3章④
「下がってて。成瀬さん」
動揺している成瀬さんを背後に隠す。……よかった、どこも怪我はないようだ。
「壱岐圭介。貴様、どうやって牢から抜け出した」
表面上は冷静そのものだが、曳野君からも成瀬さんと同じ感情が——色が視える。
どうやら能動的に見ようとすることで視えるグレイスと違い、受動的に視えるブレエスは今まで通り自動に視えてしまうみたいだ。
「曳野君、みんなはどこだ!」
「……俺の質問に、答えろ」
曳野君の剣が飛んでくる。
剣に込められた力の動きを視る。——斬撃は横のなぎ払い、牽制の一発。
その一撃を造作もなく避ける。
剣の刃を視ている僕には彼の力の動きが手に取るようにわかる。飛んでくる軌道があらかじめ分かっているのなら、それはただの動作と同じだ。
「ち……」
斬撃を避けられたことに驚いた曳野君だったが、すぐに振り下ろしを重ねてきた。たちまち牽制だった初撃は、始めから避けられることを予測していたかのような一撃へと変貌し、振るわれた二撃目との無駄のない連撃に昇華した。
しかしいかに隙がなかろうと、元々は単発で放たれたものだ。とっさに組み込まれた連撃では何の意味もない。
二撃目も初撃同様空しく空をきった。
「雑魚が……! 調子に、乗るな!」
連撃。
きり払い。切り上げ。振り下ろし。縦横無尽に剣が飛んでくる。しかし、単発ほど容易ではないが避けられないものではない。
連携が当たらないことが分かると彼はあっさりと僕から距離をとり、剣を水平にかまえて僕をみすえた。
「……そんなに命が惜しくないというのなら、四肢が無くなろうとも問題はないな?」
曳野君は片手を剣に添えながら低く腰を落とし、次の瞬間僕の視界から消えた。
「っ!」
僕の目が彼を再び捉えた時には、彼が突きを放つのに十分な射程を与えてしまっていた。僕の隙など彼が見逃すはずがなく、すぐさま神速の一撃が飛んでくる。
闇の中で月に照らされた剣の刃の軌跡は、眩しさよりも鋭利さを際立たせるような光りかたを描いて飛んできた。
「う……!」
それは今まで正確無比に急所に向かって放たれた斬撃と違い、急所を狙うにはあまりにもピントがずれた突きだった。
だというのに僕は、その突きに微塵の余裕も感じることができない。
ソートで力の動きをみてようやく避けられる速度と力強さ。すなわち、通常なら絶対に避けられない一撃。これが、突きが急所に飛んでこなかった答えだった。
僕は悲鳴をあげそうになるのを堪え、なんとかその突きをかわすことができた。
「……貴様。その足で何故こうも避けられる」
必殺の一撃を避けられても冷静さを全く失っていない曳野君に、思わず舌打ちをしそうになった。暗がりで分からないと思ったが、やはりそううまくはいかないか。
「足……? い、壱岐君! 足から血が!」
成瀬さんの声に従い足に目を向けると、さっき鉄格子を壊すのに使った左足からおびただしい量の血が流れていた。……通りでさっきから意識が朦朧とするわけだ。
僕はすぐに彼の刀へと目を戻して、成瀬さんがこちらに近寄ろうとするのを手で制した。
「牢屋の鉄格子壊すのにちょっと無茶しただけだよ。心配ないよ」
「で、でも……」
「大丈夫だから」
そういうと、それ以上彼女は何も言わずに後ろに下がった。
「壱岐圭介」
「何、曳野君」
「鉄格子を足で壊した、そう言ったな」
「いったよ」
「……古びているとはいえ、鉄格子を生身の足で壊すとは。さぞかし頑丈な足だな?」
「そうだね。自慢の足さ」
話しかけてくる曳野君に気取られないように、落ちそうな意識に鞭をうった。……能動的に視続けるだけで頭が焼けそうなほど熱いのにこのままじゃ持たない。
「真面目には返さんか。ならばその自慢の足でこの剣、避け続けてみるがいい!」
曳野君が一足立ちに僕の懐まで距離を詰めてきた。
視る。かわす。
際限なく繰り出される斬撃を、彼が剣に込めた力動きを視てかわしていく。無限に続く応酬に次ぐ応酬。
「く……!」
「どうした、その程度か!」
しかしその一撃一撃から視えてくる動きは先ほどとは違い、千差万別といえるものだった。時に緩慢な動きで動揺を誘われ、時に速度を持って翻弄される。
その合間にフェイントが巧妙に仕掛けられていて、否が応でも左右に大きく避けることを余儀なくさせられる。いくら動きが視えていてもこう緩急の入り混じった斬撃をされては辟易するしかない。
タイミングを狂わせようと僕が彼から距離をとったり縮めたりしても、曳野君は動じることなく次の一撃に最適な距離を保ってくる。
どちらが劣勢なのかというと、それは間違いなく僕の方だった。
「! ここだっ!」
切り上げを避けた後に生まれた隙をついて、僕は曳野君の懐に飛び込んだ。
一気に僕たちの距離がなくなる。これで、どうだ!
