3章③
暗い廊下を二人で走る。
「はぁ……はっ……うっ! げほっ、げほっ!」
「くーっ! 大丈夫!?」
「いいから空! あなただけでも早くにげ……う!」
「そんなこと、できるわけないよ!」
「ば、か! げほっ……!」
膝をついて起き上がれないくーに、肩をかして無理やり立ち上がらせる。怪我人に鞭を打つような行為だが、今はそんなことをいってられない。
「さっきだって二人がかりでようやく隙を作りだせたんだよ! 一人になんかさせられるわけないじゃない!」
「隙、ね……」
くーが力のない笑みを浮かべる。私だって分かっている。そんなものたとえ二人でいても、もう二度と曳野君に対して作ることはできないだろう。
「……でも、何ですぐ追ってこなかったんだろう、曳野君」
逃げながら何度となく振り返った背後を見る。やはり、彼の姿はない。隙なんてしょせん一瞬、すぐに追いかけてくるのだとばかり思っていたが彼はそうしなかった。
「……ごほっ」
すぐにせき込むくーの背中をさする。
「ふう……ありがとう空。思った以上にきいたわ、あの一撃」
「当り前じゃない、本物の剣なんだよ!」
「鞘での峰打ちだったけどね」
軽口を言うくーにばか、と返した。
傍目には骨折などはしてないように見えるけど、頻繁に咳き込む辺りくーの内臓はひどい損害を受けているかもしれない。
「ねぇ。くーの状態を考えたらあんまり動かない方がいいと思うんだけど。とりあえずそこの、部屋に隠れない?」
「ん? そうね、それが一番かな。懐中電灯もどこかに落としちゃったし、これ以上この暗闇の中を闇雲に動き回るのは危険ね」
私が指した部屋にくーは何の疑いも持たずに足を踏み入れ、奥へと進んでいった。
「って、何よこの部屋! 動くたびに何かにぶつかるんだけど!」
「それは仕方ないと思うよ。だからこの物置を選んだんだから」
「物置ってどうしてそんなこと……ああ、入口にまで物が散乱していれば一目瞭然か」
くーの言うようにこの部屋の出入り口には、暗がりでおおよその外形しか掴みとれない大小さまざまなものが無造作に散乱している。
「聞いて、くー」
その中にある細長い紐状のものをかき集めて、私はそれをスカートのポケットへとねじ込んだ。
「私、高倉君たちを探してくる」
「な、何を言い出すの!? 危険すぎるわよ!」
「今危険なのは高倉君たちだよ」
「だからってあなたが自身の身を危険に晒す必要なんかないじゃない! だ、だいたいICは逃げる途中に落としちゃったのに、どうやって二人を見つけるのよ!」
「大丈夫。曳野君がくーを剣で殴った時に、落ちたの見えたから」
「でも、空っ! ちょっと、まっ……きゃ!」
頭越しに聞こえるくーの制止を振り切り、私は完全に部屋の外に出た。
背後で今までの静寂をかき消すような派手な音が響く。多分目論見通り、くーが何かに躓いて転んだのだろう。
私は床に散らばっている部屋の備品を強引にどかして扉を閉め、部屋内にあった棒のようなものを入り口に立て掛けた。これでしばらく、くーは大丈夫だ。
「……厚い、な」
私とくーを隔てているのはたった一枚の薄い扉なのに、いざ閉めてしまうとそれは異様に厚いもののように感じた。
おぼつかない足で扉から離れ、これから進むべき廊下を見た。奥に行けば行くほど、前に広がる空間は一色の黒色に染め上げられていく。
肌に突き刺さる感覚、建物に染みついた匂い、時折高く響く残響……その全てが私の体の感覚を鋭敏に研ぎ澄ませる。
ちらっと後ろを振り返ってみた。
闇だ。
全てを覆い尽くし、飲み込もうとする闇。
進むも闇、戻るも闇。
そして今の私は一人っきり。
闇の中に一人でいるということを知覚すると、自然と足が震えて動かなくなった。手には汗が滲んできて、しゃがみ込みたい衝動にかられた。
——覚悟はあるのか、委員長。
覚悟。そうだ、こんな闇なんかには飲み込まれてなんかいられない。私は必死に前の闇だけを見続けた。
敏感になった目がかろうじて闇の中にある現実を捉える。こぶしを握り締めようとすると、反応は遅いながらも手は動いてくれた。
大丈夫。行ける。
「行ってくるね、くー」
扉越しに、親友に向かってしばしの別れの言葉を告げる。
元々対して遠くまで逃げた訳ではない。震えの止まった足は、私を迷わせることなく曳野君と出会った場所まで連れてきてくれた。
