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白と黒

 高校生になって初めての夏休み。

 何の予定もなかった私は、最初の一週間で宿題を片付けてしまった。それでもうやることがなくなってしまったので、冷房の利いた図書館に入り浸ったり、CDショップに立ち寄ってみたり、古着屋さんを覗いてみたりしながら日々を過ごした。それでも暇を潰すことができなかったので、本やDVDを借りて家に閉じこもるようになってしまった。名作映画や話題の海外ドラマを見たけれど、どれも私の心を揺さぶることはできなかった。小説は時間をかけて楽しむ分だけ私の心に蓄積されていくものがあったけれど、やはり私を感動させることはできなかった。

 私は退屈に悩まされた。それでも私を最も苦しめたのは、茉莉花さんの影だった。借りてきた本のうち三分の一は谷崎潤一郎の作品だったし、映画を見るたびに茉莉花さんはこの作品を気に入るかな、なんて考えてしまうのだ。おまけにテレビで色白の俳優を見かけると、翔さんのことを想起してしまったりした。認めたくはなかったけれど、私はすでに茉莉花さんの虜になってしまっていたのだ!

 私は茉莉花さんに会いたいと思った。忘れ物を取りに来たと言えば、口実が作れないわけでもなかった。でも、嘘を吐いて茉莉花さんに会ったところで、何を話せばいいのだろう。

 私が別れを告げられたあの日、茉莉花さんは翔さんの住所と連絡先をメールで送ってきた。数日経って茉莉花さんに電話をかけてみたけれど、応答はなく、メールを送っても返事はこなかった。そういう事情もあったので、私は茉莉花さんの部屋を訪れることの困難をますます感じるのだった。

 翔さんに連絡をすることを思いつかないでもなかった。実際、何度か電話をかけてみようとしたり、地図で翔さんの家への行き方を調べてみたりもした。異性である翔さんへの苦手意識も薄れていた。だというのに、私はとうとう翔さんへの連絡もできずにいた。他人の期待を裏切ってしまうから近づくな、そんな翔さんの言葉を思い返すとき、同時に茉莉花さんの言葉を思い出した。


「まったく、似た者同士の姉弟なんだから……」


 私はつぶやかずにはいられなかった。そういえば、この頃の私は独り言が多くなったような気がする。家族にもそう指摘された。たった数回の茉莉花さんとの、そして翔さんとの関わりが、私という存在を大きく揺り動かしているのだった。それに気付いたとき、私はこう思った。突き詰めるところまで突き詰めてやろう、私が変わったというのなら、とことんまで変わってみせよう、と。そう思いはしたものの、やはりどうしても茉莉花さんを訪ねる決心はつかなかった。

 その日の夜、私は借りていたDVDのうちの最後の一本を見た。それは、アラン・ドロンが主演の「太陽がいっぱい」だった。憂愁(ゆうしゅう)の色濃い音楽と蒼茫(そうぼう)たる海の上を動き回る褐色の肉体を見て、私は何故だか翔さんのことを想起せずにはいられなかった。

 私が翔さんの家を訪ねたのは、その次の日のことだった。翔さんが住むのは築二十年ほどのマンションで、さすがに茉莉花さんの住まいには見劣りがしたけれど、高校生が一人暮らしをする分には充分すぎるほどの家だった。私は二階にある翔さんの部屋のチャイムを押した。ちょうど正午を回った頃だったと思う。チャイムを二度鳴らしたのに反応がなかったので、私は踵を返しかけた。と、ドアが開いて中から白くか細い腕が現れた。


「……おはよう」


 上半身が裸のままで応対してきた翔さんを、私は慌てて中に押し込んだ。同年代の男の子の上半身を見たことがないわけではなかったし、翔さんの白く筋肉のない身体にはまるで魅力がなかったけれど、私は胸がどきどきして、つい訳も分からないままに行動してしまったのだ。肩を掴んでいた私は、目を背けてシャツの一枚でも着るように頼み込んだ。


「君は大胆だなあ」


 呑気にそんなことを言う翔さんには、先日の茉莉花さんとのやり取りに見られたような鋭さは感じられなかった。翔さんもやはり茉莉花さんと同様、休みの日にはいつもこんな時間まで寝ているのだろうと思われた。居間に通された私は、翔さんが着替えてくるまでにしばらく待たなければならなかった。その間に私は居間をちらりと眺めまわした。部屋の中央に布団を取り払われた電気ごたつが配置されていたり、古びたブラウン管テレビの上にいつの物か分からない干支の飾りが置いてあったりして、茉莉花さんの部屋とは対照的に和風な印象を受けた。その雰囲気をあえて壊そうとしてか、入って右手に幻覚的なポスターが飾られていた。中央には黒人の男性の顔が描かれている。


