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白と赤

 私と翔さんとの距離は今までになく近いものになった。少なくとも私はそう感じるようになった。実際のところ、翔さんがどのように感じ、また考えていたかは分からないけれど、以前のように私を拒絶するような口ぶりもなくなったし、私が家を訪ねても快く迎えてくれた。大抵は章さんが一緒にいて、家にこもって漫画を読んだりテレビを見たりした。私は翔さんに料理を教えてもらったりして、いつか茉莉花さんに食べさせてあげようと努力した。

 茉莉花さん。急に縁遠くなってしまったその名前を、私は日常の様々な場面で口ずさんでしまうようになった。茉莉花さんが編んでくれた新しいミサンガを、身に付けることまではしなかったけれど、いつもバッグの中に入れて持ち歩いていた。私はどこかで翔さんが橋渡しをしてくれるんじゃないかと期待していた。でも、その期待は見事に裏切られてしまっていたのだ。


「やあ、今日も来たのか」


 その日は珍しく、翔さんがそんなことを言った。いつもはすぐに部屋に招き入れるのも、玄関先の応対で止めようとしているのが分かった。


「悪いけど、今から出かけるんだ。今日は章も来ない」


 翔さんの顔を見て、私は直感した。


「茉莉花さんのところへ行くんですか?」

「……困ったな。君は妙に鋭いところがあるんだね」

「やっぱり」


 この胸のときめきは何だろう。私は茉莉花さんと再会するのを、こんなにも楽しみにしていたのだろうか。


「君も一緒に行きたいんだろう?」

「はい」

「仕方ないな。だけど、僕は用事を済ませてさっさと帰るから」


 部屋のドアを開けたとき、茉莉花さんは私を全く無視するかのようにして、私たちを迎え入れた。そして翔さんは茉莉花さんから封筒を受け取ると、さっさとベランダに出てしまった。残された私は、茉莉花さんにどう話しかければいいのか、まるで分からずに立ちつくしていた。しばらくして、私は昼食を作る茉莉花さんの背中に話しかけた。


「ごめんなさい、勝手に来てしまって」

「……やっぱり来てしまったのね」

 

 私が来るのを予測していたかのように、茉莉花さんはそう言った。


「翔とはどうなの、上手くいってる?」

「はい。お友だちの章さんを紹介してもらって、三人でよく過ごしています」

「ああ、あの子。私のことはあまり好きじゃないみたいだけど、貴女とは上手くやれてるんだ?」

「二人とも優しい人たちですから」


 茉莉花さんがベランダの方をちらりと見た。翔さんがこちらに背を向けて、この前のように煙草を吸っていた。


「さあ、どうかしら。私と翔って、嫌になるくらいよく似てるから。そう思うでしょう?」

「似てると思います」

「ええ。ろくでなしよ、ろくでなし」


 ろくでなし。茉莉花さんも翔さんも、ろくでなしと呼ぶには美しすぎた。


「翔とは何を話すの? 私、それがとっても気になるの」

「えっと、翔さんはいつも章さんと話してましたから。……あっ、料理を教えてもらいました」

「へえ、たまには良いこともするのね。あの子、一人暮らしだから最低限のことはできるのよ」

「音楽のことも少し、教えてもらいました」

「ふうん、あの子がね」

 

 私と茉莉花さんが話していると、煙草を吸い終えた翔さんがベランダから出て来た。何も言わずに出て行こうとする翔さんの服を、茉莉花さんが掴んだ。


「昼食くらいはご馳走するわよ」

「いらない。さっき起きたばかりだからお腹も空いてない」

「でも、咲良さんは違うでしょう? ほら、食器を出して」


 翔さんは渋々といった様子で食器の準備を始めた。しっかりと三人分の食器を用意したところをみると、翔さんも実はお腹が空いていたことが分かった。私は何だか意地悪な気分になって、翔さんに微笑みかけた。目が合った翔さんは不機嫌な顔をして卓についた。


「さあ、食べるわよ」


 茉莉花さんが作ったのは、私には見慣れない白いスープのような料理だった。鶏肉や椎茸などを炒めた後に煮込み、最後に生クリームを加えた、フリカッセというフランス料理だと茉莉花さんが教えてくれた。私も翔さんもあっという間に平らげてしまい、二人ともおかわりを貰った程の美味しさだった。特に翔さんは味付けをよく吟味して、茉莉花さんよりも美味しいものを作ろうと意気込んでいた。

 食事を終えた私と茉莉花さんが取り留めのない会話をしていると、卓の下で翔さんが足を小突いてくるので、それを合図に私たちは引き上げることにした。


「また来てもいいですか……?」

「仕方ないわね。また来なさい、好きなときにね」


 そう言って、茉莉花さんは私たちを見送るのだった。






 駅までの道すがら、私は家に帰るか寄り道をするか思案に耽った。午後三時を回ろうとしているところだったので、翔さんの家に戻っている時間はないと私は考えていたのだ。けれども、私に話があるからと、翔さんは自分の部屋に戻ろうと提案してきた。私は少し迷った。何だか、嫌な予感がしたのだ。結局、私は自宅に電話をかけて帰宅が遅くなることを伝えて、翔さんの部屋に戻ることになった。

 帰宅した翔さんは真っ先にシャワーを浴びた。茉莉花さんと会った後にはいつもこうするのだと、叱られて言い訳をする子供のように言った。私の方は待たされることに慣れていたので、勝手にCDを取り出して聴いていた。窓のすぐ外で蝉の鳴き声がした。

