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3.香色にまどろむ

和の文字パレットさんに感謝しつつ。

3番「香色・耳雨・微睡む」

 目を開けた。眩しさにもう一度目を閉じようとして、やっぱり薄目で光に慣れようと思って、閉じはしなかった。ゆっくりと改めて薄めた目を開ける。眩しいと感じた光は、そよぐ葉の間から漏れる、淡い太陽のものだった。寝転がっている自分は、まっすぐその葉を、光の影になった木の葉をじっと見詰めた。時折吹く風に、影と光の関係が揺れ動く。陰を灯す葉の裏側に、青々とした芋虫を見つけた。小さな身体を小さく揺らしている姿は、風に落とされまいと身体をこわばらせているように見えた。でもそんな事はあるはずないから、すこしおかしくて笑った。

 止めていた息を短く吐くと、目の前の溜まっていた空気が揺れた。埃と細かい何かが示す薄い光の帯が、ゆらりと動くさまは、緑を背景にする事でより見て取れる。どうせ掴めやしないものだけど、ちょっとの好奇心が手を伸ばさせた。しかしやはり何かが変わるわけではなかった。落胆する気持ちに、思わずまた笑った。

 あげていた手を静かに床に下ろす。ひんやりとした木の冷たさ。新たに触れた腕から巡る。改めて意識すると、寝転がった背からも感じる木の感触。無機物の冷たさと、ぬるい暖かさ、ぬくもり。木の質感は、どの時代の人間にもぬくもりを与える。どこか言い知れぬ懐かしさをもたらす。触れると加工されているそれは滑りがよく、ちっとも木らしくないのに、色、香り、感覚は、木のぬくもりを示している。手のひらで、そのぬくもりを探すように、床を撫でた。自分の体温を受け取った場所と、冷めた場所。あるいは木のぬくもりとは自分のものかもしれないと、考えたところで、その手から床の振動を感じた。

 一人分の足音。近づいてくる音。裸足で、ぺたりぺたりと歩く。一定のリズムを刻んでそれは、すぐそばで止まった。わざわざそちらを見ることもない。そこにいるのは一人しかありえない。この屋敷に自分以外には彼しかいないから。

「結さん、そんなところで寝ていては、冷えませんか」

「清も寝転がってみなさいな、いつもは見えないものが見えるのよ」

 そんなこと、ずっとこの屋敷にいる清が知らないわけがない。きっと清も、同じようにこうやってここに寝転がって、まどろむように葉の影から空を見上げた事があるのだ。同じようにそれこそ何度も、何度も。それをするだけの十分な時間は、清にある。

 清がそばに座った、衣擦れの音がする。またいつもと同じ鈍い黒の浴衣を着ているのだろう。やはりそちらを見ることなく、空を見た。葉の間から差し込む光を縫うようにして、空を見る。今日の空は澄み渡るように青い。雲の白い色は一つも見えない。透き通った空の青というのは、時折怖いくらいに透明で、まるで自分がそこに溶けてしまうような錯覚を抱く。幻想であるとわかっていても、その想像はどこか切なくって、楽しい。自分がこの身体ごとあの空へ消えていったら。あの綺麗な空に、自分も溶け込んでいく。自分が空のように澄み渡り、きれいになる錯覚。美しい空に抱かれて眠る夢。と、そこまで考えて、やはり自分も俗な人間だと笑った。

 清も、こんな風に同じことを思ったのだろうか。まるで聖人のように感情の起伏を失った人。ふらりと消えてしまいそうな、そんな恐怖を感じさせる人。終わらない出口のない未来に絶望している、人。もし清が同じことを考えたのなら、どれほど残酷だろう。この屋敷の中ですごした時間は計り知れないし、その中で清が考えたことなんてすこしだってわからないけれど。想像はできる。それはきっと恐ろしく、空虚なんだと。

 そばに清がいる。それは、この短い人生の中でとても数奇なこと。

 清の浴衣に、そっと手を伸ばした。すぐ近くにあった浴衣の生地。麻と絹を混ぜた特注の生地は通気性がよくて、やわらかく滑らかな手触り。清はこの浴衣が好きだ。清の身体に触れないように、浴衣の裾の生地だけを握った。相変わらず、この目は外を見ている。

 清が言うように、最近ではすこし風が涼しくなり、すごしやすくなったと思う。やわらかい空気の香りは、季節の変わり目を指していた。朝に目覚めて外にでて嗅ぐ空気は、時折つんとするくらい変化していて、そういう変化が好きだ。肌で空気を感じると、時間の変化もわかる。人はとても空気に敏感だ。清は、目覚めたときに空気の変化を感じるのだろうか。ああ今日はもう秋だ、と、朝起きたときに微笑む事があるのだろうか。それを考えるには、まだ互いの時間を知らなすぎる。

差し込んでいた淡い太陽は、その風に流されてやってきた雲に隠されていた。すこし暗くなった世界。風が葉を揺らす音と、二人分の静かな息遣い。日常世界の音と切り離された空間に、横になっていると、自分が浮遊するような、地に足がついていない気になってくる。浴衣を握っていた手に、人知れず力を込めた。

 それに気づいたのか、まったくの偶然か。清の手が、頭を撫でた。寝転がっている頭を撫でるのは、居心地が悪いのかどこかぎこちない動きだった。ゆるやかな、一定のリズムで撫でられる。自分のぬくもりとは違う、人のぬくもり。相変わらず、清の顔は見なかった。

 人に撫でられるというのは、こうも気持ちがいい。生まれる前の体温に抱かれる安心感。それが二度と得られぬ偽りであると頭で理解していても、抗いがたい。抱かれて、そのまま眠ってしまいたい。今日は清に外の世界の事を話そうと思っていたのに。ああ、でも、こうしてまどろんでいるのも、いいのかもしれない。

 目を閉じる前、最後に見えたのは、小さな芋虫のいなくなった葉の裏。影に揺れる、葉の色だった。



 彼女が来るたびに、胸が締め付けられると感じた。この屋敷から出られない僕に、彼女は何度も通って、話しかけてくれた。彼女にとってそれが、なんの役に立つのかわからない。けれど、僕にできた唯一の楽しみ。それを手放したくないと思うように、なってしまった。

 聖人といわれているこの僕の手は、大切な人に触れる事さえ躊躇ってしまうというのに。世界はこんなにも、まどろむ僕たちに優しくない。


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