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深い深い秋の中で

 夏目翔。私が初めて付き合ったこの男性は、とても魅力的な人だった。意地悪で言葉が悪かったりするけれど、心根の優しい人だった。貧弱で少し頼りない風貌だけれど、顔立ちは整っているし、機転が利いて行動力もある人だった。ただ、私と同じように異性というものに慣れていなかった。

 お酒の力を借りて私に告白してきて以来、恋人同士という関係になったというのに、手を触れることさえ恐ろしいといった様子だった。私もそんな彼を直視することができなかったのだから、傍目にはとても不器用な二人と思われたに違いない。映画を見たりゲームセンターで遊んだりカラオケに行ったりと、ごく当たり前のことはしたけれど、それ以上のことは何もなかった。あまりにも劇的な始まり方だったから、平凡に関係が推移していったのだろうと思う。

 章さんはといえば、本人も言っていたように夏休みを終えた後はあまり顔を合わすことがなくなった。それはもちろん勉強に専念するためでもあっただろうけど、どこかで私たちに遠慮していたのかもしれない。時間をかければ分かり合えるかもしれない……、その時間は無情に流れていった。

 時間が流れても変わらないものはあった。私は新しい一歩を踏み出してからも、月に一度は優輝のお墓を訪れた。あの夏の終わりにお墓参りをしたとき、蝉がけたたましく鳴いていた。墓地に聞く蝉の鳴き声はどこか物悲しい。その鳴き声があまりにも切ないので、その他の雑音を一切遮断しているように思えて、墓地はその静けさの中に沈んでいるのだった。その思い出と同じように優輝は変わらずそこに存在している。けれども、私の気持ちは変わってしまった。

 部屋に飾ってある写真立てには、私と翔さんの写真が新しく入った。




 十月に入った頃、珍しく章さんが訪ねてきた。その日曜日は私も翔さんの部屋にいて、二人でトランプをしながら遊んでいたところだった。翔さんはすっかり舞い上がって、私たちは三人で出かけることにした。三人とも特に目的もないままに電車に乗った。私は初めて三人で出かけた日を思い出して、映画を見に行こうと提案した。二人とも私の提案に賛成してくれて、話題のアクション映画を見た。そしてあの日のように、牛丼を食べた。その後は倉田駅の周辺をぶらぶらして、あの帽子は翔さんに似合うだとか、そのマネキンが私に似ているだとか、つまらないことを話しながら随分と歩いた。

 あるとき、翔さんがトイレに入って私と章さんが二人きりになる瞬間があった。いつかのように気まずさは感じなかったけれど、やっぱり話題がなかった。翔さんはなかなか戻って来なかった。


「あの……」

「あのさ……」


 私たちは同時に言って、同時に笑った。一瞬にして二人の距離が縮まった気がした。


「今、何時かな?」


 私は左手の腕時計を見せながら時間を伝える。


「三時五十分。もう帰る時間?」

「うーん、もうちょっと大丈夫かな。最近はあまり遅くまで出歩くと親がうるさいんだ」

「受験生だもんね、章さん」

「そうなんだよ。……ねえそれ、誰かからの贈り物?」

 

 章さんは私の右手のミサンガを指さして尋ねてきた。何となく恥ずかしい気もしたけれど、私は正直に答えた。


「茉莉花さんからの贈り物なの。前に使ってたミサンガが千切れちゃって」

「へえ。ってか、普通にタメ口になったね」


 あっ、と言って私はまた笑った。翔さんや章さんと出会ってから、私は笑うことが増えたような気がする。


「なんとなく嬉しいなあ、咲良ちゃんがタメ口なのは。委員長キャラを攻略した感じ?」

「何それ、よく分かんないよ」

「そうだよなあ。まあ、攻略したのは俺じゃないんだけど。でもさ、何かあったらいつでも相談してよ」

「何か、って?」

「もしも翔と上手くいかなくなっても、いつでも俺の胸に飛びこんできてもいいよってこと。俺、咲良ちゃんのこと好きだからさ」

「やっぱりよく分かんないよ」


 章さんは笑顔を浮かべてみせたけれど、どこか目が笑っていないような気がして、私は視線を外した。


「今のは冗談。でも、もし翔のことも不幸にしたら、俺は咲良ちゃんのことを許せないかもしれない」

「不幸には……しないよ」

「うん、今はその言葉を信じるよ」


 それからすぐに翔さんは戻って来た。




「トイレに行ってる間、何を話してたんだい」


 章さんと別れた後、駅の構内で翔さんが何気なく訊いてきた。隠す理由もないと思ったので、私はありのままを話した。章はふざけてそんなことを言ったんだよ、と翔さんは言った。私にはそうは思えなかったけれど、とりあえず頷いておいた。

