あー、いや。そんなマジに謝られてもな。で、次なにするよ」
煩わしそうに部屋の窓に目をやる信也につられて、僕も窓の外を見た。学校から帰ってくるまではまだ弱かった雨も今ではどしゃぶりだ。
「あ、そうだ圭介。まだ渡してなかったろ、ほれ」
ポン、と手のひらをうった信也が、ズボンのポケットからしわくちゃになった紙を僕に投げて寄こした。
「なに、この汚い紙……」
適度な大きさに折り畳まれたそれは、降り続ける雨にさらされたためか水気を含んでいて何ともいえない重量と、ぬめりとした質感をもっていた。
紙を開こうにも折り目に沿って合わせられた面と面は、ぴったりとくっついていてなかなか離れようとしない。
誤って破いてしまわないよう、その紙を慎重に広げる。しかし露わになった中身はさらに酷いもので、印刷されていたインクは滲んでおり紙同様に中に記された字もまたふやけてぐっちゃぐちゃだった。
「うわー、かろうじて読めるのがまた何とも……ってこれ、今週の信也の実験予定表じゃないか。信也に貰わなくても昨日標ちゃんに貰ったけど?」
「だろうな。けどお前が持っている紙だと今日実験になってんだろ? 今日、外出許可が通ったお陰で微妙に予定が変わったんだよ。現に、明日は今日できなかった分の補充として『総合思念実験』と『統合思念実験』が二コマずつだ」
「その二つが明日に回るのは予想してたけどね……」
僕と信也が二人してほぼ同時に溜息をつく。
「もう少しコマ数を減らしてもいい気がするんだがな。この二つの実験だけは必ず毎日やってるんだからよ。ま、そういう訳だから目を通しといてくれ」
「うん。いつものように標ちゃんと二人で実験が終わるの待っているよ」
「ああ。ははっ、標が監督者権限でどうにかしてくれると、ありがたいんだけどな」
「……無理を言わないでほしい」
それは注意して聞いていなければ聞き逃すぐらいか細い声だった。
標ちゃんの話し方は独特で声も小さいけど、いつも端的・明瞭にその場に響く。しかし今のは何というか、思わず言葉が漏れたというような……そんな感じがした。
彼女の表情を窺おうと傍に置いてあった雑誌で自分の顔を覆い、その隙間から彼女の顔を覗き見ようとして……ばっちりと目があった。
「あはは、はは。や、やあ」
「圭介。何」
取り繕う僕に対して、標ちゃんの顔はけほども崩れていない。
「いや、その。元気かなぁ、と思って」
「元気」
「そ、そう? それはよかった」
標ちゃんの瞳は動かない。まるで吸い込まれそうになるような視線に耐えていると、今度は信也から声がかかった。
「圭介。その本、逆さまだぞ?」
「え? ……さ、さあーて。続き、続き。しっかりと実験予定表に目を通さないと」
「おいこら。あからさまに無視すんな!」
「それにしても読みにくいなぁ、これ。誰かがもっときちんと管理してくれていたらこんなことにはならなかったのになぁ」
誰か、にアクセントを置いて僕はわざとらしくため息をついて見せた。
「標。圭介の邪魔をするのはよくないし、待つ間二人で何かするか」
「……。心得た」
信也をうまく誤魔化せたことに内心で安堵する。
実験予定表へと落とした顔を上げて、僕はこっそりと二人の様子を眺めた。何の事情も知らない人が気兼ねなく話を投じている二人を見れば、きっとありきたりな会話だと思うだろう。——こんなにも彼らの世界は歪んでいるというのに。
「……圭介」
「ん? 何かな、標ちゃん」
「唇。切れている」
「あ、あれ? あはは、噛んじゃったみたいだ。ティッシュ、ティシュっと……」
「何やってんだ、馬鹿。ほらよ」
信也が部屋の隅に転がっていたティシュケースを僕に向かって投げる。
「うわ!」
受け取り損ねたそれはポフ、と僕の顔面に当たって床へと落ちた。
「……本当にどうした、圭介?」
「別に何でもないさ」
「嘘つけ。顔が強張ってるぞ。それに、手」
「え?」
そういえば心なしか手に痺れたような感触がある。信也の指がさした僕の手には、いつのまにか汗がびっしょりとついていた。
「えーと、これは……」
僕が答えに窮していると突然標ちゃんが話に割って入ってきた。
「信也」
「なんだよ、標」
「今の内に今日の報告書を纏めたい」
「うん? 今からか?」
「そう。早い内にやっておきたい」
そう言いながら標ちゃんはちら、と僕を一瞥した。
どうやらこれは僕への助け船のようだ。
