壁の外へ
「姉さんは身体を売っている。僕がこうして暮らしているのは、身体で稼いだ汚いお金のおかげなんだ。僕は前に実家からの仕送りを受けていると言ったけど、大部分は姉さんの援助を受けているんだ。悔しい事実だけどね」
それが、茉莉花さんの正体だった。
「茉莉花さんが、そんなことを……?」
「驚くのも無理はないだろうね。同性を愛することもできれば異性を受け入れることもできる、姉さんはそういう人なんだ。このことこそ、もっと早くに言うべきだったのかもしれない」
翔さんがあっさりと茉莉花さんの秘密を明かしてしまったので、私は驚くことすらできなかった。つらつらと考えてみる暇さえなかった。
思い返してみれば、章さんがあれだけ茉莉花さんのことを悪く言っていたのは、こういうことだったのだ。その事実を知らなかったのは、私だけだった。
「僕と姉さんは水と油なんだと思う。でもね、それは同族嫌悪でもある。僕も姉さんと同じなんだ」
「それって、もしかして」
「そうだ」
もちろん、翔さんは身体を売るようなことをしていない。翔さんが言いたいのは、そういうことなのだ。
今でこそ当たり前のように述懐することができるけれど、このときは冷静ではいられなかった。私の頭は働くことをやめて、耳は一切の言葉を受け付けなくなった。辛うじて、翔さんの言葉尻を捕まえることはできた。
「――のことが好きだ。でも、君には選ぶ権利がある」
「……えっ?」
「だから、君には選んでほしい。僕か、姉さんか」
「意味が、分からない。意味が分からないよ、翔さん」
「……」
底なし沼のような沈黙が、私を待っていた。私の隣に座る章さんも、視線を合わそうとはしなかった。
考えるまでもなく、結論は出ていた。けれど。
「もう一度、茉莉花さんと会って話をしてみたいの。私のわがままを許して」
「そうだね。僕も少し結論を急ぎすぎた。この時間に行けば嫌なものを見ずに済むだろう。僕も行っていいかな?」
「もちろん。ただ茉莉花さんと話してみたいだけなの」
翔さんが立ち上がった。私の横に座っていた章さんも立ち上がり、私にこう言った。
「俺は帰ることにする。咲良ちゃん、今日はありがとう」
「こちらこそありがとう。思い出の場所に行くことができて、とても嬉しかった」
「うん。翔、咲良ちゃんのこと、よろしくな」
翔さんが力強く頷いた。
その年に章さんに会ったのは、それが最後だった。春には良い報告を聞けることを願って、章さんとは別れた。
電車に揺られて移動している間、私の心臓の鼓動はいつになく強く感じられた。そっと翔さんの手を握って、その緊張をほぐした。顔を見合わせたとき、翔さんは私の結論を感じ取ったようだった。表情だけでお互いの気持ちを推し量れることが何よりも嬉しかった。
茉莉花さんの部屋を訪れたとき、時刻は午後三時を回っていた。日毎に日照時間が短くなってきていて、日中のうちに決着をつけるのは難しいかもしれないと思った。茉莉花さんの夜の顔を見ることは、できれば避けたかったのだけれど。それでも翔さんが隣にいてくれたから、心細さはなかった。
茉莉花さんはいつものように丈の短いスカートを履いていた。その日は翔さんが生活費を受け取る日ではなかったから、茉莉花さんは物珍しさを感じたようだった。そして、鋭敏な嗅覚が私たちのただならぬ様子を感じ取ったらしかった。茉莉花さんは表情を引き締めると、私たちを中に招き入れた。
「今日はどうしたの?」
卓についたところで茉莉花さんが口を開いた。茉莉花さんは太陽の沈む西向きの窓を背にしていて、得も言われぬ圧力を演出していた。私は卓の下で翔さんの手を握ると、唾を飲み込んでからこう言った。
「茉莉花さんのお仕事について聞きました。あれは――身体を売っているというのは、本当なんですか?」
「ええ、本当よ」
茉莉花さんは表情を変えずにそう言った。まるで最初から隠す気などなかったというように。
「でもそれがどうしたっていうの。汚れた女にキスされたことが、そんなに不名誉かしら」
「それは……違います。でも、あの口づけの意味を理解せずにはいられないんです」
「理解、ね。それは理解できなくて当たり前よ。だって、ただ欲情しただけだもの、何も知らない貴女の肉体にね」
茉莉花さんは語調を強めてそう言った。いつになく気分が昂ぶっているようだった。