「えっ……!?」
攻撃に移ろうとした僕だったが、突然前につんのめった。何が起きたのか分からず、立ち上がろうとしたところに、激しい痛みが足を襲った。
「ようやく左足が悲鳴を上げ始めたようだな」
「く……そうか、僕が左右に大きく避けるように剣を振るっていたのは、僕に自滅をさせるためか!」
「ふ、これで終わりだな、壱岐圭介」
追撃を入れようと近づいてきた曳野君に、腕を振り回して威嚇する。
「……ちっ、手間の、かかる!」
再び、剣の猛襲が始まる。
「ぐ……」
初めてほんの僅かに剣撃が体をかすった。
足の痛みを知覚したせいなのか、剣の軌道が歪んで視える。無理やり痛みを頭の端においやり、全神経を視ることに集中させるるが、
「っ……!」
初めのころほどうまくかわせない。
視えては、いる。だが体がついてこない。それに比べて彼の斬撃は全く衰えるそぶりをみせなかった。
「どうした? 反撃の一つでもしてみたらどうだ!」
次になぎ払いを振ることを前提に放たれた突きを紙一重でかわす。一振りごとに勢いを増してきていると感じるのは、やはり僕が疲れてきているためなのだろう。現に足の痛みと極度の緊張に、僕の精神はすでにすりきれる寸前だった。
「……まだ、まだっ!」
まだ、倒れる訳にはいかない。まだ何も終わってない。
「本当に諦めの悪い、奴だ!」
予備動作なしの一閃、見事な斬り下ろし。僕に避けることができるはずがない。
これが連撃であったのならば。
粘り続ける僕に業を煮やした結果、彼が選んだのは手数より一撃の重みだった。単体として振られただけなら、それは単調な一撃でしかない!