 もうすぐで私たちがこの関係を始めてから三つ目の季節を迎えようとしている。夏を超えて秋に入り、そして冬へ。季節が移り変わる中で私たちの環境もまた変わりつつあるけれども、二人で季節を乗り越えていくにはまだまだ圧倒的に時間が足りないと思った。お互いに向かい合って話をするというのも気恥ずかしく思えたけれど、私たちにはそうする必要があった。だというのに。まだ若い私たちはそれすらもできずにいた。

 季節が変わっても、いや、秋が深まるごとに日曜日の夕方は憂鬱になっていく。休日を満喫した行楽客や眠った子供を抱いた父親などが、私たちの横を通りすぎていく。いつかは翔さんとあんな風になるのだろうか。とても想像がつかなかった。翔さんはいつも別れ際にするように、私の手を握りしめた。力強く握ってくる翔さんの手から自分の手をゆっくりと引き抜いて、名残惜しいままに別れる。今日もそれで終わるはずだった。


「待って」


 いつになく翔さんに呼び止められて、そして、私たちは口づけをした。一瞬、周囲の雑音が聞こえなくなった。軽く唇を重ねただけなのに身体の力がすっかりと抜けていくようだった。スーツ姿の男性と目が合い、人混みの中にいることで辛うじて意識を持ち直して、私はさようならと言った。それが二度目の、翔さんとの口づけだった。




 帰宅した私は真っ先に自室に入った。口づけの後でも、いつかのように身体を洗い流したくなる衝動には襲われなかった。いつの間にか、私の体質はすっかり変わってしまったようだ。

 変わったといえば、私の部屋も随分と様変わりした。勉強机の上も整理されたし、以前は脱ぎ捨てたままにしていた服などもすぐ片付けるようにした。模様替えしたためでもあるけれど、今まで雑然としていた雰囲気が整頓されて、質素な雰囲気になった。それはまるで茉莉花さんからの影響が、私の部屋に浸透してしまったかのようだった。

 茉莉花さんは私と翔さんの新しい関係を歓迎してくれた。驚きはしなかったようだ。私は翔さんのお姉さんが茉莉花さんで良かったと思ったけれど、翔さんがそのことについてどう考えているかは分からなかった。自分の彼女と姉とが口づけを交わしたなんてことは、なかなかあり得ないことなのではないだろうか。そんな私に口づけをする翔さんの気持ちもまた分からなかった。はっきりしているのは、翔さんの茉莉花さんへの憎しみは変わることなく存在しているということだった。

 その夜、私が見たのは翔さんの出てくる夢だった。ガス灯が連なる石畳の道を、私と翔さんは歩いている。霧が出ているせいでガス灯がぼんやりとした光を放っている。ある瞬間に何かを引きずっているかのようになって、私の身体は重くなった。私は前に身体を傾けて必死に進もうとするのだけれど、身体が上手く言うことを聞かない。そうこうするうちに翔さんは私を置いて、霧のその向こう側へと姿を消すのだった。私は這いつくばって前に進もうとする。けれどもやはり、身体は動かないのだった。

 目を覚ましたとき、背中に汗の湿りを感じてどうしようもない不快感を覚えた。時刻は午前四時を回ったところだった。ふと、最近は優輝の夢を見なくなったことに気が付いた。でもそんなことはもう重要なことではなくて、私は学校に行くまでにどのくらい眠れるだろうかと計算するうちに眠りに落ちた。






 私が自分自身で最も変化したと思うのは、煙草の味を覚えたことだ。前に聞かされたように、翔さんは自分の部屋で決して煙草を吸おうとしなかった。それは単に自分の部屋を汚したくないという気持ちの表れでもあったらしいけれど、多少は私に遠慮していた部分もあったのだろう。章さんは何度か翔さんが自分の部屋で煙草を吸うところを見ていたから。

 きっかけは三度目の口づけをしたときだった。それは月に一度の約束の日、つまり翔さんが茉莉花さんから生活費を受け取る日のことだった。私と翔さんの習慣の一つになっていて、二人で部屋を訪ねると茉莉花さんはいつも嬉しそうに迎えてくれた。さすがに気温が下がってくると茉莉花さんの露出は減ったけれど、それでもいつも丈の短いスカートを穿いていたりした。翔さんが無愛想にお金の入った封筒を受け取ると、ベランダに出て煙草を吸い始めるのもいつものことだった。

 その日は茉莉花さんがご馳走を振る舞ってくれると言っていたのだけれど、つい買い物に行くのを忘れていたらしく、私と翔さんに留守番を頼んで買い物に出かけて行った。しばらく一人でテレビを見ていると、煙草を吸い終えた翔さんが部屋の中に入って来た。私がソファに一人分のスペースを空けると、翔さんは私の横に座ってきた。そしていつものように、突然、私に口づけをしてきた。そのとき、私の口に流れ込んできたのが煙草の味だった。私は反射的に咳き込んで、それでいてその味を好きになってしまった。それは翔さんの味でもあったから。