(ありがと、標ちゃん)
信也に分からないように僕は標ちゃんにアイコンタクトを送った。彼女はぶっきらぼうに首を振る。
(感謝の言葉はいらない。誠意には誠意で返してほしい)
(……ジャンボパフェでどうですか)
標ちゃんは無表情に右手で握りこぶしをつくると、手の腹の部分を僕に見せるように上げた。そして彼女はこぶしの形を変えず、ゆっくりと人差し指と中指だけを天に掲げて突き出した。
(ヴィクトリーパフェ)
(え、ええー)
幸福堂名物、パーフェクトパフェ。
見るものを圧巻させるボリュームもさることながら、値段も他のパフェの何倍もする代物だ。だが何より筆舌に尽くしがたいのはその味である。それはもう甘い。ただひたすら甘い。
僕らの毎回の散歩コースで最後に行きつくのは決まって幸福堂なのだが、標ちゃんは毎度コレを頼んでは無表情で黙々と食べ続ける。
ある時そんなに美味しいのか、と興味本位で信也と一つ頼んでみたが(標ちゃんのパフェを掬おうとしたら信也共々手を払われた)たったひとくち口に運んだだけで僕らは胸やけを起こして地に伏した。
それ以来遊んだ時の最後に寄る場所ということも相まって、僕ら三人内の勝負事の罰ゲームや優勝賞品はパーフェクトパフェということになった。
何故優勝賞品もこのパーフェクトパフェなのかというと、それは僕と信也は勝負事で今まで一度として標ちゃんに勝ったためしがなく、毎回優勝する彼女が敗者にたかるのがコレだからである。
そのようにしていつの間にかそれを食べるということ、すなわちその日のゲームの勝者という図式が暗黙の了解となったため、僕らはそのパフェをヴィクトリーパフェと呼んでいるという訳だ。
(圭介。世の中、ギブアンドテイク)
(わかったよ……)
僕がしぶしぶ手で降参の合図を送ると、標ちゃんは軽く頷いて信也と報告書を作り始めた。
紙面化された組織の公文書を持ち出すまでもなく、信也が用意された質問を上から順に答えて標ちゃんがそれを復唱する。何千何万と繰り返されてきた質問内容は既に二人の脳内に深く刷り込まれていて、そこには余計な問いも答えもない。一動作が終わったら次の問いへ。
感想と復唱。その繰り返し。雨音をバックグラウンドにして二人の声が部屋に響く。さながら輪唱でも聞いているのようだった。
僕は再び実験予定表に目を落とした。
——プールによる、信也の人体実験の予定表。
「……すけ。……圭介? おい、圭介。お前いつまでそれ見てんだよ」
信也に肩を小突かれて我に返る。顔を上げると、いつの間にか信也が僕の目の前に座っていた。
「標ちゃんは?」
「ん」
信也がこれまたいつのまにか、窓際に戻って外を眺めている標ちゃんを指さした。
「なんか今日、終わるの早くない?」
「そりゃそうだろ、今日はどっか遊びに出たわけじねぇんだから。とりたてて上に報告することがなきゃこんなもんさ。後は阿吽の呼吸ってやつで……ん?」
信也は全てを言い終わる前に言葉を切ると、僅かばかり顔を僕からずらしてドアしかないはずの後方に向かって片手を挙げた。
「よ、沙耶ちゃん。おひさ」
「へ!? お、お久しぶりです!」
声につられて僕もドアの方へと視線を向けると、そこには身を屈ませながらこちらの様子を窺っている僕の妹がいた。
「沙耶。……あの、何してるの?」
「! わ、私が何してようと、お、お兄ちゃんには、か、関係ないでしょ!」
沙耶は僕の問いかけに怒ったように答えると、台所から持ってきたらしいお盆を僕の机の上に置いて部屋の中央に乱暴に腰を下ろした。
「えっと、沙耶? その、そんなに乱暴に座ったらスカートに皺が……」
「圭介。突っ込むべきところはそこじゃないと思うぞ」
「じゃ、じゃあ、何を言えばいいのさ!?」
僕に動揺した感情をぶつけられた信也がどもりながら口を開く。
「い、色々あるだろ!? 『沙耶、今日はどしゃぶりだね』とか!」
信也、何年もまともに言葉を交わしたことがない妹にそんな言葉をかける兄は正直どうかと思う。
「二人とも邪魔」
標ちゃんはそう言うと、いい争う僕たちを押しのけ沙耶の正面に腰を下ろした。
「沙耶。何か、あった?」
僕たちに向ける声より若干温かみを帯びた標ちゃんの声に、沙耶は気まずそうに標ちゃんから顔を逸らした。
「沙耶」
顔を覗き込もうとしている標ちゃんから沙耶は必死で顔を逸らし続ける。
(標ちゃん、どう?)
