非在の人
人というものは、自分の弱くて脆い部分を見せ合うことで距離を縮め、親しくなることがある。残念なことに私にはまだそんな生き方はできなかった。おそらく章さんも。私は死んでしまった幼馴染の弟のことを知ったし、章さんは兄が想っていた女のことを再認識した。だけど、それで関係が深まったかといえば、そうではない。むしろ隔たりのようなものができた。そしてそのために、私たちはそれを飛び越えるための努力を始めた。
きっかけは章さんからのメールだった。勉強のことで相談がしたいという、ただそれだけのメール。私がいくつかのコツを教えてあげると、すぐに返事がきた。
『ありがとう。ところでこの前の件だけど、ミサンガのことは本当にごめん。兄さんがミサンガをプレゼントしたことは知ってたから、ついカッとなってしまった』
『ううん、大丈夫だよ。優輝からもらったミサンガはちゃんと保存してあるから。ボロボロになってしまったけれど』
『何度も言うけどありがとう。兄さんのものを大事にしてくれてるなんて知らなかった。今度、俺に見せてくれないかな?』
『もちろん。今度の日曜日は翔さんの部屋に来るの?』
『母さんがうるさいから、どうだろう。行けそうなら行くよ』
『ねえ、章さんのお母さんにご挨拶すべきかな?』
『それはやめてほしい。母さんは昔のことをまだ引きずってるから』
『そうだね、ごめん』
遺された者という意味では、私と章さんは同じ立場にいるのかもしれない。それでも現実はそんなに単純ではなかったし、私たちの気持ちもしっくりこなかった。私の忘れてしまいたい、けれども覚えていなければならない記憶の中で、優輝は車に轢かれそうになった私を庇って死んでしまった。今でも胸が苦しいのは、私に少なからず罪の意識があるためだった。私と章さんの気持ちがしっかりと噛み合わなかったのは、その部分に問題があったからだ。
私は優輝を死なせてしまったことで、優輝の人生を不幸にしてしまったのだと思っていた。まだ花咲かぬまま散っていった命を惜しむ、それは当然のことのように思えた。
章さんはといえば優輝の人生が不幸なものだったとは考えていないようで、その一方で遺された家族が不幸になってしまったと考えている。両親は優輝の死のために離婚し、そして自分自身もその影響を被ったと。優輝の遺族のことは私に知らされていなかったとはいえ、私は今までそのようなことを想像もしなかった。結局、私は自分のことしか考えていなかったのだ。
結局のところ、優輝の人生は幸福だったのだろうか? それを判断できる唯一の人間は、もうこの世にはいない。
私がこの数ヶ月で初めて知った翔さんの一面に、不安定さがある。それまでに恋人を持っていなかった私は、翔さんに対して理想を求めすぎていたのかもしれないけれど――言うまでもなく翔さんは素敵な人だ――、翔さんは思った以上に不安定なところがあった。多くの場合、その原因になっているのは茉莉花さんだった。月に一度、茉莉花さんの部屋を訪ねた後には、必ず不機嫌そうな顔をする。私の見たところ、それは単に苛立ったり拗ねたりするわけではなくて、暗い水の底に落ちていくように、情緒が不安定になっているらしかった。
生活費を受け取るだけなら口座に送金してもらったり、現金書留で送ってもらうなどすればいいのだからと、茉莉花さんに会わずに済む方法をあれこれと提案してみたのだけれど、翔さんが頷くことはなかった。
「これは僕にしかできないことなんだ。それに姉さんが許さないよ。咲良、君が一緒に来てくれればそれでいいんだ」
「どうしてそんなことに意地を張るの? 憎いんでしょう、茉莉花さんのことが」
「君に伝えるにはまだ早いと思う。僕の気持ちと、姉さんのことを憎む理由を伝えるにはね」
「私は構わないよ。ねえ、何があったの?」
それでも、翔さんは口を開こうとはしなかった。私たちはコミュニケーション不全に陥ってしまったようだった。こんなときに頼れる人がいるとすれば、それは章さんしかいない。けれども、私の気持ちの整理が充分ではない状態で直接会って話をするわけにはいかなかったし、これは私たちだけで解決すべき問題だった。