「ここ、だ!」
剣の振りきれていないタイミング——曳野君の動作の硬直に合わせて拳を思いっきり彼の鳩尾に叩きつけた。
「! ぐ……」
短く呻くと、曳野君は床に倒れて動かなくなった。
「はぁ、はぁ……」
「壱岐君……? 勝った、の?」
恐る恐る近づいてきた成瀬さんに、ぎこちない笑みをもって言葉を返した。
「今でも信じられないけどね」
「ううん、いい勝負だった!」
本心からそう思っていることを伝える感情色に、僕は苦笑するしかない。
「全然違うよ。彼、全く本気を出してなかった」
「え? う、嘘でしょ?」
成瀬さんから伝わる疑問の色が強さを増す。そんな彼女から目を外し、倒れている曳野君に視線を向けた。
「曳野君は全ての斬撃を剣の峰で振るっていた。いや、それ以前に一度だけ振るった突き以外はせいぜい気絶させるか動けなくする、といった程度の意思や力の流れしか視えてこなかったからね」
レイエスが強く感じられるということ、それはそれだけ思いや力が強いということを意味する。……こっちは全力だったというのに、頭が下がる。
「へ? 意思が見える?」
「あ、いや。ほらっ! 緊張した中で感情が研ぎ澄まされていたというか、相手の動きが見えたというか!」
慌てて取り繕う僕に、成瀬さんは分かったようなそうでもないような顔をした。
「そうだね……。例えばさっきの一撃あるでしょ? あれだって曳野君にしてみれば別に連撃にしてもよかったんだ。けど彼が連撃でなく単発にしたのは、僕がそういった隙を狙っているのが分かってもなお僕の動作に反応する自信があったからだよ」
突きの一撃でも分かるように、僕は持てるソートをフル活用してやっと手加減した彼と同じレベルだ。
僕が曳野君の隙を狙っていることなど、彼が気づかなかった訳がない。
「でも結局、曳野君は壱岐君の攻撃を避けられなかったよね?」
「ぐ、偶然だよ。偶然」
「嘘は駄目だよ。壱岐君、目が泳いでるもの」
「う」
確かに理由は、ある。
彼に僕が勝てる唯一の方法、それは彼の隙に乗じて渾身の一撃を叩きこむこと。いくら彼の戦闘技術が並外れていようが、攻撃の最中に動作を中断することはできない。そして、僕にはそのタイミングをソートのおかげで完璧に掴むことができた。
さっきだって力の動きがわかるからこそ彼の剣も避けられたし、その硬直の隙を最大限の力を込められたのだ。けれど技量の差から考えると、そんなチャンスは一度あるかないかだということも同時に明白だった。
そのため僕は確実な一撃を出せる機会がくるまで攻撃を避け続けていた、というわけだ。もっともその機会は一度足のお陰で潰してしまったのだから、偶然であるのは間違いない。
「ふぇええ。壱岐君、すっごい……」
ソートでタイミングを掴んでいた、という部分だけを隠してひたすらチャンスをうかがっていた、と説明すると成瀬さんはものすごく感動していた。
「いや、すごいのは曳野君だって。結局僕はただ逃げていただけだし」
「……やっぱり壱岐君は壱岐君だね」
成瀬さんはそういうとクスリ、と笑った。
「えっ? 僕そんなに逃げてばっかり?」
「そこはいまいち否定しがたいポイントだけど……あ!」
「ど、どうしたの? 成瀬さん」
「助けて貰ったのにお礼をいうのがまだだった! ありがとう、壱岐君。はい、これ」
成瀬さんから、さっき投げたICが手渡される。
「でもなんで捕まっている壱岐君がICなんてものを持っているの? もしかしてこれを持っていたから捕まった、とか?」
「ううん。これ、中身はカラだよ。えっと……僕、僕のソートをこれに込めるために誘拐されたみたいなんだ」
「うわぁ、それは名誉なこと……って言っていいのかなぁ?」
苦笑した。確かに名誉ではあるが、有難迷惑この上ない。
「ま、だからこそ僕は手加減されていたんだろうしね……ん、成瀬さん?」
成瀬さんは体を押さえて、小さく。小刻みに震えていた。
「あはは。ひ、冷えるね!」
……どうして、今まで気づかなかったのだろう。彼女は僕と違って本当に殺されかけたんだぞ。平気でいられるはず、ないじゃないか。
文化祭の時と同じように強がりをいう彼女がとても小さく思えて。僕は羽織っていた上着を脱いで彼女にそっと被せた。
「い、いいい壱岐君!?」
「風邪、引くといけないから」
今はこんなものでしか彼女の心を温められないけど……少しでもこの震える彼女に何かしてあげたい、そう思った。
「……痛っ!」
