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出会いと別れ

 明くる朝に目覚めたとき、私は自分が自分であることに驚きを禁じ得なかった。新しい体験をしたことで、きっと自分の身体が変わってしまうんじゃないかという、一種の強迫観念に襲われていたから。記憶の中の口づけはとても甘美だったけれど、実際には舌と舌とが絡みつき、コーヒーの苦味を口移しした生々しさがあった。私はそのことを思い出して、胸のあたりがむかむかするのを抑えられなかった。それは生理的な拒絶だった。異性に対して苦手意識を持っていたけれど、今まで決して同性に恋をしたことなどはなかった。だというのに。どうして、あんなことになったのだろう。

 その朝はいつになくシャワーを浴びることにした。元々綺麗好きなわけでもないから、日に一度だけお風呂に入ればそれで良かった。けれど、この日の朝だけはもう一度だけ身体を綺麗にしたいと思った。ボディソープを洗い流すとき、茉莉花さんの亡くなった同居人のことを思い起こした。その人は男性なのだろうか、女性なのだろうか。きっと女性だろうと、私は根拠もなしにそう思った。

 髪を乾かしたところで朝食をとる気になれなかったので、再びベッドに潜った。枕元には優輝がくれたミサンガの入った小箱が置いてある。それに手を伸ばして――手を引っ込めた。それが茉莉花さんのくれた小箱だと思うと、穏やかな気持ちでいられなかったのだ。きっと返そう、茉莉花さんのくれた新しいミサンガを。そう思って新しいミサンガを握りしめたけれど、もう一度茉莉花さんに会うことがためらわれた。かと言って、郵便受けにミサンガを入れてそれで終わり、なんてやり方では納得できなかった。彼女とはもう一度、対峙しなければならないのだ。




 電車を降りたとき、いっそのこと寝過してしまえば今日は彼女と会わずに済んだのに、と私は考えずにはいられなかった。そうだ、今日は平日だからきっと仕事で家にいないかもしれない、そうだとすれば……。思考は堂々巡りした。つまるところ、私の覚悟というものはその程度のものだったのだ。こんなときに優輝のくれたミサンガをはめていれば、少しは気持ちが楽になるのだけれど。皮肉なことにぴったりの大きさの新しいミサンガを、私ははめることができなかった。

 茉莉花さんのマンションの前で、そしてその部屋の前で、一度ずつ深呼吸をした。いざ、決戦のとき。覚悟を決めて部屋のチャイムを鳴らした。


「はーい」


 中から聞こえてきたのは、男性の声だった。私はそれが茉莉花さんの声でないことに一瞬だけ安堵したけれど、すぐに混乱に襲われた。どうしてこの部屋に男性がいるのだろう。どうして、彼と話さなければならないのだろう。今度こそ逃げ出そうとしたそのとき、ドアが開いて私と同年代の男性が顔を出した。中肉中背で色白の男の子だった。顔は中学生のように幼く、それでいて全体の雰囲気は大人びていた。私は何故だか茉莉花さんのことを想起した。


「どちら様?」

「えっと、ここは茉莉花さんの部屋ですよね?」

「姉さんの知り合い? ああ、ごめん、僕は弟なんだ」


 弟。そういえば、茉莉花さんが何度か口にしていた。なるほど、茉莉花さんのことを想起した理由がよく理解できた。けれど、このときはそれどころではなく、久しぶりに異性と話すことに私はどぎまぎしていた。


「あ、あの、茉莉花さんに渡したいものがあって……」

「入りなよ。コーヒーと紅茶、どっちが好き?」

「えっ? えっと、どっちかな……」

「まあ、どっちでもいいか。どうぞ」


 彼は私なんかに興味はないといった感じで、部屋の奥に引っ込んでしまった。少し失礼な人だなと思わないではなかったけれど、興味を持たれるよりは余程良かった。

 リビングに入ると茉莉花さんの姿がない代わりに、彼の姿もなかった。私はソファに落ち着くこともできずに、またベランダにでも出ようとしたけれど、彼がそこで煙草を吸っているのを見て、再びソファの辺りをうろうろするはめになった。しばらくすると、寝室から茉莉花さんが出てきた。相変わらずのタンクトップとホットパンツ姿で、少し頬が上気しているようにも見えた。