 髪を拭いた翔さんは、冷蔵庫の奥から当たり前のように缶ビールを取り出した。私にも勧めてきたので驚いて拒絶したけれど、考えてみれば煙草を吸うような人がお酒を飲まないというのも変な話で、驚くようなことではなかった。


「私、翔さんがお酒を飲むなんて知りませんでした」

「ビールは常備してあるけど、たまにしか飲まないよ。今日はね、どうもそういう気分なんだ。屈辱だよ、まったく」

「屈辱……?」

「姉さんは君が付いて来ることを知っていたんだ。だから奮発してフリカッセなんかを多めに作っていたんだ」


 まさか、と言いかけて口をつぐんだ。翔さんの憶測が正しいように思えたからだ。フリカッセは料理が得意とは言えない女性が作るようなものではなかったし、一人で食べるにしては作る量が多すぎた。茉莉花さんは私が翔さんに同行することを予測して、いや、その可能性に賭けていたのだろう。実際に私は茉莉花さんの部屋を訪ねた。

 このとき、屈辱を感じたのは翔さんだけではなかった。私も茉莉花さんの掌の上で踊らされているような気がして、あまり良い気持ちではなかった。


「ふん、いつか見返してやるつもりさ。そのためには、そのためには……」


 缶ビールを飲み干した翔さんの顔は真っ赤に燃え上がっていた。あまりお酒に強くはないのだろうし、悪酔いするような気分だったのだろう。卓の上に突っ伏したまま、息を荒くして苦しそうにした。


「大丈夫、ですか?」


 返事はなかった。私は翔さんの隣に座り、肩を叩いたり揺さぶったりしてみた。すると急に私の方に倒れこんできた。それを避けようとした私の膝の上に、翔さんの頭が落ちてきた。意図せず膝枕の形になってしまったのでそっと頭を離そうとすると、その手を翔さんが握ってきた。そしてあっという間に――私は押し倒されてしまった。

 上気した翔さんの顔は不思議に優しかった。私の頬をゆっくりと撫でながら微笑んだ。嫌悪感は、なかった。それは翔さんがそれ以上のことをする様子がなかったからだ。それ以上のことをしたいのなら、もっと乱暴に的確に、私の唇を塞げばよかったのだから。例えば、あの茉莉花さんのように。


「僕はね、姉さんのように汚れた人間じゃないんだ」


 私の心を見透かしたかのように、翔さんは弁明を始めた。それでも私を押し倒したままなのだから、何もかもが普通ではなかった。


「いいかい、よく聞いてくれ。君のことが好きになったのかもしれない。僕は自分のことがよく分からないんだ、何が好きなのか何が嫌いなのか。それでもこれが恋愛感情だとするなら、いや、もしそうじゃなかったとしても、君は僕にとって特別な人なんだ。僕の特別な人、君のことが好きだ」

「……」

「そう、返事はいらない。僕は君を抱きしめるから、ただそれに応えてくれればいいんだ」


 翔さんはいかにも手慣れているといった様子で、私の首に手を回した。けれども、身体を密着させてみれば、緊張に打ち震えていることがよく分かった。そのとき、私は初めて自分の身体の尊さを知ったのかもしれない。翔さんの身体を通して、自分の身体に接したのだ。ドレッサーの前に座って自分を見つめるかのように、今までの思い出が走馬灯のように思い出された。翔さんとの出会い、茉莉花さんとの口づけ、そして優輝との別れ……。

 私は何という女だろう! 男の人の胸に抱かれながら、幼くして死別した別の男の子のことを思い出している。私はどうしようもなく申し訳なく思えて、翔さんの求めに応じた。痙攣(けいれん)はより強くなるかのようだった。

 窓の外で鳴いていた蝉が、どこかへ飛び去った。抜け殻のようにがらんとした雲が、青空に浮かんでいた。その脅迫的な白さに、私は戦慄するばかりだった。






 乗り換えのために倉田駅に降りたときには、もう午後五時を過ぎていた。人でごった返すホームに立つ私は、不思議な感覚を味わっていた。まるで意識と肉体とが初めて噛み合ったかのような、初めてこちらから世界を覗くかのような。私は特別なのだ、この世に私という存在は一人しかいないのだ。そんな当たり前のことに今になって気付いた。その感覚をもたらしてくれたのは、翔さんという一人の男性だった。

 私が私を獲得することによって、間違いなく翔さんとの関係性、それだけではなく茉莉花さんや章さんとの関係性は、きっと変わるだろうと思われた。そしてそれよりも前に、私はどんな顔をして家に帰れば良いのだろうと思わずにはいられなかった。

 電話が鳴った。画面には古賀章という名前が表示されていた。迷った末に、電話に出た。


「やっぱり咲良ちゃんだったか」


 後ろ後ろ、と言うので振り返ると、そこには笑顔の章さんが立っていた。


「後ろ姿や服装が似てるなあと思ってさ、試しに電話してみたんだ」

「びっくりしました」

「俺も。……もしかして、翔のところに行ってた?」


 迷った末に、頷いた。しかし、嘘を吐いた。


「でも、会えませんでした」

「そっか。今日はあの極悪姉さんのところに行くって言ってたからなあ」


 嘘は見破られただろうか。嘘に慣れていない私は、つい章さんの顔を見つめてしまった。


「どう、これから何か食べに行かない?」


 章さんは全てを飲み込むような笑顔を浮かべてそう言った。またしても、私には断る理由がなかった。

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