(……)
僕の問いかけに対して標ちゃんは無言で首を横に振った。表情にこそ出ていないが、標ちゃんも少し戸惑っているように思える。
今なら沙耶と視線が合わないだろう、と判断して僕は顔を俯かせている沙耶にそっと目を移した。
ふむ。だいぶ落ちついてきたようだが、いつもなら手入れの行き届いている沙耶の黒い髪は少し乱れて顔も僅かばかり上気している。
まだ幼さの残る顔は美人というよりかわいいという言葉が先にくるものの、目鼻はすっきりしているし兄という欲目を抜きにしてみても十分整った顔だといえると思う。もっともこの場では比較するには分が悪すぎる人がいるから、その事実はどうにもかすんで見えてしまうけれど。
けれど沙耶の肌は標ちゃんの病的ともいえる透き通った白い肌と比べると随分健康的な色だし、身長や胸の大きさでいうならこれはもう圧勝——
「圭介」
「は、はいっ」
「……」
標ちゃんは一度ものすごく冷ややかな目で僕を一瞥し、僕が返事をするとすぐに沙耶の方に視線を戻した。
ソートで他人が己に向ける感情を色で感じとれる僕だが、標ちゃんも実は僕の感情を読めるんじゃないだろうか。信也と標ちゃんの感情だけは他の人と違って不思議と全く視えないので、ほんとのところどうだかは分からないけど。
「……少し、興奮していました。ごめんなさい」
根気よく問いかける標ちゃんに対して、遂に沙耶はしおらしく頭を下げた。
「ん」
短く言葉を発し、標ちゃんが沙耶の頭を撫でる。
容姿も性格も似ても似つかない二人だが、こうしてみると僕なんかよりよっぽど本当の家族に見えるな……。ちょっと、悔しい。
沙耶はというと標ちゃんにされるがまま頭を撫でられ続けている。とりあえずもうしばらく標ちゃんに任せて見よう、と僕が思った矢先に沙耶は突然腰をあげた。
妹はそのまま机にむかい、持ってきたお盆から手早くジュースを取って手際よく二人の前に置いた。少し顔が赤いが多分先ほど見せた自分の行動を恥じているんだろう。
「あの、今さらですが、どうぞ。信也さん、標さん」
「さんきゅ、沙耶ちゃん」
「頂く」
二人にジュースを渡した沙耶は、お盆に載せた最後のグラス……それを手に持ち少し悩んだそぶりをみせ、ため息をついて自分の前へと置いた。
「で、沙耶ちゃんは何であんなに興奮していたんだ?」
「そ、それは……」
沙耶が、僕の方を見ようとしている。その視線をごく自然な仕草で回避しながら、信也に助けを求めるジェスチャーを送った。
「んー、もしかして俺たちに何か用でもあるのか、沙耶ちゃん?」
そこは我が家の事情を知る親友、僕の要請を受けた信也は嫌な顔一つせず話題を振って沙耶の注意を惹こうとしてくれた。
「えーと、その……」
それでもまだ沙耶は僕を見ようとしているようだ。しばらく僕が視線から逃げていると、沙耶の大きなため息が聞こえてきた。諦めたくれたらしい。
「あ、……と、その、私も今年から緑青学園の生徒ですし、お兄……あ、いえ学園の様子を知りたいと思いまして」
「ふうん? つまりソートのことを知りたい、ってことかい?」
「へっ? ……えーと、その。それは……はい。あ、でもその……」
信也の問いかけに肯定の言葉を口にした沙耶だったが、口をもごもごと動かすばかりで、一向に質問らしい質問をしようとしてこない。
(圭介、なんか妙じゃないか?)
(妙ってなにが?)
沙耶が思考のループに陥った隙を見計らい信也が小声で話しかけてきた。
「何がって……。質問に来たのは沙耶ちゃんだぞ? 本当に何か聞きたいことがあって来たんだったら今ここで押し黙りはしないんじゃないか?)
確かに。いつもの沙耶ならきちんと質問する内容を考えてくるはずである。
(おい。なにのほほんとしてんだよ、お前。このままじゃソートのこと話すことになっちまうぞ?)
気遣うような口調で肩を寄せてくる信也に、苦笑して答える。
(まぁ、沙耶も学園に入学した以上、いつまでも話さずに済ますことができるとは思ってなかったし、ちょうどいい機会だと……思うしかないんじゃないかな)
(……お前はどう思う、標?)
話を振られた標ちゃんは一度僕を見て、
(私は圭介の意見を尊重する)
とだけ言った。
「やれやれ。アウトローは俺かよ。……あー、沙耶ちゃん?」
「へ? あ、は、はい!」
信也の声に沙耶の体がばねのように勢いよく跳ねる。
「根本的なとこから聞くが、沙耶ちゃんはソートがどんなものであるか知ってるか?」
「え、と……意志とか希望が力になったもの、でしょうか?」
「まぁ、あってるちゃあ、あってるんだが……」
「本来自己完結すべき思念が何らかの干渉余波を持つこと。これが一般にソートと言われるものの広義」
うまい言葉をみつけられない信也に標ちゃんからのフォローが入る。
「え? へ?」
……入ったはいいが、沙耶は余計に混乱したようだった。
「えっとな。沙耶ちゃんは今、ソートのことを『意志や希望の表れ』みたいに言ったがソートは願望感情だけがなる訳じゃない。沙耶ちゃんの言い方を借りるなら『感情が大きく揺さぶられたものの表れ』って感じのものなんだ」
「……よく分からないです。願望は感情が揺れるものではないんですか?」
「あー、いやいや。そうじゃなくて喜怒哀楽どれにでも働くってこと。……だから中にはソートを持って苦しんでいる人間もいるってことだ」
信也は一度言葉を切って僕を見て、すぐにまた沙耶へと視線を戻した。だからいちいち僕を気遣わなくともいいというのに。
「そうだな、何か例をあげようか。例えば沙耶ちゃんが一所懸命勉強をして、それでもテストが零点だったとする。どう思う?」
「ど、どうでしょう……。えと、勉強の仕方を考え直すのではないでしょうか」
実に模範的な優等生の回答だ。
もっとも、信也と意図するものとは大分ずれているが。
「う、うーん。じゃあ何も勉強せずに受けたテストで、零点を取ったとする。沙耶ちゃん、どう思う?」
「そ、その……つ、次は頑張ろう?」
信也が困ったように頭を掻いた。
「あちゃー、そうか。沙耶ちゃんの成績なら当然そうなるわな」
「あの、私、何か駄目だったでしょうか……?」
不安そうに信也を見つめる沙耶を見て、標ちゃんが口を出した。
「信也、点数の設定が極端すぎる。沙耶は信也の言った零点のことは忘れて、自分の試験結果の統計で分布の中央値にあたる得点から十点余りを引いたものを考えるといい」
「いつも取っているテストの平均点よりも十点近く下、ですか? それだと八十点ぐらいになるんですけど……」
「それでいい。その点数で先ほど信也の言った状況を考えてみて」
「はい。えと、前者ならこんなはずじゃ、って思います。後者なら当然かな、って」
思案しながら言葉を紡ぐ沙耶に、標ちゃんが首を縦に振る。
「信也の言いたいのは多分そういうこと」
「あっ! 前者と後者は『同じソートを得る』といっても過程が違うんですね? 前者なら悲哀、後者なら楽観という観点で! 信也さん、合っていますか?」
「……」
信也が疲れたような目をこちらに向けてきた。
(なぁ、圭介。何で沙耶ちゃんはあの点数で今の話が理解できたんだろうな)
(信也。それを僕に言わせたいの?)