「いらっしゃい、ちょうどシャワーを浴びてたの。翔とはもう話した?」

「弟さんですか? 今、ベランダで煙草を吸ってるみたいです」

「あの子ったら、未成年のくせにまた煙草なんか吸って。ごめんなさいね、決して不良ってわけじゃないんだけど」


 茉莉花さんとの会話はいかにも尋常に始まった。まるで昨日の出来事なんてなかったかのように。私がどうしてと訊かない代わりに、茉莉花さんもどうして私が来たのかは尋ねてこなかった。


「昨日は遅くまで仕事だったの。だからいつもこんな時間まで寝てるのよ」

「日曜日もお仕事なんですか?」

「まあね。アルバイトのようなものだから、楽なものだけど」


 ベランダから室内に入ってきた翔さんと茉莉花さんの視線が、一瞬だけ交錯した。偶然にもその瞬間を見逃さなかった私は、この姉弟関係には複雑なものがありそうだと直感した。


「翔、この子は木戸咲良さん。私の新しいお友達よ、仲良くしてね」

「よろしく」

「よろしく、じゃないでしょう。ちゃんと自分の名前を名乗りなさい」

「……夏目翔(なつめかける)です」

「木戸咲良です。よろしく、お願いします」


 私はよろしくお願いしたくはなかったけれど、流れのままにそう応えてしまった。新しいミサンガを返すという私の目的は、どうやら果たせそうになかった。

 茉莉花さんは不意に満面の笑みを浮かべて、私たちにこんなことを言った。


「ちょうどいい時間だからお昼にしましょう。食材がないから、二人で買い出しに行ってくれないかしら?」

「待てよ、僕はただ立ち寄っただけで……」

「一緒に昼食をとるくらい、構わないでしょう。それに私の大事なお友達のことを、もっとよく知ってもらいたいから。ね?」


 翔さんは渋々といった感じで部屋を出て行った。私は二人の力関係を目の当たりにしたのだった。


「さあ、行ってらっしゃい」


 私は慌てて翔さんの背中を追いかけた。翔さんは意地悪をしているのか、とても歩くのが速く、私は付いて行くので精一杯だった。途中の赤信号で追いついたとき、息を切らす私に翔さんは問いかけてきた。


「煙草、吸ってもいいかな?」

「私、煙草は苦手で……」

「そうか。嫌いならまあ、仕方ないな」


 そんなことを言うので、私は翔さんのことがよく分からなくなってしまった。私のことが嫌いなのだとしたら、煙草を吸ってしまえばいいのに。

 ふと疑問が浮かんできて、私は苦手意識を乗り越えて翔さんに問いかけた。


「茉莉花さんっておいくつなんですか?」

「姉さんは僕より十歳くらい上だったかな。ああ、ちなみに僕は十六歳」

「じゅっ、十六歳!」


 なんと翔さんは、彼は私と同い年だったのだ。茉莉花さんが彼のことを未成年だと言っていたけれど、まさか同い年とは思わなかったので、私はつい声を上げてしまった。


「そんなに老けてみえるかなあ」

「わ、私と同い年なんです……」


 翔さんがつい不満そうな顔をしたので、私は申し訳ないといった感じでそう言った。今度は彼が驚く番だった。


「おいおい、同い年かよ。いかにも処女ですって雰囲気だから、てっきり中学生かと……」

「しょ、しょ……」

「あ、ごめんごめん。たまに口が悪くなるんだ、僕。そうか、考えてみればいくらあの姉さんといっても、中学生に手を出すはずはないもんな。変なところできっちりしてるから」