緊張の糸が解けたためか、急激に襲ってきた左足の痛みに思わずうずくまる。
「い、壱岐君……その足、本当に大丈夫なの?」
「……いや。実はものすごく痛い」
「じゃあ、急いで手当てしないと!」
「ううん、みんなのことが先だよ。成瀬さん、その、空蝉さんは? ソート、途中で途切れたけどあの後どうなったの?」
「はやく足を出す!」
「は、はい」
成瀬さんは手際良く僕の左足を自分のハンカチで包み、いったいどこから取り出したのかその上から紐、というより縄のようなもので止血をし始めた。……不思議だ。沙耶にしろ、女の子は何故こうも印象ががらりと変わるのだろう。
「で、あの、それで空蝉さんは?」
僕はおそるおそる質問を重ねた。
「うん? うーん。どういったらいいのかなぁ。とにかく、くーは無事だよ」
言葉を紡ぐ成瀬さんはいまいち要領を得ないが、無事だと彼女が断言している以上、空蝉さんは無事ではあるのだろう。
「そっか、よかった。後の二人はここまで全く姿を見せない所をみると、やっぱり曳野君に捕えられているんだろうね」
どちらともなくため息をついて、僕たちは倒れている曳野君に視線を向けた。
「とりあえず彼が目を覚ます前に、なんとかして動きを封じないといけないけど……」
「あ、それなら私、まだ縄を持っているから。ほら!」
僕の足を止血した縄と同じものをスカートのポケットから取り出して掲げる成瀬さん。
「……」
「壱岐君? どうかした?」
自分の左足を見る。
当然、彼女の手に握られている縄のようなものと同じものが巻かれている。……あのポケット、どうなってるんだ。明らかに容量を無視している気がするんだけど。
「あの、壱岐君?」
「いや何でもないよ。というか成瀬さん、何でそんなの持っているの?」
「てへへ。さっき空き部屋でちょっと調達したのです」
「空き部屋?」
「うん。曳野君から逃げる時ちょっとね」
「ちょっと、調達したのですか」
「したのです」
右手の人差し指をピン、と立てて得意そうに言う成瀬さん。いや、やっていることは決して誇るようなことではないと思うのですが。
成瀬さんは笑いながら、縄を手に曳野君に近づいていった。……あれ? 曳野君の剣の位置がさっきと微妙にずれていないか?
彼の剣をソートで視た瞬間、僕は何も考えずに駆けだしていた。
「成瀬さん! ごめん!」
「え?」
振り向こうとする成瀬さんの上から、自分の体を覆いかぶさるように強引に成瀬さんを押し倒した。彼女に被せた僕の上着が宙を舞う。
同時にヒュ、という風きり音が耳のすぐ近くで聞こえた。
「ちぃ……」
うつぶせの状態から振り返ると、切り裂かれた服の向こうには忌々しそうに顔を歪める曳野君の姿があった。成瀬さんを庇いながら立ち上がる。
「……驚いた。思いっきり拳を叩きこんだのに」
「ふん、どうやらその足では軸として不十分だったようだな」
「く……」
正直、一撃を当てればそれで終わると思っていた。完全に計算外だ!
「面白いことを言っていたな。機会を窺っていた、と。今一つ問う。先ほど貴様が避ける動作を必要最低限で済ますことができ、俺への一撃に渾身の力を注ぐことのできたその理由はなんだ」
「……さあね」
「そうか。答える気がないならないで、それでもいいがな」
それは、完全に余裕の感じさせるもの言いだった。
「次はこっちの質問に君が応える番だ。二人は何処だ!」
「二人? ……ふん。高倉信也と鳰鳥標なら仲良く寝ているさ。まだ、な」
「寝ている、ね。空蝉さんが探知のICを使った時、彼女はここにブレエスの反応は五つしか感じなかったって言っていたんだけど」
曳野君が口の端を釣り上げる。
「目ざとい男だ」
「標ちゃんは、本当に無事?」
「さぁ、知らんな」
「このっ!」
我を忘れて、彼の懐に飛び込んだ。
「……っ」
視えた剣の軌跡に気付き、とっさに足の動きを止める。数秒遅れて、目の前の空間が彼の剣によってなぎ払われた。……あと一歩進んでいたら確実に当たっていた。冷や汗が首を伝って床に落ちる。
「ほう。このような不意の一撃すら見切るか」
曳野君は何事もなかったかのように僕の分析をしている。そこにはもう完全に付け入る隙は見受けられない。
「しかし愚かな男だ。物体がレイエスを帯びない可能性、お前はそのことを一瞬でも思考してみたのか。規範の死というもの以外の例外を、その頭で考えてみたか?」
「え……?」
物体が死を迎えた時以外でレイエスを帯びない時、だって……?