(悪い。この話は俺たちには精神的ダメージがでか過ぎる)
「あの、信也さん?」
再度問いかけてきた沙耶に、視線で僕とやり取りしていた信也が慌てて応じる。
「あ、ああ。合ってるぜ。つまり願望はソートが成り立つ要因の一つでしかないんだ。だから、始めの沙耶ちゃんのイメージは間違ってはいないけど正解でもない」
「はい。お陰でよく分かりました!」
『…………』
僕たちはものすごく微妙な気分で満面の笑みをつくる沙耶を見た。
「こ、こほん! しかしそれだけじゃない」
わざとらしく咳をして信也が強引に話の続きを始める。
「最初、沙耶ちゃんは前者を『やり方を間違えた』って思っただろ?」
「……? はい。何でだろう、って」
「うん。俺は『悲哀』の例だと思ったけど沙耶ちゃんは『疑問』を感じた。理解出来ないかもしれないが、さっきの例に『諦観』や『楽観』を感じる奴もいる」
「は、はぁ……」
やはり沙耶には理解できないらしい。もっとも勉強を何もしないでテストで八割以上とれる奴に、努力しても無得点の人や初めからテストを投げる人の気持ちをわかれ、というのは確かに少し酷かもしれない。
「ま、まあ、何でそう感じるのかは置いといて『同じ状態においても人によって抱くイメージは違う』……これはいいか?」
「はい。大丈夫です」
「よし、じゃ次だ。今まで話してきたのは、結果は同じだが過程が違う話。だとすると沙耶ちゃん、他に考えられる状況ってのはどんなのだと思う?」
「えーと……。過程は同じだけど結果が違う場合、もしくは前提条件が成り立たない場合、でしょうか」
「うん、合格だ。やるな」
信也に褒められて、沙耶は僅かばかり顔をほころばせた。……沙耶。そんな顔を紅潮させてはにかんだ顔を軽々しく異性に見せるんじゃない。
僕の恨みがましい視線など、信也はつゆほども気づかずに言葉を続ける。
「他にはそもそも結果がない場合……あ、これはソートが発現しないことな。それに過程と結果が入れ替わる場合、なんて状況も考えられる」
「な、なるほど」
沙耶はしきりに首を上下に動かして信也の言葉に聞きいっている。性格的なものもあるだろうが、信也の説明がそれだけうまいということなのだろう。
「じゃ、まず過程は同じだが結果が違う場合。これはそうだな……『疑問』なんて感情から起こりやすい」
「え? さっきの私ような状態でしょうか?」
「ああ。疑問っていうのはあらゆる憶測を生むだろ? さっきの例なら『やり方を間違えた』とか『名前を書き忘れた』……なんてな。考える方向性が違えば当然顕れるソートは違う」
「はい。分かります」
大きく首を縦に振った沙耶を見て満足したように信也が後を続ける。
「次はそもそも前提が違う場合。さっきのテストの例なら『実は問題が白紙だった』『テストを受けなかった』『解答がずれていた』とかだ。これは悲愴とか……あと諦観や楽観とかの感情が多いんじゃないかな、多分」
わざとらしく言葉尻に沙耶が先ほど理解できなかったものを持ってきた辺り、信也は説明を理解してもらえなかったことを結構気にしているみたいだった。
「あ、それがさっきの例で諦観を感じる人もいるということなのですね?」
「おお! 分かってくれたか!」
沙耶が理解を示したことがよほど嬉しかったのか、信也は沙耶の手を取って力いっぱい前後に振りだした。
「き、きゃーっ! し、信也さ、い、痛い、痛いですっ!」
『加減をしろ(しるべき)』
沙耶の言葉などまるで耳に入っていなかった信也は、僕と標ちゃんに両方から頭をはたかれてようやく沙耶の手を離した。
「痛ってぇ……。わり、沙耶ちゃん。あんまりにも嬉しくって暴走しちまった」
「い、いえ。それで、信也さん。先をお願いしてもいいですか?」
「ああ、ソートの場合分けの話だったな。今まで長々と説明してきてこういうことをいうのもあれだが、こんな場合分けはぶっちゃけ意味がない」
「あはは……。信也さんが仰った『勉強のやり方が違う』というのはテストに臨む前の話、いわば前提条件が間違っていたともいえますし、『解答がずれていた』というのは疑問の憶測からも生じるものですものね」
見方によってはあんまりな信也の言葉に、沙耶が苦笑をもってそう言葉を返した。