 自分でも子供っぽいことは自覚していたけれど、そんな言葉で表現されるのはさすがにショックだった。それにしても彼の口ぶりは、茉莉花さんの嗜好を認知しているかのようだった。翔さんが次に発したのは、それを裏付ける言葉だった。


「もうキスぐらいはしたんだろ?」

「えっ、キスって、その……」

「分かりやすいなあ。咲良さんだっけ、あの人と関わるのはやめた方がいいと思うなあ」

「どうして、お姉さんのことをそんな風に言うんですか」

「それはね、っと、信号が変わった。その話は後で聞かせてあげるから、面倒なことは早く済まそうぜ」


 翔さんはそう言うと、またしても足早に信号を渡っていくのだった。




 私たちは近所のショッピングセンターに入り、二人で討議した末にカレーの食材を購入した。お昼を回っていたし、そろそろお腹が空いていた。おまけに茉莉花さんも待っているだろうから、私はすぐに帰ろうと翔さんに提案したのだけれど、翔さんは自分が奢るからと言ってフードコートでフレッシュジュースをご馳走してくれた。私はこの前も茉莉花さんにコーヒーを奢ってもらったことを思い出して、この姉弟は似た者同士だなと感じた。


「ごちそうしていただいてありがとうございます」

「ちょうど喉が渇いてたんだ。付き合わせてしまって悪いね」

「私……」


 今更言わずとも分かるだろうけれど、私はコミュニケーションが得意ではなかった。いつも余計なことを言ったのではないかとか、言葉が足りなかったのではないかとか、ついつい不安を感じてしまう。このときの私も、つい口から飛び出しそうになったことが失礼なのではないかと思って、言葉を飲みこんだ。


「いちいち歯切れが悪いな。どうしたの」

「ごめんなさい、失礼なことを言ってしまいそうになって」

「怒らないから言ってみて」

「はい……、私、翔さんが良い人なのか悪い人なのか、分からなくなっちゃいました」


 私がそう口にすると、翔さんが大声で笑い出した。それもフードコート全体に響き渡るくらいの。周囲の家族連れの注目を一身に浴びて、私は顔を真っ赤にして俯いた。


「面白いね。咲良さんだっけ、将来は大物になると思うよ」

「は、はあ」

「少し教えてくれないかな。どうして、僕のことを良い人だとか悪い人だとか、そんな風に思ったのか」

「家族のことをあまり良く言わなかったり、未成年なのに煙草を吸ったり、言葉が悪かったりして、そういう部分は好きになれなかったんです。でも、とても自然に気遣いをしてくれて、きっと根は優しい人なんだろうなあって……」

「ふふん、そうだろうそうだろう。一つだけ忠告しておくと、悪人ほど善人の面を被ってるものなんだ。咲良さんは騙されやすそうだから、気を付けた方がいいよ」


 私が小声ではいと答えると、翔さんは満足そうな顔をした。


「姉さんが気に入った理由がなんとなく分かったよ。見た目も可愛らしいし」

「えっ、いや、そんな……」

「告白したことは? 告白されたことは間違いなくあるんじゃない?」

「告白したことはありません、されたことは何度か……」

「もったいないなあ。さては何かトラウマがあるんだな、きっと」


 私が驚いた表情をして顔を見つめたので、翔さんはまたしても大声で笑い始めた。


「ほんっとに分かりやすいなあ」


 けれど、翔さんは急に怖い顔をして、


「やっぱり君みたいな人は姉さんに近づかない方がいい。それに僕にもね」

「それって、どういう意味ですか」

「自分で言っておいて申し訳ないけど、姉さんのことは一言では表現できない。とにかくやめた方がいいとしか言えない。それに僕は他人の期待を裏切ってしまう人間だからね」


 それでもよく分からなかったので、もう一度翔さんに問いかけようとしたけれど、とても寂しげな顔をしていたので声をかけることができなかった。私たちを疎外するかのように、フードコートの喧騒が戻ってきた。