「壱岐君! 前!」
「——少し注意が散漫ではないか? 壱岐圭介」
「くっ……!」
自分の迂闊さを呪う。
そもそも今の僕では手加減で振るわれる一撃すら、事前に視えていても紙一重でしか避けることができないものなのだ。
曳野君の剣に注意を戻すも、剣が既に振られた後では軌跡をたどるだけで精いっぱいだった。避けるのは諦め、手で衝撃がくる個所を防御した。
「ぐ……」
衝撃の緩和には成功したが、腕の内側から強い痛みが襲った。
「ちっ」
僕が思ったほどダメージを負ってないことが気に食わないのか、彼は小さく舌打ちをした。
「……やってくれるね」
「おや。俺はてっきりわざと隙を作っているのだと思ったがな。先ほどのように」
一見すると、高慢ちきな態度をとっている曳野君は油断しているように見える。しかし探るような目つきや、視える彼の感情色がそれを否だと告げる。
ソートは既に視切られていて、挑発を仕掛ければ逆にこちらが絡めとられる。おまけに戦闘能力の差は歴然。どうすればいいんだ! どうすればこの場を切り抜けられるっていうんだ……!
「この茶番は長過ぎた。幕引きの時間だ」
「何をいって——ぐっ!?」
「ふ。やはり視るソートとは言っても、知覚の追いつかない速度には対応不可能か」
僕は壁に叩きつけられて初めて、剣によるなぎ払いを受けたのだと分かった。
「壱岐君! ……きゃっ!」
曳野君は僕に駆け寄ろうとした成瀬さんの足を引っ掛けて彼女を転ばせると、彼女の腕を掴んで強引に自分の元へと引き寄せた。
「言ったはずだ、貴様では壱岐圭介を助けることは無理だと。——貴様も、な!」
「きゃあっ!」
張り詰めた空気の中、もう一つの聞きなれた声が静寂に響く。
壁に打ちつけて痛む首を声の方にやると、脇腹を手で押さえた空蝉さんが苦しそうに呻いていた。
「闇に乗じて奇襲をかける腹積もりだったのだろうが、貴様の接近に気づかぬ俺だと思ったか? ……全く、己が役を取り違えた駒ほど使えぬ物はないな」
倒れ伏す彼女に向けられた、曳野君のその冷たい目はすぐに剣へと戻される。
無力は咎だと言わんばかりに、曳野君がえらく緩慢な動作で成瀬さんに向かって刀を振り上げる。出番を終えて舞台から降り、一介の観客となり下がった僕たちに劇の進行を止めるすべはない。
だが。
その裁断の槌が振り下ろされることはなかった。
「……こ、この音は? け、携帯の着信音?」
それはまるで彼自身の心の悲鳴を代弁するかのように、彼の懐から周囲へと響き渡った。
「……」
曳野君が忌々しそうに顔を歪めて携帯を手にとる。
電話の相手が何かを読み上げるようにつらつらと言葉を発しているのに対して、曳野君は何も答えない。電話に答える曳野君の顔には先ほどのような不快感はもうなく、なんの感情も浮かんでいない。
時間にして五分足らずが過ぎたころだろうか。曳野君は手慣れた様子で携帯電話を懐に戻すと、成瀬さんの手首を放して彼女を軽く突き飛ばした。
「きゃ……」
崩れ落ちる成瀬さんには一度も視線を向けることなく、曳野君は無言で空蝉さんの方へと歩き始めた。
「! くー! 逃げて!」
傷が深いのか、空蝉さんは立ち上がれない。僕たちが固唾を呑んで見守ることしかできない中で、二人の距離が零となる。
「……ふん」
『——え?』
近づいてきた曳野君に倒れ伏したまま身構える空蝉さんだったが、彼はそんな空蝉さんを一瞥するだけで傍を通り抜けた。
「ま、まって曳野君! どう、どうして?」
曳野君は成瀬さんの声に足を止めて振り返ると、心底嫌そうに這いつくばる僕たちの顔を順に見比べた。
「鳰鳥標に聞け」