そもそも場合分けとは、物事の一つの特徴に注目して条件に応じてそれを整理するもの。信也が出したこの例のように「どの特徴を取り出して着目しても複数の条件に合致する」というようなものには用いることはできないのだ。
「そう。だからソートを正しく説明すると、どうしても初めに標が言ったようなしちめんどくさい広義になっちまうんだ。はい、以上ソートについて説明お終り」
信也はまだ一回も手をつけてないコップを一気にあおって中を空にした。それを見た沙耶が慌てて信也のコップにジュースを注ぐ。
沙耶は標ちゃんのコップにもジュースを継ぎ足そうとしたが、彼女のコップに十分中身があるのを確認するといそいそと自分が座っていた位置に座り直した。
「すみません……。私が変な誤解をしていたせいで話が長くなってしまって」
「んにゃ、沙耶ちゃんのせいじゃないさ。実際ソートをプラス的な力だと思ってる人間は世間じゃかなり多いと思うぜ」
反面俺らそのものは化け物のように扱われたりするけどな、と信也は沙耶に聞こえないよう小さな声で呟いた。
「でも、何で良い面だけしか知られていないんですか? 物事の負の面なんてそう隠せるものじゃないと思うんですけど……」
「はは、背後にゃ権力っていうおっきなもんが控えてんのさ。で、その権力者たちが良い面だけを触れまわっている主な理由は多分二つだ」
ふぅ、と一呼吸おいて信也が一気に言葉をはく。
「一つは思念の顕現っていうのを神格化させたいため。もう一つは子供しか発現しないことを逆手に取っていいように操るため。弊害を封殺するのは歴史の浅いソートを守ることにも繋がるしな」
「え? ソートって子供にしか身に付かない能力なんですか?」
「あ、こういった情報も世間には流れてないのか? ……ほんと、徹底してるな」
驚いて目を丸くする沙耶から信也は目を外し、何か言いたそうに僕を見た。だが諦観を決め込んでいる僕の姿を見て信也は結局何も言ってこなかった。
「事実は少し違う。人間が二十歳未満にソートを発現しなかった場合にそれ以降にソートが発現した、という報告例が見つかっていないだけ」
信也の言葉に続いて、標ちゃんが再び補足の言葉を入れた。
「そ、そうですか……。あ、じゃあ標さん、二十歳未満でソートが身について二十歳を超えるとどうなるんでしょうか? ソートが無くなったりとかは……」
沙耶に問われた標ちゃんは僅かに頭をもたげたが、すぐ視線を沙耶に戻した。
「コンデンシアがコンデンサーに戻った、という報告は上がっていない」
「へ? こ、こんでん? す、すみません、もう一度」
「標、そんな説明で沙耶ちゃんが分かるわけねぇだろ……」
呆れを含む信也の声に、標ちゃんは口を真一文字にしながら言葉を続けた。
「……コンデンサーはレイエスを有する全ての物体、コンデンシアとはソートを確立させたコンデンサー、と定義されている」
『……』
「え、えと……?」
前々から薄々は気づいてはいたが、標ちゃんは人に何かを説明するという行為にまるで向いていないらしい。しかしさすがは標ちゃん、場の微妙な雰囲気を感じ取り更に詳しい説明を始めた。
「レイエスはグレイスとブレエスに分けて研究がなされている。ただし現段階では物的相互間の包括即自段階の指標が研究者によってまちまちであるため、これらは本来の定義から意味だけを抽出された派生接頭辞としても機能し、先に述べたコンデンサーやコンデンシアはこのグレイスやブレエスを伴って用いられる場合もある」
——別の方向へ。
「いや、もういい標。後は俺が説明する」
「……信也の説明は、現段階の学術的見解と齟齬を有している」
あれ。顔は確かにいつも通りだが、何か標ちゃんの雰囲気が変わったような。
信也にアイコンタクトを送るとすぐに信也からも返事が飛んできた。
(信也。標ちゃん、なんか怒ってない?)
(やっぱお前にもそう見えるか? でも何に対して怒ってんだ、こいつ?)
今までの流れを考えてみる。標ちゃんの説明しようとして、それがまるで駄目で、信也が自分で説明するって言いだして。
(信也が全部説明しようとしたからじゃない?)
(なら、お前は標にあのまま説明させてもいいって思うのか?)
