3章①
ひんやりとした空気にあてられて目を開けた。
体が冷たい。
「……ここ、は?」
周囲を見渡す。薄暗い。
「そうか、僕はあの時……ん? 何だ、これ?」
体が動かない。どうやら、手首を縛られているらしい。
「あれからどれぐらい時間がたったんだろうな。というか、お腹減った……」
「ふん、暢気なものだな」
呟き程度の音量だったが、その声はこのがらんどうとした中でとても大きく響いた。
「誰だ!」
嘲笑が聞こえる。さっきよりも近い。
声した方向に当たりをつけて注視したところ、人影が見えた気がした。立ち上がろうともがいてみたが、全く起き上がれない。
気がついたときには既に目の前には人が立っていた。
「無様だな。お似合いだ」
「……曳野君」
あの冷たい目をした少年は、後ろに夕刻の襲撃者を二人従えて僕を見下ろしていた。
「これを縛ったの、君かい?」
「ほう。存外に冷静だな。姦しく騒ぎ立てると思ったが」
別に冷静な訳じゃない。ただ僕には視えている。さっきから彼が僕に黒い感情を向けていることを、知っている。
「それより、随分時代錯誤なものを携えているね。銃刀棒違反だよ」
彼の持つ抜き身の大きな刀の刃と呼応するかのように、彼の目に鋭さが灯る。
「ふん。それはいったいどこのルールだ? プールという高次のルールで動いている俺に関係あるものなのか?」
「プール……やっぱり、君はプールの人間なのか」
「ふ。なかなか狡猾じゃないか、壱岐圭介」
曳野君は素早く剣を一閃し、その腹で僕の首筋を撫でた。一瞬ののち、ピリッとした鋭い痛みとともに首筋に生温かい感触が走る。
「どうだ? 更に思考が鮮明になっただろう」
相手のペースに呑まれては駄目だ。平静を装って曳野君に尋ねた。
「それで、ここは何処? やっぱりプールの管理区の一つなの?」
「貴様がそう思うのならそれで十分ではないか」
「……標ちゃんも随分な同僚を持ったものだね」
「それは貴様が言えたことではあるまい。何といってもプールの実験体と直属の監視役と垣根を越えた交友を結んでいるのだからな。おぞまし過ぎて吐き気を催す」
「それ以上二人のことを悪くいってみろ。僕は」
「何ができるというのだ? 貴様に」
何もいい返すことができず、僕はただ曳野君の目を睨みつけた。
曳野君はふん、と鼻を一度鳴らすと後は無言になり、懐から黒いかたまりを取り出して這いつくばる僕の顔の前へと置いた。
「これにソートを込めろ」
そのかたまりが鈍く光った。
影というものが光からしか生まれない以上、この暗闇の中で物体が輝くなんてことはない。けれどもそれは、自らの存在を訴えるように確かに光った。
この感覚は知っている。——ICだ。
「……嫌だ、と言ったら?」
僕のそんな返答に対し、言葉ではなく強い衝撃と痛みが体を襲った。
「ぐはっ……」
「貴様は意見など言える立場ではない」
「……ず、いぶん……だ、ね。それ、は、人に何かを、頼む態度じゃない、と思う、よ」
「口だけは達者だな」
再度、曳野君に腹を踏みつけられた。体中を縛られている僕にはそれを避けることも守ることもできない。
「ぐっ……」
いつの間にか口内には濃色な鉄の味と匂いが広がっていてそれがひどく鼻についた。視覚による情報が制限されて敏感になった嗅覚がその匂いを使って体を侵食していく。
だがそれが、どうしたっていうんだ。顔を上げて曳野君を見た。
「ひき、の君。一つ……聞きたいこと、が、ある」
息も絶え絶えに言葉を放つ僕に対し、侮蔑を含んだ目で曳野君が僕を見下ろす。
「俺が答えるとでも思っているのか?」
「ICにするってことは……ぐっ、僕のソートは、君たちにとって、意味のある……ソート、なんで、しょ?」
言葉を発する度に体にかかっている圧力が強まる。
だが、僕は口を止めない。
「なら君が応えて、くれないくれない限り、僕は……どんな、拷問をされても、これにソートなんか、こめな、い」
「……何を聞きたいというのだ」
僕の覚悟のほどを知った曳野君が言葉とともに、僕を踏みつける足の力を緩めた。
「はぁ、はぁ……どうして、標ちゃんの、行動が、予測できたの?」
放課後、思いついた疑問だ。
プールが標ちゃんの出した実験予定表を事前に予期していた、そこまではいい。けどどうやって彼らは標ちゃんの行動を予測したというのだろう。僕が真理という王手をかけるには、まだまだ駒が足りない。
曳野君がくくっと忍び笑いを漏らした。
「木の葉は森の中に隠すものだが、その一つにどうして期待を持てよう。他山に対象が赴けばどうなる。風が吹いて吹き飛ばされればどうなる」
「……予測なんて意味がないって言いたいの?」
質問なんて意味はない。これは興の乗った彼の独白、一方通行の会話だ。
だからこそ考えなければならない。彼の言葉の節から真実を、自分で見極めなければならない。
「——だから対象には有能な導き手が必要なわけだ」
人知の及ばぬ仕掛けは「神」がやる、彼はそう続けた。
全てを掌握する神。そして有能な、導き手。
「なるほどね。僕たち『三人』はプールの手のひらで踊らされていた訳か」
忌々しそうに僕を見る曳野君に対して、僕は笑みを持って言葉を返した。
「それにしても曳野君、自分たちを『神』なんて言うのは少々おこがましいんじゃないかな?」
「……貴様。どうしてそこまで鳰鳥標のことを信じることができる」