それだけ言うと、曳野君は踵を返して闇の彼方へと歩み始めた。それに従い、彼の体が闇と同化していく。やがて闇の中には足音だけが残り、その足音も気配とともに次第に遠のいていった。
曳野君の気配が完全に消えたことを感じとった僕たち三人は、三人が三人とも一気に脱力して、今いる場所そのままの地点に手足を投げ出して倒れ伏した。
「な、なんとか助かったねぇ」
「何が『助かったねぇ』よ! 本当にあなたって子は!」
「まあまあ、空蝉さん。もう曳野君はいないんだし、落ちついて……」
「落ちつけ、ですって? あなたはこの全身お気楽娘が何したのか知らないから、そんなことが言えるのよ!」
なだらかな山型を描いているはずの彼女の細い眉が、いまや流線型をともなって顔に鋭い傾斜を築いている。空蝉さんは成瀬さんに対して大層ご立腹のようだ。
僕としても彼女が一人でいることを不思議に思っていたので、空蝉さんの話を聞くのに是非はない。興奮する彼女を宥めすかして、空蝉さんが怒っている理由を問うた。
「……え? 成瀬さん、一度逃げ延びたのに自らこの場所に戻ってきたの?」
話を聞いて呆れはてる僕に、成瀬さんがしどろもどろになりながら弁解をする。
「ち、違うの! よ、予想ではもっと穏便になるはずだったの!」
「やっぱり! あなた、始めからICなんか探すつもり無かったのね!? はなから曳野君に会うつもりで飛び出したわね!?」
「あ……」
しまった、とばかりに成瀬さんが顔をしかめる。
「なに考えているのよ! 本当に、本当に死んでいたかもしれないのよ!」
「こ、これだけは譲れないもん!」
空蝉さんのすごい剣幕にも、成瀬さんは折れない。二つの目をしっかりと見開き、
「だって、目の前でくーを殴ってそのままでいるなんて許せなかったんだもん! 平気で人に向かって剣を振るうなんて。だから間違ったことをしたと思いたくない!」
きっぱりとそう言った。……そういう、理由か。
「なるほど。成瀬さんの気持ち、僕は分からなくはないかな」
「い、壱岐君まで!」
慌てて僕の言葉を遮ろうとした空蝉さんを手で制す。
「でもさ。いくらそうであっても成瀬さんが空蝉さんに心配をかけたのも事実だから。そこは謝らないと駄目だよ」
「う……」
「お願いだからもっと自分の体を大切にしてよ、空」
言葉に詰まる成瀬さんに、空蝉さんが打目を押した。
「……心配かけて、ごめん」
「じゃ、仲直りだね」
まだどことなく不満顔の空蝉さんの手をとり、僕は二人の手を強引に結んだ。昼のように気まずい雰囲気になるのはもうごめんだ。
「それにしても、あの電話は誰からだったのかな? 成瀬さんは聞こえた?」
「え? ううん。あれ、何だったんだろうね?」
「……あなたたち、それ本気で言ってるの? 電話なんてプールの人間からに決まっているでしょうに」
『プール?』
成瀬さんと顔を見合わせて、僕たちは再び空蝉さんに目を戻した。
「どういうこと? くー?」
「どういうことも何もないわ。プールからそういう指示が出んでしょう」
「ちょ、ちょっと! 壱岐君を誘拐したの、プールなんでしょ? だよね、壱岐君?」
改めて問われるまでもない。僕は頷きを持って言葉を返した。
「うん、プールだよ。で空蝉さん、プールがなんで何もせず引き下がるの?」
「何か予定を変更するようなことが起きたんでしょうね。二人とも、覚えは?」
「いや、僕は特にないけど。成瀬さんは?」
「私も別に……」
もっとも例え何かあったとしても、大概のことは吹き飛んでしまったが。
「でもくー、曳野君は完全に私たちを追いつめていたんだよ? 同僚から電話を受けた程度で、何で考えを変えちゃうの?」