「そもそも茉莉花さんのような人が、どうしてそんなことを?」
「いい? 人間が見せている顔は嘘ばかりなの。皆が何かを隠して生きている、とても窮屈な時代なのよ。私は壁の中に引きこもらずに生きているだけ、それの何が悪いの? 貴女の隣にいる翔のように何もかも隠して生きるのが幸福だっていうのなら、私はそんなのまっぴらごめんよ」
「私は別に茉莉花さんのことを責めてるわけじゃないんです」
「そうかしら? 汚い肉体に触れられたことを後悔しているんでしょう。歪んだ愛情を持たれたことを憎んでいるんでしょう。でもね、歪んでいるのは翔も同じこと。それでも翔を選ぶっていうの?」
「翔さんが茉莉花さんと同じだということは、私も知っています。それでも、私は翔さんのことが好きです」
今まで俯いていた翔さんが、そっと顔を上げた。茉莉花さんも意表を突かれたような表情をしていた。
「あら、翔の趣味も知っていたのね。あの章って子とどんな関係を持っているか、分かったものじゃないけれど」
「姉さん、章のことは関係ないだろう。それに僕と章とは、ただの親友だ」
「どうかしらね。男は口では強いことを言えても、欲望には弱い生き物だから、本当のところは分からないわね」
翔さんと茉莉花さんとの間で舌戦が始まりかけたので、私は慌てて話を引き戻した。
「どうしてそんなに高圧的でいられるんですか。私たちはもう、茉莉花さんの掌の上で踊っているわけじゃないんです。私たちはもう、自分の道を歩み始めているんです」
「ふん、こうして私の部屋に来ている以上、そんなことを言っても通用しないわ。それに貴女はまだ私の魔法にかかっているままよ」
不意に茉莉花さんの手が伸びて、私の右腕を掴んだ。そして手首を引きずり出すと、そこにあるはずのものに触れようとした。しかし――
「ミサンガが……、ない」
「私はもう、以前までの私じゃありません。今日はお礼を言いに来たんです」
「お礼……?」
翔さんも茉莉花さんも不思議そうな顔をした。私は立ち上がって、茉莉花さんに頭を下げた。
「ナポリタンやフリカッセやコーヒー、色々なものをご馳走してくれて、優輝のミサンガを拾ってくれて、新しいミサンガまで編んでくれて。今まで短い間でしたけど、ありがとうございました。でも、私はもう貴女のものじゃありません」
「違う! 貴女は私の大事な大事なお人形、フランシーヌ人形なのよ!」
「姉さん、自分に都合の良い人間を人形に仕立てあげるなんて、それは無理なことだよ」
茉莉花さんが崩れ落ちて泣き始めた。それは私が見た、最初で最後の茉莉花さんの涙だった。
「また私を置いて行くの? また独りぼっちにならないといけないの? ねえ、ねえ……!」
「……」
最早、何も言うべきことはなかった。私たちは空白を残して、茉莉花さんの部屋を後にした。涙だけが、後に残った。
それからは色々なことが起こった。まず、茉莉花さんは数日のうちに部屋を引き払い、この街から姿を消してしまった。そうなると翔さんの収入源も失われてしまうことになるので、翔さんは実家のある東北へ帰郷することになった。あるいは茉莉花さんも帰郷したのではないかと思われたけれど、その後に翔さんから貰った手紙には、茉莉花さんの行方は分からないと記されてあった。
一方で嬉しい出来事もあった。章さんが無事に目標の高校への入学を果たしたことだ。同じ高校の中で翔さんと生活することはできなくなってしまったけれど、一つの成功体験をしたことで自信がついたらしく、すぐに同じ高校の同級生との交際を始めた。もちろん、その相手は女の子だ。
私はというと、その夏から冬にかけて起こった様々な出来事が嘘だったかのように、平穏な生活を取り戻した。翔さんとは大学を卒業した後にこの街で再会することを約束した。私の大事な人は、きっと約束を守ってくれるだろう。
その数年間を、私は優輝と暮らしていくことにした。今までのように月に一度は優輝のお墓を訪ね、花を手向けて冥福を祈る。その生活を一途に続けたのだ。
そして今、私は丘の上の墓地で電話を受けた。画面に記された懐かしい名前に、思わず涙がにじみそうになった。
「もしもし、木戸咲良です」
電話の相手はしばらく沈黙を続けた後、こう言った。
「久しぶり。私の大事なお人形さん」