あのまま標ちゃんが説明……。
(無いね)
(ああ。無いな)
無言で頷きあう僕たち。僕と信也の見解は見事に一致していた。
「……沙耶」
「ひゃ、ひゃいっ」
「私が説明する」
「え、あ、あの」
僕たち、いや僕はありえないだろうから信也に助けを求めようとちらちらと合図を送ってくる沙耶なのだが、その行為がよけい標ちゃんの教鞭をとろうとする心に火をつけたらしい。
「私が、説明する」
「は、は……い」
強引に迫る標ちゃんに対して、沙耶は消えそうな声で小さく頷くことしかできない。そんな二人のやりとりを見兼ねて信也が止めに入った。
「おい標。その辺でやめておけ」
「信也、邪魔をしないでほしい」
「いやお前には無理だ」
「そんなことはない」
「そうはいうけど、お前は壊滅的に説明が下手……分かった、分かったから! なんか恐えぇよ! お前!」
標ちゃんの無言の圧力の前にすぐに信也が白旗をあげた。
「あの目……本気だぜ……」
顔から冷や汗を掻きながら信也が怯えたように言った。うん、確かにあんな目をした標ちゃんには誰も勝てないと思う。というかまず相手にしたくない。
「ただし定義とかは無しだぞ。ややこしくなる」
これだけは譲るか、とばかりに自身を睨みつける信也を標ちゃんが不服そうに見つめ返す。
「しかしそれでは説明にならない」
「いやなるだろ。さっき俺がやったみたいに何かたとえを使えばいいんだよ」
「あれは説明になっていない」
「上等だ。表に出ろ」
「外に出たいなら一人で行けばいい。今なら雨が頭を冷やしてくれるはず」
「このアマ……!」
「まあまあ。二人とも落ちつきなよ」
取っ組み合いを始めようとした二人の止めに入った僕だったが、
「うるせえ、お前は一人で詰将棋でもしてろ」
「圭介に冷静さを説かれるとは心外。謝罪を要求する」
「全部、全部……お兄ちゃんが悪いんだからっ!」
何故だか総スカンをくらった。ちょっと待て。なぜ周りには敵しかいないんだ。
そのまま僕だけが一方的に非難され続けて全員が疲弊した後、信也が折れる形で話が纏まった。纏まったが、このやるせない気持ちはなんなのだろう。
「説明する上で、沙耶の理解の程度を知りたい」
標ちゃんにも譲歩の跡が見てとれるが、なんだか全然嬉しくない。
「はい。……えっと、れいえす、というのも初めて聞きました」
おずおずと申し訳なさそうに沙耶は言った。僕がそういうふうに情報を規制していたんだからそう畏まらなくてもいいのに。真面目な奴だ。
「わかった。そこから説明する」
「は、はい。お願いします」
控え目な声でそう言うと信也の時と同様、沙耶は深々と標ちゃんに頭を下げた。
「ソート自体やその発現については、今の沙耶が理解しているもので正しい。しかしそれだけでは何故思念の干渉余波が起こるのか説明がつかない」
「あ、あの。どういうことでしょう……?」
「どんな物理現象を起こすにしてもエネルギーは必要不可欠」
「あ、そうか……」
分かりやすい。専門用語をつらつらと述べていたさっきとはまるで別人だ。……顔には出ていなかったが傷ついたのかもな、標ちゃん。彼女だって好きで分かりにくい説明をした訳じゃないだろうし。
手持無沙汰となった信也の隣へ静かに腰を下ろす。
「信也」
「声をかけてくると思ったぜ。今は沙耶ちゃんの注意が標に向いてるしな」
こういうところを敏感に感じ取れる信也に感謝しつつ、言葉を続ける。
「雨が上がったら散歩に行こうよ。その、報告書の作成が終わった後だけどさ」
ずっと窓の外を眺めていた彼女。もしかしたら今日外で遊ぶことを一番楽しみにしていたのは標ちゃんだったのかもしれない。
「だな。……本当、真面目すぎんだよ、こいつは」
今も標ちゃんのいつもと違ったたどたどしい講釈は続いている。僕らは無言の声援を送りながら再び標ちゃんの声に耳を傾けた。
「ソートにおけるエネルギーの総称がレイエス。レイエスは……そう、生物や無生物によらず全ての物体が有している」
「全ての物質がですか? えっと。レイエスはソートのエネルギーで、ソートは思念が形になったもの……え、え?」
「全ての物体が思念を持つという可能性が生まれる」
「そ、そんなまさか!」
沙耶が大きく目を見開く。まぁ、当然の反応だ。
「現場はもっとすげえよ。ほら昔話には感情を持つ動物とか植物とか出てくるだろ? 今の学者様は、与太やおとぎ話でしかなかった話を大真面目に検証してんだぜ」
自然界でソートが発見されてんだからしょうがねえんだけどな、と信也は愉快そうに笑った。
「……信也。自然が起こしたと考えられるソートと物質に思念があると考えることは必ずしも等しく結ばれる訳ではない。不正確な発言は沙耶に混乱を招く」
上機嫌であった信也だが、標ちゃんに窘められることで顔をしかめた。
「どこが不正確だよ。人間は埋葬っていう『死』の概念を認識したから思考が生まれたんだろ? だったら今日まわってきた学内通信が生きてくるだろうが」
信也はそう言うと、自分の携帯を弄って画面を標ちゃんに見せた。
「『全ての物体は何らかの形で死に繋がる要素を含んでいる』……な? なら全て物体は思考があるっつーことじゃねぇか」