「成瀬さんの言うとおりだよ。僕は彼の他にもプールの人間を見ているけど、曳野君は彼らに手を出すのを禁じて、一人で全部のかたをつけようとしたぐらいだし」
矢継ぎ早に言葉を浴びせる僕たちに、空蝉さんは大きなため息をついた。
「あのね、壱岐君。その連中が彼に逆らえなかったのは、彼の立場のほうが上だからでしょう。なら当然その電話だって同じよ」
曳野君の上司、ということになるのだろうか。
「壱岐君、驚きすぎよ。彼も組織の構成員の一人に過ぎないんだから、上司ぐらいいるに決まってるじゃない」
いや、そうは言われましても。あの誰にも従いそうにない、彼にねぇ……。
「……私たちはプールに反逆行為をした人間、それでも解放することを優先させた……え? それ、って」
成瀬さんは成瀬さんで空蝉さんの言葉を咀嚼しながら、必死に自分の納得のいく答えを見つけようとしていた。
その独り言を耳ざとく空蝉さんが拾う。
「ええ。空の考えている通り、私たちは野放しにしておいてもさしたる問題ではないと思われているようね」
「で、でも! そんなの、電話越しじゃ分かるわけ——」
「『その場にその人が居ないからといって、そこに相手が存在しないということにはならない』……これなーんだ」
「それは、昨日くーが言った携帯電話の利点……え? 曳野君が受けたのも電話……私たちここに侵入した時から、プールに監視されていたってこと!?」
カタカタ、と廊下の窓が音をたてる。僅かな窓の隙間から吹いた風に空蝉さんの長い髪が、音も立てずにはらはらと揺れ動く。
「電話のタイミングが良すぎるもの。私たちを放っておいたのだって、彼らにとって優先すべき事柄が高倉君と鳰鳥さんの排除だったということなんでしょう」
「じゃあ……壱岐君がいっていた『足りないブレエス』っていうのも、私たちを油断させるための、罠?」
成瀬さんの問いかけに、空蝉さんが唇に指を添えて言葉を紡いだ。
「そう考えると、探知のICが突然働かなくなったのも納得がいくしね。……私たちのブレエスしか反応がない、なんてあからさますぎだと疑うべきだったわ」
いや、それはおかしい。そもそも足りないブレエスなんて情報は、二人が僕に接触しなければ教えようがなかった話だ。
「ええ。確かに壱岐君の言うとおり、あくまで結果論よ」
疑問を呈する僕に、空蝉さんはあっさりと肯定の言葉を口にした。
「私たちが壱岐君に接触せずに事がすめばよし。接触されても私たちに動揺を与える。納得いかない?」
「うーん……」
不満げな僕の顔を見て、空蝉さんは表情を緩めてさらに言葉をつなげた。
「じゃあ、壱岐君。あなたは他人と自分の命、どちらが大切?」
「へ? どういう意味?」
「そのまままよ。プールに拉致された友達を救いに来たけど、その行動は全て筒抜けになっている。それを知った時、あなたはどうする?」
自分が優良生だと思って考えて、空蝉さんはそう言いながら僕の目を見た。……世界すら掌握するプールと、そのバックアップを受けて存在が許されている僕らの学園。優良生は学園にとって、いつでも切れる子飼いでしかない。
「……諦めて投降する、かな」
「あら、薄情ね。壱岐君はそこで友達を見捨てるんだ?」
僕の返答に空蝉さんは口に手を当て、大きく目を見開いた。
「い、いや! 優良生ならって意味で!」
「壱岐君は私たちを含めて優良生をそんな目で見てたの? ……最低ね」
「い、いや、その」
「ま、でも壱岐君の言った通り普通は投降するでしょうね。やっぱり自分の身が一番かわいいもの」
最悪だこの人。
随分と人をからかい慣れてる気がするが、もしかして彼女はいつもこうやって成瀬さんをいじっているのだろうか。
僕は空蝉さんに関する評価で成瀬さんに同情を感じるというなんだか微笑ましいような、そうでもないような親近感を感じることになった。