「ねえ、一つだけ教えて。私のこと、好き?」
「もちろんだよ。それだけは絶対に言える」
今はその言葉を信じるしかなかった。
その月の終わりに章さんからメールが届いた。会って話がしたいという簡単な文章に地図情報が添付されていた。私はそこに記された名前を見て驚いた。
『星空公園』
それは私と優輝の思い出の場所で、優輝が命を落とした場所でもあった。今まで何度探しても見つからなかった、曖昧な記憶の中に沈んだ幻の場所だった。
翌日、私は指定された時間よりも三十分早く、星空公園に着いた。記憶の中よりもサインプレートはくすんでいて、記憶の中よりも公園は小さかった。私はゾウの形をしたすべり台の前に立つ章さんの姿を見つけた。
「少し歩こうか」
私たちは黙って歩き始めた。日曜の朝の公園は家族連れで賑わっていたけれども、曇り空の下ではどこか寂しい風景だった。私が悲しい記憶に引きずられていることに気付くには、そう時間はかからなかった。秋が終わり、風の吹きすさぶ冷たい季節になっていた。こうして季節を重ねていくうちに、いつか優輝のことを忘れてしまうのかもしれないと思うと、私は自分の薄情さが嫌になってきた。優輝のことを忘れずに生きていけると誓えないこともまた悲しかった。
「ここがどうして星空公園って呼ばれてるか、知ってる?」
「さあ?」
「随分と昔の話らしいけど、ここにプラネタリウムの施設があったそうなんだ。その名残で星空公園らしい」
星空公園って素敵な名前だね、と私が優輝に言った記憶がある。いつか大きくなったらこの公園で星空を見ようと、約束したことも覚えている。その約束を交わした場所で死ぬなんて、あまりにも皮肉な話だ。
それだけのことを話すうちに公園を一周してしまった。そして何も話さず、二周目も終えてしまった。私たちは何だか馬鹿なことをしているんじゃないかと、顔を見合わせて笑った。久しぶりに、章さんと笑うことができた。
「人生もこの公園のようだったらいいのに」
「どういうこと?」
「一周目の途中で別れてしまっても、また一周することで再会ができて、いつまでもいつまでも一緒に歩いていけたらいいのに」
章さんは曖昧な笑みを浮かべて頷いた。きっとどこかで、また会える。幼稚と思われるかもしれないけれど、私はそれを信じた。
「咲良ちゃん、前にも言ったけど、兄さんは幸せなままで死んだと俺は思ってる。だからいつまでも自分のことを責めないで、自分の人生を生きてほしい」
「違うの。章さん、それは違う。私は自分の意志で優輝のことを想い続けるの。優輝も翔さんも私が選んだ大事な人だから、いつまでも傍で暮らしていたいの。優輝と翔さんは、他の誰にも渡さない」
「……そうか。女ってのは恐ろしいものだなあ」
私は今までのように守られる存在ではなく、大事な人たちを守っていく存在になりたいと思った。そのために私は、曖昧なままにしていた関係をはっきりさせなければならないのだ。
「私、大事な告白をしておきたいと思って」
私たちはそのまま翔さんの部屋を訪れた。今日の翔さんはいつもと変わらない様子で、白い頬がほんのりと紅く染まっていた。私は優輝と章さんのことを打ち明けた。私の言葉にじっと耳を傾ける翔さんの表情は、外から見る限り何の変化も見られなかったので、翔さんがどんな想いでいるか、判断がつかなかった。私が全てを話し終えたとき、翔さんは目を瞑っていた。そして天を仰ぐと息を吐き出し、私に向き直って口を開いた。
「そうか、君には忘れられない人がいるのか……」
「ごめんなさい。もっと早く言うべきだった。隠す必要なんてなかったのに」
「謝らなくてもいいよ。……それに、僕も告白しなければならないことがある。姉さんのことについて、君が知らないことをね」
いよいよ覚悟を決めた、翔さんはそんな表情をしていた。私の告白が翔さんの心を揺り動かしたらしい。
私もまた、覚悟を決めた。どのようなことを打ち明けられても受け止める覚悟を。私が恐る恐る知りたいと望んでいた茉莉花さんの本性。それは、私には到底想像もできないようなものだった。