もちろん改めて見せられるまでもなく、同じ学園の生徒である僕の携帯にも標ちゃんの携帯にも同じ内容が届いている。だからという訳でもないのだろうが、標ちゃんはいたって冷静に言葉を返した。
「生物にはPCDという死が初めから備わっている細胞がある。これはレイエスという概念が生み出される前から分かっていたことであり、その論文はとりたてて騒ぎ立てるほどのものではない。第一、信也の発言には二つ大きな矛盾がある」
「なんだよ、矛盾って」
「一つは種の思考の成立において。これは多義的に考えられるべき事柄であり、生物の死の認識という一義的な側面だけで論じることはできない。もう一つはその二つの関連性の問題。信也の論を正しいと仮定しても、自然界にできたICという問題までは否定できず、物体が思念を持つという考えはあくまで可能性の域をでない。現に動物の思念はパターン化によるものだと考えられており、思考とはいい難い。故にその二つは必ずしもイコール関係が結ばれる訳ではない」
お願いだから共通言語で話してほしい。僕には今標ちゃんが言った内容の一割も理解できなかったぞ。
「あの。標さんはその、プールの研究結果が間違っていると仰るのですか?」
挙手をしながら質問をしてきた沙耶に標ちゃんが首を横に振る。
「違う。沙耶、この世に永遠なんてものは存在しない。在るということは『在る』ということだけでその存在を摩耗していく。それは生物に限らず万物に言えること。全ての物質に『死』またはそれと同意義の概念が備わっていることに異議はない」
「は、はぁ」
僕に続いて新たに犠牲者が一名追加。
それにしても信也相手だとやっぱり理路整然と持論を展開するなぁ、標ちゃんは。直接言葉を向けられる信也が不憫すぎる。
しかしこの手の言葉攻めに慣れている信也は軽く肩を竦めるだけに留まり、視線を標ちゃんから沙耶の方に移した。
「ま、沙耶ちゃん。この世に存在するあらゆるものはレイエスを帯びているんだ。それならどんな物体も思念があるかもしれない、って考えはありえないものないだろ?」
沙耶は信也の言葉に呆けたように微動だにしない。
標ちゃんはそんな沙耶をただ、じっと待っていた。そのことに気づいた沙耶が慌てて平謝りをする中、標ちゃんは軽く首を振って了承の意志を示して説明を再開した。
「仮に物体全てが思念を持っていたとしても、存在する物体全てが同系統の『思念』であるという確証はない。そこで大きく生物と無生物のレイエスに線引きをした」
「生物と、無生物……まだ信じられません。あ、いえ、先をお願いします」
「ん。私たちソートに携わる者は生物の持つレイエスをブレエス、無生物の持つレイエスをグレイスと呼んでいる」
「ブレエス……」
ん? 気のせいか? 沙耶が今標ちゃんの言葉に反応したように思えたのだが。
「まぁ、標の言うように仮説の上に成り立つ考えだからな。ひっくるめてレイエスっていうことのが多いぜ」
「そっか、それがブレエスなんだ……。あ、いえ! ど、どうぞ!」
やっぱり、沙耶は知っている。
「二人ともちょっと待った。沙耶、何で沙耶がブレエスのことを知ってるの?」
「べ、別に知ってなんか……」
必死に否定してはいるけど、沙耶の顔からはすっかり血の気が失せている。……こうして直接会話をするのは久しぶりだが、できればこういう詰問でない方がよかった。だが感傷ばかりに浸ってもいられない。
「レイエスを知らなかったのにブレエスに反応したじゃないか、今。沙耶、頼むから正直に話して」
頼み込む僕に対して沙耶はばつが悪そうに小さく口を動かした。
「信也さんのブレエスがものすごく多い、って前に聞いたことがあったから……」
「俺か?」
話の引き合いに出された信也が歯切れ悪くも後を続ける。
「確かに、俺のブレエスは規格外の量みたいだが……。しかし沙耶ちゃん、何処でそれ聞いたんだ?」
「それはその。……あの、もしかして聞いてはいけないことだったのでしょうか?」
沙耶が瞳いっぱいに涙を浮かべて信也に問う。そんな今にも泣き出しそうな沙耶を前にして、困ったように信也は標ちゃんへとバトンを渡した。
「そうだとは言わない。しかしそれは、一般には公開されるはずのない情報」
「そ、そうなんですか……」
しゅん、と項垂れる沙耶から目を外して、僕は信也へと顔を向けた。
「信也、話が広まっていることに何か心当たりはないの?」
「そうは言うがな、心当たりなんてそうそう……ん? 今年俺が要留意生徒なんてものにされたあの一件は——標が否定したんだっけか?」
僕が応えるよりも先に、標ちゃん本人が先んじて口を開いた。
「否定まではしていない。あの時は、ただ判断するには材料が少なすぎると言った」
「あの時は? 今は何か思い当たるもんがあるのか標?」
「ある。今、沙耶の言葉をうけて思いついた。……これは学園の背後にあるプールと、信也の繋がりを一般生徒から逸らすための措置ではないかと思う」
「おいおい。そんなの今更すぎるだろ」
そうでもない、と標ちゃんがかぶりを振る。
「今になって一般生徒内に信也の情報が漏洩し始めたと考えれば、不可思議ではない」
「なるほど。痛くもない、いや痛い腹探られないために事実の上塗りをした訳だな」
「ど、どういうことですか?」