 私たちがマンションに戻ると、不気味な笑みを浮かべた茉莉花さんが待っていた。きっと茉莉花さんの思惑通りに事が運んだのだろう。

 今度も私は調理に参加させてもらえなかったけれど、その代わりに翔さんが茉莉花さんを手伝った。私と翔さんは共通した意見を持っていて、それは茉莉花さんの料理の腕が信用できないということだった。翔さんは一人暮らしをしているという話で、そのためか料理の手際も良く、最終的にキッチンを追い出された茉莉花さんは私の隣でテレビを見て笑っていた。

 翔さんはテーブルに三人分のカレーを並べると、CDラックからバナナのジャケットのアルバムを取り出した。私の家では音楽を聴きながら食事をするという習慣がなかったので、きっと食事に集中できなくなるんじゃないかと私は思ったけれど、音楽のおかげで会話は弾むし、会話が途切れた隙間に音楽が入り込んできたりして、とても楽しい食卓になった。

 ある曲が始まったとき、翔さんが口を開いて、


「この曲はね、ファム・ファタルっていうタイトルなんだ。意味を知ってるかい?」

「さあ?」


 私は首を傾げた。


「男にとっての運命の女、運命を変える女のことなんだ。男を破滅させる女って意味もあるけどね」


 翔さんはそう言うと、茉莉花さんの方をちらりと見た。一瞬、茉莉花さんの食器に当たるスプーンの音が強く響いて、苛立つような様子が垣間見えたけれど、さすがに表情は変えなかった。

 やはりこの姉弟は確執のようなものを抱えているんだ、と私は呑気に考えた。けれども次の瞬間には翔さんの言った、茉莉花さんに関わるなという言葉が思い出されて、私もこの関係に足を踏み入れてしまったんだと思うに至った。そして、どうやらこの二人とは長い付き合いになりそうだと、確信めいたものを感じるのだった。






 翔さんが帰り、私と茉莉花さんで食事の後片付けをした。翔さんはどうやら本当に立ち寄るだけのつもりだったらしく、慌てて部屋を飛び出して行った。茉莉花さん曰く、私と顔を合わせているのが嫌なのよ、とのことだったけれど。

 食器を片付けるとき、あの青い冷蔵庫の前を通るだけで心臓が鼓動を速めるようだった。私はちらりと茉莉花さんを振り返って、あの口づけの意味を確かめようかとも思った。でも、そんなことができるはずはなく、私は食器を棚に収めていった。


「咲良さん、翔とはどうだった?」

「最初は苦手でしたけど、悪い人じゃないのは分かりました」

「そうね。悪い子じゃないの、少し素直じゃないだけ。でも、私は違うわ」

「茉莉花さん……?」


 私は茉莉花さんが何を言い出そうとしているのか、それが分かるような気がした。


「もう私と関わるのはやめなさい、ろくな大人じゃないんだから。もしも翔のことが好きになったんだったら、あの子の連絡先を教えてあげるわ。あの子も女の子には縁がないから、きっと喜ぶわ」

「で、でも……」

「ミサンガは貴女にあげるわ。元から使ってるものには及ばないだろうけど、一応、お守りくらいにはなるはずだから」

「茉莉花さんも悪い人じゃないって分かります。この前のことはびっくりしたけれど……、でも!」

「ごめんなさい、これから仕事なの。出て行ってくれる?」


 それは明確な拒絶だった。

 それまでの私は明確な肯定をされたこともなければ、明確な拒絶をされたこともなかった。だから、茉莉花さんの強い態度に私はたじろいだ。

 当惑の後にこみ上げてきた感情は、茉莉花さんに対する怒りだった。他人にこんな怒りを覚えたのは、初めてだったかもしれない。


「私、茉莉花さんのことは好きでした」


 それだけ言うと、私は翔さんと同じように部屋を飛び出した。勢いよく閉まったドアがけたたましい音を上げ、そして、静寂が残った。

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