 それからの私たちはよく口づけをするようになった。何度同じことをしても、翔さんはいつも照れているようだったけれど、私はといえば積極的に口づけをせがむようにまでなっていた。しかし不思議だったのは、いつ口づけをしても、顔を離したときの翔さんは苦い表情をしていた。私が下手だからそんな顔をしているのかと思ったけれど、どうやらそうではないことに気が付いた。翔さんは自分からも口づけを求めるくせに、その行為自体を嫌っているようにも見えた。

 口づけを嫌うということをまるで理解できないわけではなく、私も茉莉花さんとのたった一度の口づけのときには嫌悪感を覚えた。それでも、愛する人との口づけとそれとは全く違う。だから私にとっては、翔さんの理解し難い一面に思えた。それは理屈でどうこうできる問題ではなく、感覚的な問題だったから、それを理解するのには大変な苦労が必要だった。

 そしてもう一つ分からなかったのは、茉莉花さんが私のことをどう考えているかということだった。あの口づけの意味を、私はまだ理解できずにいた。それでもというか、そのために茉莉花さんとの関係は変わらずに続いた。茉莉花さんが苦心して調理し、翔さんがそれに厳しい評価を下し、私が二人を微笑ましく見守っているような関係が。たった数ヶ月前に始まった私たちの関係は、いつまでも続くかのように思われた。




 十一月の第三日曜日に私は優輝のお墓を訪れた。いつも月の中旬の日曜日に墓地に来るようにしていて、翔さんもその習慣については知っていた。ただ、何となく言いづらい気がして、昔の幼馴染のお墓参りをしているということまでは言っていなかった。それを言ったところで翔さんは私を非難しないだろうし、翔さんに嫉妬の恐ろしい効能を味わわせることもできたかもしれない。けれど、そんなことを私は望まなかった。第一、翔さんはその程度のことで嫉妬するような人ではない、と私は信じていた。

 その日は茉莉花さんとすれ違った日のような曇り空だった。あいにく傘をバスの中に忘れてしまった私は、すぐにお墓参りを済ませて帰ろうと考えながら丘を登った。登ったところで、墓地の入り口に見慣れた人影があるのが見えた。章さんだった。


「どうして、こんなところに?」

「大事な人の墓があるんだ」


 章さんは私から視線を外してそう言った。誰のお墓を訪ねてきたかは、何となく想像がついた。きっと茉莉花さんの元同居人と知り合いだったのだろうと。私たちは並んで墓地の中に進み、そして同じお墓の前で立ち止まった。


「これは兄さんの墓だ」


 それは、優輝のお墓だった。私は頭が混乱してしまって、返す言葉が見つからなかった。たしかに優輝には一つ下の弟がいた。けれど、けれど……。


「俺の旧姓は寺本。今は母親の姓を名乗ってる」

「そんな……」


 私は信じられなかった。そんな偶然があり得るだろうか? 今からでも冗談だよと笑ってほしかったけれど、章さんの顔は真剣だった。


「どうしてそんな顔をするんだよ。俺は別に咲良ちゃんを責めてるわけじゃない」

「ごめんなさい、ついびっくりして……。私、何も知らなかった、何も」

「俺も悪いんだ。初めて会ったときから知ってたけど、そのことを隠してたから」


 章さんが初めて視線を合わせてきた。次にその視線が私の手首の方へと注がれた。茉莉花さんからプレゼントされたミサンガが露出している。章さんの瞳が怒りの色を帯びた。瞬間、章さんが私の手首を掴んだ。そうしてミサンガを千切り取ると、どこか遠くの方へ投げ捨ててしまった。私は、ぼうっとして事の成り行きを見守った。


「ごめん、乱暴なことして。許せなかったんだ、あの女のミサンガなんてつけてるのが」


 肩を怒らせながら、言葉だけは調子を下げてそう言った。衝動的な行為に怒りが発散されたのか、章さんの表情は少し和らいでくるように見えた。しばらく沈黙が続いた。空が灰色に染まっていくようだった。


「気になってたの。この前、翔さんも不幸にしないでくれって言ったよね。不幸になったっていうのは、章さんのことを指してるの? それとも……優輝のこと?」

「兄さんじゃない。不幸になったのは、父さんと母さんだ。兄さんが事故で死んでからも当たり前のように同じ屋根の下で生活を続けたけど、何かが狂ってしまったんだ。一度は俺のために別れないようにしようって決めたらしい。でも、結局は三年しか保たなかった。俺にも影響がなかったわけじゃないけど、兄さんのことはもう終わったことだし、それに今は翔がいる」

「翔さんは、優輝の代わりってこと?」

「ちがう!」


 章さんが声を張り上げた。


「……違うんだ、翔は兄さんの代わりなんかじゃない。翔とのことは、まだ始まったばかりなんだ」

「私のことを、憎んでるの」


 訊くべきことではなかったかもしれないけれど、私は訊かずにはいられなかった。章さんは再び視線を外してこう言った。


「翔のことを不幸にしないのなら、俺はそれで構わない」

「絶対にしないよ、絶対に……」


 雨が降り始めた。傘を持たない私たちは、いつまでもその場に立ち尽くしていた。

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