「曳野くんはもう、いないのかな?」
何しろこの空間を照らしているものは僅かに漏れる月明かりだけだ。潜むことが容易なだけに正直にいって、私にはよく分からなかった。
「となると、くーが落としちゃったICを探さないと駄目かな。えーと、くーがさっき叩きつけられた場所はあの辺りだったからこの辺りに落ちてるはず、なんだけど……」
窓から差す月の光も床までは届いてくれず、暗くて全く見えない。
右往左往していると足に何かが当たってからころ、という音を立てた。屈んでそれに触れようとしたが、見つからない。
しばらく腰を落として夢中になって探し、ようやくそれを手に取ることができた。
「あ、沙耶ちゃんに借りた懐中電灯だ。……そっか、これもここに落としたんだ」
懐中電灯は先ほどくーが牢屋の当たりをつけた部屋の近くに転がっていた。今しがた拾ったばかりの懐中電灯をきゅ、と握りしめてその扉を見つめた。
「壱岐君、待っててね。……絶対助けてみせるから」
「貴様には無理だ」
とっさに声のした方向に光を当てた。
白色の閃光が闇に紛れた影をあぶり出し、人影に色が灯る。——曳野君は腕を組んだ状態で、背にある壁にもたれながら私を見ていた。
「いつから、いたの?」
立ち上がって睨みつける私に、彼は口を歪めて笑った。
「この場から離れ、この場に戻ってきたのは貴様だろう」
「ここから全く動かなかったっていうの? ど、どうして?」
動揺する私を見て曳野君が鼻を鳴らす。
「少し考えてものを言ったらどうだ? 貴様たちの目的は壱岐圭介の奪還だろう。なら何処に行こうと遅かれ早かれ此処に来るのは明白だろうが」
待ち伏せをしていた、ということなのだろうか。
「……ねぇ、じゃあ高倉君と鳰鳥さんは、どこ?」
「知らんな」
驚くほど短い一蹴だった。
「本当に? あなたが二人に何かしたんじゃないの?」
「くだらないことを言っている暇があったら、それを使って作業を再開したらどうだ? 俺に聞くよりその方が確実だろう」
そう言って曳野君は顎で懐中電灯を指した。
「いいわ、あなたの手は借りない。でも、一つ。これだけは絶対に譲れない」
油断なく佇んだまま微動だにしない曳野君に対し、私は抑えようのない怒気を隠さず言った。
「くーに……くーに謝れ!」
「何故だ」
「それで、くーを叩いたでしょう!」
壁に立て掛けている真剣を指さす。曳野君は腕を組んだまま、ちらりと目だけを動かして私の指が指し示す剣を見つめた。
「だから?」
「だから、じゃない! 一歩間違えばくーは死ぬところだった!」
「無駄口を叩いている暇がお前にはあるのか」
「無駄口!? あなた、私を馬鹿にしてるの!」
「……ち」
その一動作で、私は曳野君が自分とは別の種類の人間だとようやく悟った。
「……ねぇ、あなたは、なんなの?」
曳野君は答えない。私の言葉だけが空しく響く。
「プールってほんとに、なんなの? なんで、こんな酷いことを平気でするの!」
「貴様には知る必要がないことだ」
曳野君はそう言うと、横に立て掛けていた剣に手をかけた。
「ICを探させてから消そうと思ったが、もういい」
曳野君は切っ先を一度こちらに向け、流れるような動作で剣を鞘から抜き放った。
剣の軌跡に少し遅れて、刀に注がれた月の光が刀身をなぞるように弧を描く。光を反射して輝くその刃はただただ、白い。
「今度は勇気と無謀の違いを学んで生まれてくるんだな」
考えるいとまもなくヒュ、という風きり音とともに剣が飛んできた。一切の無駄も感じさせない太刀筋は見るもの——これからその刃をうけるのだ、と分かっている私でさえも綺麗だと感じた。
(ああ。私、死んじゃうんだ。約束破ってごめんね、くー)
私の体に彼の剣が触れようとした、その時。
その「何か」はまるで剣の軌道を読んだとしか思えない場所に飛んできた。
彼が剣を振り抜く前に飛んできた「何か」が剣の動きを阻む。
「! くっ!」
飛んできた物体と剣の衝突を恐れた曳野君が僅かに剣をひき、その「何か」は私のすぐ近くに落ちた。
「これは……」
曳野君が動揺したのが分かった。遅れて私も飛んできた「何か」に目をやる。
「……え? あ、IC……?」
「……」
ゆっくりと曳野君がICの飛んできた方向に目を向ける。
「い、壱岐君!?」
そこには、壱岐君が立っていた。