納得いった、と頷く信也に一人置いてけぼりをくらった沙耶が問う。
「沙耶ちゃん。関心の目が既に隠蔽したい事柄に向いている時に、有効な手は何だと思う?」
「え、と……もっと大きな関心を作る、あ」
「多分な」
つまり学園やプールは信也を単なる「問題のある生徒」として処理したいのだろう。
だがそれは情報がどれくらい深いとこまで流布しているかによっては意味を成さないんじゃないだろうか。
標ちゃんにそう進言すると、彼女もあっさりと僕の意見を認めた。
「漏洩の規模が定かでないが、圭介の言うように既に効果をもたない可能性が高い」
みなの視線が沙耶へと集まる。
そう、僕が気を配っていた沙耶でさえ既に知っているのだ。この情報は簡単に手に入る状態にあると考えるべきだろう。
「……なんか負に落ちねぇな。プールがそんなに間抜けか? 実は標にも秘匿の計画って可能性はないのか?」
「ありえない話ではない」
いつもと変わらない表情のはずなのに、そのように述べる標ちゃんの顔は僕の目に穏やかには映らなかった。本当に、何で信也や標ちゃんがこんな苦労ばかり抱えないといけないんだ……。
「おい、圭介」
声の方へと顔を向けると笑おうとして笑えてない、そんな表情の信也の顔があった。
「ここからは俺たちの領分だ。お前がそんな顔しなくていいんだよ」
違う、と反論しようとした僕の言葉は標ちゃんによって遮られた。
「信也の言うとおり。圭介が心配するようなことは起きない」
「だけど……」
「少々、脱線した。沙耶、許してほしい」
話は終わりとばかりに標ちゃんはぴしゃりと僕の言葉を遮断して沙耶に向き直った。
「い、いえ! 元々私が余計な質問をしたせいですし……でも、あの」
沙耶はすまなそうに僕たち三人を見比べている。……今は沙耶の注意をそらす方が先か。
言いたいことは色々あったが、僕は沙耶に気取られないようにこっそり二人に目配せをして聞き手役に戻ることを伝えた。元々話を終わらせたがっている二人は、すぐに了承の旨を返してきた。
「沙耶、説明の続きをしたい」
「え、え……? あの?」
「話の続き。レイエスについての説明」
標ちゃんのそんな言葉に最初は困惑した顔を浮かべる沙耶だったが、きっとこれ以上自分が立ち入れる話でもないと思ったのだろう。すぐに説明に聞き入る態度を示した。
「はい。じゃあ続き、お願いします。えと。それでこ、こん……」
「コンデンサー。レイエスを有する全ての物体をいう」
「は、はい。標さんは先ほどもそう仰ってましたけど、全ての物体ということは私もコンデンサーということになるんですか?」
「そう。そして私と……圭介は同時にコンデンシアでもある」
——コンデンシア。ソートを持った、コンデンサー。
「……。あれ? ですがコンデンシアがコンデンサーに戻ることはないのですよね?」
首をかしげる沙耶に標ちゃんがこくり、と頷く。
「先ほども言ったように、一度発現したソートが失われるといった例はまだ見つかっていない。ここで言いたいのは……そう、相互の包含関係がどのようになっているか」
レイエスを有するモノ、つまりあらゆる物体をコンデンサーとして扱う時はソートの有無に依らないためコンデンシアをコンデンサーとも言うが、コンデンシアはソートが顕現したコンデンサーだけを言うため、全てのコンデンサーをコンデンシアと呼ぶわけではない。多分標ちゃんはそう言いたかったのだろう。
「あ、なるほど……あれ? 信也さんはコンデンシアではないんですか?」
信也は口の端を上げてニヤリ、と笑った。
「ああ。俺はソートが発現してねぇ。偉そうに講釈を垂れたが、沙耶ちゃんと同じコンデンサーだ」
「え、偉そうだなんて! そ、そんなことないです!」
「さんきゅ。しっかし、どんだけ実験やってもソートが発現しないんだよなぁ、俺。ソートが顕現さえすりゃ、くだらん議論や監禁生活は終わるんだが」
『……』
ぽろりと出た何気ない一言だったが故に、僕たちは押し黙る以外の反応を信也に返すことができなかった。
「お、おいおい! 何また暗くなってんだよ、お前ら! 俺は別に何とも思っちゃいないぜ? 俺にはお前らがいるしなっ!」
俺は平気だ、信也はそう言ってニカッと歯を見せた。
「……そうだね。信也には僕らっていうストッパーが必要だ」
「……確かに」
「お前らなぁ……」
「ふふっ」
そうだ。僕たちは笑いあえているじゃないか。——笑ってないと、いけないんだ。
「ふう。喉渇いたから僕、ちょっと台所に行ってお茶飲んでくるよ」
「あ……お、お兄ちゃん……」
「うん? 何、沙……や」
声をかけられた僕は何気なく、本当に何気なく沙耶の顔を見てしまった。
——〈視て〉しまった。
ドウシテ、ママタチハイナイノ。オニイチャン。
色は黒。瞬時に。克明に。沙耶の心が、視えた。
「っ!」
思わず後ずさった。
『……』
時間が止まったように感じること数秒、
「……お茶、流し台にあるから」
呟くように沙耶がそう、声を出した。
「いや、やっぱりコンビニで何か買ってくるよ。みんな、いるものある?」
「……じゃ、俺ブラック」
「……ヨーグルト」
「おけ。沙耶は?」
「……いらない」
「わかった。じゃ、ちょっと行ってくるよ」
降り続ける雨の中、僕は傘も持たずに家を出た。