「とにかく。動揺を与えるだけとはいっても、本来私たちのような立場の人間には十分過ぎるぐらい効果があるものなのよ。納得いった?」
「でもさ、空蝉さんがICで感じたブレエスは間違いなく五つだったんでしょ? ブレエスを誤魔化すことができるなんて僕にはとても思えないんだけど」
あの時点で一つ反応が多くないといけない訳だから、プールの幹部がいたとなると少なくとも二つのブレエス反応が隠されていたことになる。しかし生体反応でもあるブレエス——「人間」という「存在」を二つもこの世から欺くことなど、本当にできるのだろうか。
「壱岐君、認知っていう動作は、観測する者がいて初めて成り立つものよ」
「え? どういうこと? くー?」
僕に変わって成瀬さんが疑問の言葉を投げかけた。
「いい、二人とも。ブレエスを認識したのは確かにICのソートよ。〈探知〉のソート。なら隠蔽みたいなソートがあっても、不思議ではないでしょう?」
「隠蔽……レイエスを感じさせないってこと?」
「そう。昔話でいう天狗の隠れ蓑みたいなIC。前提がそもそも間違っていたとは考えられないかしら」
「そ、ソートってそんなものまであるの?」
「知らないわよ、そんなこと……」
驚く成瀬さんに対して、うんざりしたように空蝉さんは言った。
「ただ無いとは言い切れない、ってだけよ」
そういえば、曳野君は忘却のソートの存在をほのめかしていた。そう考えると確かにレイエスを隠蔽するソートがない、とは言い切れないのかもしれない。
「あくまで仮説よ。細部までは分からないわ。壱岐君、それに空も今はそんなことをあれこれ考えるより、しなければならないことがあるでしょう?」
最後にそう締めくくると、空蝉さんは腕を組みながら僕を見た。
「だね。信也と標ちゃんを探そう」
プールの思惑なんて、二人が無事ならどうでもいい。
「よし、じゃあ二人を手分けして探そう!」
張り切って手を掲げた成瀬さんに僕は思わず苦笑してしまった。空蝉さんは嘆息して手で顔をおおっている。
「違うの? まさかこの暗闇の中落ちている探知のICを探す、とでもいうの?」
「そんな訳ないでしょう。空、彼は一人で私たちを相手にしていたのよ? なら捕まえた人間は監視しやすいように、すぐ近くに置いておくものでしょう?」
一対多の戦闘において、一の立場の人間にとってもっとも頭が痛いのは索敵をするとき捕虜をどうするかだ。
成瀬さんたちを探し出している間に、彼女たちに捕まえた信也と標ちゃんや僕に接触されて逃げられました、という事態になったらそれはとんだお笑い草である。だから空蝉さんの言うように、常に捕虜の動向を念頭にいれておくのは兵法の基本ではある。
「まぁ、それ以前にこの暗闇の中、バラけるのはちょっとね……」
「う……。確かに手分けをして、というのは浅はかだったかもしれないけど! で、でも! くーはさっき二人の行方は分からない、なんて言ってたじゃない!」
「言ったわよ。私は彼が私たちを捕えるためにこの建物内を徘徊しているもの、とばかり思っていたからね。けど待ち伏せしていたのなら話は別でしょう?」
そう言って空蝉さんは成瀬さんに手のひらを突きだした。
「なに? この手」
「何、って懐中電灯よ。渡す気がないなら後ろから前を照らして」
いうがはやいか、すぐに差し出した手を引っ込めて空蝉さんは一番近いドアの方へと歩き始めた。その後ろを、僕たちが慌ててつき従う。
「うん。なんか、桃太郎にでもなった気分だわ。後ろには家来二匹」
「そんなこというなぁ——!」
成瀬さんの絶叫が、薄暗い闇を伝ってこだました。