「ジミ・ヘンドリックスだよ。うちの姉さんも好きでね、自分の部屋に飾ろうとしたけど似合わないからって僕にくれたんだ。残念なことに音楽の趣味が近くてね、僕好みでもあるんだ」


 いつの間にか背後に立っていた翔さんが、黒いジャージ姿でそんなことを解説してくれた。居間に入って左手の、西側に面した窓のカーテンを翔さんは開けた。すぐ近くを鉄道が走っていて、きっとうるさくて仕方ないだろうと私は思った。


「実家からの仕送りで生活してるんだ、僕。ここは線路に近いから騒音が激しくて、そのおかげで家賃があまり高くない。それでいて交通の便が良いから、ここにしたんだ」

「どうして東北から倉田へ来たんですか?」

「姉さんがこっちに引っ越すって聞いて、僕もそれにぶら下がって来たんだ。どうせ県外に出るのなら自分の生まれ育った地方からも出てやろうって思ってね、これでも必死に勉強して進学校に通ってるんだぜ?」


 質問に答えているのか答えていないのかよく分からなかったけれど、私は一応納得してみせた。


「ふう、君といると何故か口が軽くなってしまうね。それにしても馬鹿だよ、君は」

「忠告を無視してここに来たから、ですか」

「それを頭で分かっていながら気持ちを抑えきれないからだよ。君は僕に似てる、それに姉さんとも」


 馬鹿と言いながら自分に似ていると言いきる翔さんの気持ちは、私にはよく分からなかった。翔さんの心は、私よりもずっと複雑な機構をしているのだろうなと思った。


「それにしても不思議ですね」

「うん、何が?」

「きっと煙草の煙でもやもやしてるだろうと思ったけど、まるで臭いがしませんね」

「家では吸わないようにしてるんだ。ほら、よく言うだろう、喫煙者は煙草の臭いが好きなわけじゃなくて、味が好きなんだって」

「よく分かりませんね。だったら吸わなきゃいいのに」

「本当にどうしてだろう。大人が吸うのを真似しちゃったんだろうな、きっと」


 そんな風に当たり前のように応答してくれることが、私は嬉しかった。そして、茉莉花さんの拒絶を思い出すと、今更ながら涙がこぼれそうになってきて――


「おいおい、どうしたんだ。急に泣きだすなんて」

「ごめんなさい、私、ちょっと辛いことを思い出して……」

「困ったな、これだから女ってやつは」


 と、そのときだった。


「なあ、これって修羅場か?」


 突然、背後に褐色の少年が現れた。背が高くて肩幅も広く、どちらかといえば、こちらの方が映画で見たアラン・ドロンの肉体に近かった。

 私がぼーっとそんなことを考える横で、翔さんはいつにかく慌てふためいていた。


「あ、章っ! 勝手に入ってくるんじゃねえよ!」

「何言ってんだ。合鍵をくれたのはお前だろ」

「そ、それはそうだけど。たまにはノックぐらい……」

「したよ。気付かなかったお前が悪い。それで、新しい彼女?」

「違うって。これは姉さんの友達で……」

「ああ、例の性悪の友達か。そういや、お前に彼女なんていなかったよな、童貞くん」


 ぽかんとする私の横で始まった喧嘩は、最初は拳が飛び出したりしていたけれど、すぐに言葉の応酬になって、結局はなあなあで終わってしまった。たった今、喧嘩をしていたと思えば、二人で笑い声を上げているのだから不思議なものだ。私は二人が本物の親友であることを知った。


「ああ、ごめんごめん、二人で勝手に盛り上がっちゃって。くくくっ」

「おい、笑うなって。悪いな、自己紹介が遅れた。俺は古賀章(こがあきら)っていうんだ、よろしくな」

「あっ、木戸咲良です。よろしくお願いします」


 私はまたしてもよろしくお願いしなければならなくなった。勝手に広がっていく交友関係に、私は少し窮屈な思いがした。けれど、章さんの浮かべる屈託のない笑顔には好感が持てた。