「僕には標ちゃんのことを疑うことの方が無理だよ」
ちっ、と不機嫌に曳野君は舌打ちを漏らした。
早々に僕を謀ろうとした曳野君を信用など勿論できないが、今彼の言ったことが全くの嘘だとも思えない。
僕たちの行動はどれも意図的に作り出されたものだ、と彼は言った。しかしプールによる周囲の工作がどうであれ、僕たちは完全に自分の意思で行動をしていたはずだ。
実験という名目で体の自由を縛れる信也以外は「行動の誘導」は不可能なのだ。他に誘導を意味するものがあるとするなら……それは僕たちが知らずの内に他の選択肢を除外するといった「思考の誘導」しかない。
これならば、論理的な思考回路をもった標ちゃんはその思考をトレースすることでクリアできる。おあつらえむきに、正確無比な彼女の行動は全てプールに記録されているのだから、彼女の思考パターンの把握はきっと容易だろう。
行動と精神の誘導。それにしたって問題がある。——僕という存在だ。
「プールはどうやって僕の思考を掴んだの?」
レールの上に電車を走らせるには、まずレールをひかなければならない。プールは僕という電車を乗せるレールをどうやって地面に置いたというのだろう。
「……ふん。こうやって組み伏せられるだけが貴様の非日常ではあるまい。かわりばえのない日常にも非日常というものはあるはずだがな」
日常にある非日常。入学式や新入生歓迎パーティ。そして——始業式。
それは誰もが普段の煩わしい規則や、勉強のことを忘れる出来事で。そして何より標ちゃんが、信也に与えたいと願ってきたありふれた非日常だ。
「貴様らはそれを行事と呼ぶ。実に、都合がいい」
替りなど幾らでも利く上に日時も定まっているのだからな、彼はそう続けた。……それじゃあ、標ちゃんが何度申請を出しても突き返されたこれらの行事は、僕の行動を見るためだったというのか?
「そんな……じゃあ、今日に限って僕が襲撃をうけたのは」
「決まっているだろう。貴様が一人になったからだ」
曳野君がせせら笑う。
「先に言ったように、予測など意味を持たない。だが今までに得た統計から、貴様がとりやすい行動の先に網を設けておくことはできる。今回鳰鳥標の提出した高倉信也の外泊許可申請が『強引に通った』のは、そのような特殊な状況下と主な貴様の行動との差異を明らかにするためだ」
もっとも思わぬ結果となったがな、そう言いながら彼は前髪をかきあげた。
「じゃあ秘匿なはずの信也の情報が広まっていたのも、僕がそれを知って一人で動く可能性を考えられた意図的なもの……」
確かにそれだけ念入りに調査を重ねて、幾重にも網を張っていれば機会はいつか必ず訪れるだろう。だけど、そんな長いスパンの企画などありえるのか?
「今の貴様はよく知っているはずだがな。機関がその『高倉信也のブレエスが特異』という事実を定着させるのにどれだけの時間を要した?」
「じゃ、じゃあ! 信也のことを知ったみんなの目が、プールや信也にいくのは!?」
「物事は常に対になるものが存在する。『記憶』の対義語は——『忘却』」
「ソートで記憶を忘却させるってこと!? そんなの許されることじゃない!」
「貴様に非難する資格があるのか? 他人の感情をかすめ取るお前が」
「……」
これで、本当に全ての謎が解けた。プールの目的は、僕だった。
「とにかく駄賃はこれで十分……」
何か言いかけた曳野君だったが途中で言葉を切り、その端正な顔を歪ませた。
「ふん、どうやらネズミが忍び込んだようだな」
「ネズミ?」
「貴様の大好きなお友達、という奴だ。本当に、反吐が出る」
……! 信也と標ちゃんか!
「牢に入れておけ。貴様たちはその後もう戻っていい、邪魔だ」
曳野君は僕から視線を外し、後ろに控えていた二人の男に視線を投げかけた。
「しかし……」
「それでは、私たちの立場が……」
「ほう。あれだけの人数がいて、たった一人の能力者すら捕まえられない貴様らに誇る立場などがあったとはな」
『……』
「分かったらさっさと連れて行け」
『はっ』
逃れようと身を捩ったが、元々抵抗のできない僕はすぐに二人の男に捕まってしまった。
「く、くそっ! はなせ!」
「壱岐圭介。貴様は牢で大人しくしているんだな。ソートの件、ゆめゆめ忘れるな」
「誰が君の言う事なんか聞くか!」
「これは面白いことをいう。貴様がここでそんな態度でいるとどうなると思う?」
「信也はそっちのも大事な人間だろ!」
「なるほど。では鳰鳥標についてはどう考える?」
「! 曳野君、君は……!」
「一つ、物言わぬ骸が出来上がるかも知れぬな」
「……もし、標ちゃんに手を出してみろ。僕は君たちになんか絶対に協力しない!」
凄んだ僕に対しても曳野君は子供をあやすように取り合わない。
「結構。それもまた、やむをえまい」
彼は手に持った剣を腰に下げた鞘に戻そうとして、ふとどうでもいいことのように剣へと視線を注いだ。
「ああ。それと貴様はこれを時代錯誤といったが」
僅かな言葉を僕の耳が拾う。視覚が遮られるということは、こんなにも五感を鋭敏にさせるものなのか。
「女子供に銃器では拷問のし甲斐がなかろう? 何、貴様には特等席で見せてやるさ。すぐにでも機関に忠誠を誓いたくなるようにな」
「……くそ! くそっ!」
僕はただ二人の無事を願うしかできず、無情に響く冷たい鉄の音を聞いた。




