黒と赤
実のところ、私は章さんのことを何も知らなかった。私と翔さんと章さんの三人でいることは多かったけれど、その分だけ章さんと二人きりで話すということは少なかった。一緒に帰るときにも、章さんはあまり話しかけてはこなかった。電車の中では私は文庫本を読んで、章さんは携帯ゲームをする。電車の乗り換えのときに、じゃあまたね、と声をかけ合って終わり。私たちの距離は、近いようで遠かった。
「ハンバーガーでいい? それとも牛丼?」
章さんがまた笑ってそう言った。私は単なる牛丼好きの女とは思われたくなかったので、ハンバーガーを食べることに同意した。
夏休みに入ってからすっかり曜日感覚が狂ってしまったけれど、人でごった返す街並みを見ていると、なんだか憂鬱な気分になるのだった。日曜日の夕方はいつもこうだ。
卓を挟んで向き合う章さんの顔は、いつものように鮮やかとも言える褐色で、不健康な翔さんの白い顔とは対照的だった。不意に私は逃げ出したくなった。早く家に帰ってシャワーを浴びて、そしてベッドの中の暗闇に埋もれたい。けれど、そんな夢想は一瞬のうちに霧散した。やはり、私は今までのように夢見がちではいられなくなったのだ。
「食べなよ。ポテト少しあげるからさ」
章さんと二人きりで向き合うのは初めてのことで、私はいつになく緊張した。そうなるだけの理由が、私にはあった。
「二人で飯を食うのって初めてだっけ?」
「いつも翔さんと三人だったから……」
「だね。なんていうか、違和感があるよね。ただ一緒に飯を食うだけなのに」
「ええ」
私たちは黙々と食べ続けた。会話はまるで弾まなかったけれど、それでも良いと思えた。時刻は六時を回ろうとする頃で、店内の席は埋まっていき、いよいよ騒がしくなってきた。その喧騒のおかげで随分と気まずさが薄れていた。
「ふう。来年の今頃は何をしてるだろうなあ」
「一年もあれば色々と環境も変わっちゃいそうですね」
「うん。受験を控えてるからさ、俺がこうしてふらふらとしていられるのも今月いっぱいだな」
「受験……?」
「そそ、高校受験」
この人は何を言ってるのだろう。しばらく、私の頭では理解できなかった。
「あれ、知らなかった? 俺、まだ中学生だよ」
「えっ? だって、私たちと同い年じゃあ……」
「ああ、翔にタメ口だから勘違いしたのか。翔がさ、それでいいって言うからそうしてるだけ。翔と同じ高校に入りたいからさ、勉強教えてもらってんだ」
と言いつつ二人で遊んでばっかりだけどね、と章さんは付け足した。たしかに二人で勉強をしているところなんか見たことがない。
いやいや、それどころではない。どうして二人ともそんな大事なことを教えてくれなかったのだろう。私は少し、疎外された気分になった。
「俺のところは母子家庭だからさ、私立の高校に行くのは難しくて。学費とか家からの距離とか、色々考えると翔の高校に行くのが一番都合が良いんだ」
「母子家庭……」
「うん。色々あって、七年前に両親が離婚したんだ」
さっきまで全てを飲み込むような笑顔を浮かべていた人が、そのときは神妙な顔をしていた。私は何と言えば良いか分からず、メロンソーダを飲み干した。しばらくして、今度は私の方から口を開いた。
「章さんから見て翔さんってどんな人ですか?」
「ん、そうだなあ……。色々なものに抵抗してるって感じかな」
「茉莉花さんとか?」
「それが一番の難敵だろうけど。それだけじゃなくて、世間とか大人とかに抵抗して、自分の居場所を守ろうとしているっていうのかな」
凄い。私はそう思った。
私にだって友人の一人や二人はいるけれど、そんなことを感じ取りながら人と関わったことはなかった。翔さんと章さんは深い部分で繋がっている。私にはそう見えた。
翔さんはどうして、茉莉花さんに抗っているのだろう。どうして、自分の居場所を守らなければならないのだろう。そして、本当は何から逃れようとしているのだろう。
「翔は視野が広くて感受性も強くて、だからいつも傷だらけなんだ。それでいて、自分というものを全く信用できない人間なんだ。あの茉莉花って女と同じ血が流れているから、きっとそう思ってしまうんだろう」
「でも、どうして翔さんはそんなに茉莉花さんのことを嫌うんですか」
「それは……、咲良ちゃんも知ってるんじゃないの」
翔さんは茉莉花さんの倒錯した愛情を憎んでいるのだ。それを気持ち悪いと思うのは分かる。でも、どうして肉親を憎めるのだろう?
「何だか馬鹿みたいだね、俺たち。翔のことばかり話して、お互いのことを全く知ろうとしない」
「……時間をかければ、きっと分かり合えますよ」
「そうなるといいね」
章さんはまた、全てを飲み込むような笑顔を浮かべてみせた。
帰宅してまず身体を洗い流した。湯船に浸かったとき、今日一日の出来事が走馬灯のように思い出されて、私は死ぬのだろうかとぼんやりと考えた。いや、私はもう死んでしまったのだ。ここにいる私は、今までの私ではない。
自分の部屋に入ったとき、その気持ちはより一層強まった。この部屋はこんなに狭かっただろうか? この部屋に染み付いている私の匂いは、こんなに強かっただろうか? 勉強机の前に座り、色褪せた写真の入った写真立てを手に取った。それは私の父が撮ってくれた私と優輝の写真だった。場所は分からないけれど、星空公園と書かれたサインプレートの前に二人は並んでいる。私の思い出の写真だった。
その写真立てをそっと伏せ、ベッドに入って眠りに就く。いつかもそうだったように、私は自分が自分であることに驚きを禁じ得なかった。いつもは広く感じられるベッドが手狭になったようだった。再び、今日一日の出来事が鮮明に思い出される。全ての瞬間が瑞々しく存在している。茉莉花さんのフリカッセ、章さんの笑顔、そして翔さんとの抱擁……。空に迸る雲の白が、流れ出る鮮血の赤が、瞼の裏に広がる黒が、回転ドアのようにくるくると回っている。その色彩の明滅が頂点に達したとき、私は夢の中へと誘われた。
「はい、これ!」
幼稚園の砂場で遊ぶ私に、優輝が何かを手渡してきた。糸を編んで作られた色鮮やかなそれを、私は初めて見たのだった。
「これなあに?」
「知らないの? ミサンガっていうんだ。弟と一緒に作ったんだ」
「へえ、ミサンガっていうの!」
「ほら、手首に付けてみなよ。俺が作ったんだぜ」
「で、でも……」
私は思わず逡巡した。
「ミサンガ、好きじゃないの?」
「だって、手が汚れてるもの!」
優輝が笑った。私は彼が作ってくれた大事なミサンガを、砂の付いた手で汚すわけにはいかなかったのだ。彼は私の手を掴むと、ミサンガを手首に――
「あれ、おかしいな」
「どうしたの?」
「お前の手首がちっちゃすぎるんだ!」
彼はミサンガを大きめに作りすぎてしまったのだ。私はぷっと吹き出して、彼が顔を赤らめるのをじっと見つめていた。
「どうするの?」
「……大人になるまでおあずけだな」
「おあずけ? 私が大きくなるまで待つってこと?」
「うん。それまで大切に持ってろよ」
「ありがとう!」
私は大げさすぎるくらいにお礼を言った。私と優輝との大切な思い出だ。けれど、それが大切な思い出に変わるのは、彼が死んでからのことだった。