「木戸咲良、か……。なかなか可愛いじゃん。彼氏はいるの? 俺と付き合わない?」

「こいつ、馬鹿だから思ったことをすぐ口にすんの。気にしなくていいからさ」

「あ、はい」

「質問に答えてくれよお。彼氏はいないんだな?」

「い、いませんけど、お付き合いはできません!」


 ここできっぱりと断っておかなければと、私はついつい大声を上げてしまった。そうすると、またもや二人は顔を見合わせて笑い始めるのだった。


「すげえな、こんなにはっきりと断られたのは初めてだ。奥手なのかそうじゃないのか、よく分からんな」

「面白いだろ。……それで、今日は何しに来たんだ?」

「いつもみたいに暇だから遊びに来た。三人でどこか行こうぜ」

「私も、ですか……?」


 翔さんの友達の提案を無下にするわけにはいかなかったけれど、当然のように私は戸惑った。私の視線の意味に気付いた翔さんは、それでも意地悪な笑顔を浮かべてこう言った。


「そう、君も一緒だよ。そうだな……、映画でも見に行こうか」


 初めて知り合った人と短くはない移動時間を過ごすことに抵抗があったけれど、さすがに翔さんはそれを察してくれたのか、章さんと二人でずっと話し込んでいた。章さんが繰り出す話題はゲームの話、漫画やアニメの話、音楽の話、芸能人の話などで、私は少し不思議な思いがした。何故なら、翔さんに対してもお姉さんの茉莉花さんと同じように、どこか神秘的な雰囲気を感じていたからだ。そんな翔さんがいかにも普通の高校生が話すようなことで盛り上がっているので、その当たり前のことが不思議に思えたのだ。

 映画館に着いてから、何の映画を見るかで意見が分かれた。章さんは私に気を遣ってくれたのか、恋愛映画でも見ようと言ってくれた。翔さんはお目当てのアニメ映画があったようで、それを見ようと提案した。私は結論を委ねられたのだけれど、その恋愛映画にはあまり興味がなかったし、章さんもアニメ映画を見たいという雰囲気を出していたので、結局、アニメ映画を見ることになった。

 映画の内容については触れないでおくとして、このとき、ちょっとした事件が起こった。私と翔さんが隣同士に座ったのだけれど、映画が盛り上がりを見せる後半の辺りで、翔さんが私の手を握ってきたのだ。それはあまりにもありきたりな展開だったけれど、ありきたりであるだけに効果も覿面(てきめん)で、私は翔さんに対して新しい意識を持たざるを得なかった。私が手を離さずにいたところ、翔さんの方が落ち着かなかったらしく、しばらくしてから手を離した。

 映画が終わってから遅めの昼食をとることになった。またしても三人の間で意見が分かれることになったけれど、今度もまた私に決断を委ねられた。昼食は、牛丼である。


「牛丼、でいいの?」

「いいんです。お金もあまりないし、久しぶりに食べてみたかったから」

「……翔、やっぱりこの子、面白いな」


 帰り道、章さんは私と同じ方向の電車に乗るというので、翔さんと別れて二人きりになった。章さんは人が変わったかのように何も喋らなかったし、私も共通の話題を頭の中で検索していたから、私達の間で特に会話は交わされなかった。ただ、章さんが電車を降りる直前になって、


「翔のこと、どう思ってる?」


 と訊いてきた。私は質問の意味を吟味したうえで、


「茉莉花さんの弟さん、今のところはそれ以上の感情はありません」

「今のところは、ね。俺のことはどう思う?」


 そう答えたけれど、今度はそんなことを尋ねてきた。私はある意味で最初の質問以上に悩んだ末、何とか答えを捻り出した。


「悪い人じゃないのは分かります。でも、今のところは知らないことだらけです」

「なるほどなるほど。あれだけはっきりと断られたから、嫌われてないか心配だったけど、そうか。一つ提案だけど、連絡先を交換しておかない?」

「どうしてですか?」

「理由が必要? うーん、そうだな、咲良さんのことが気に入ったから、かな」


 章さんに別の意図があるらしいことは分かっていたけれど、私の方でも特に断る理由はなかったので、連絡先を交換した。そして最後に章さんは、


「今日はありがとう。楽しかったよ」


 そう言って電車を降りて行った。私は久しぶりに言われたありがとうという言葉に、つい心が温まるのを感じた。当たり前の日常が、久しぶりに顔を覗かせたかのようだった。

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