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第二の肉体

 その翌週の終業式を、私は憂鬱な気分で迎えることになった。

 何故かというと、優輝のお墓を訪れたあの日、私は大事なミサンガを無くしてしまっていたのだ。きっと糸が千切れて墓地で落としたのだろうと思い、次の日にもう一度あの丘の上まで行ってみたのだけれど、あの色鮮やかなミサンガを見つけることはできなかった。優輝との大事な繋がりを一つ失ったように思えて、私は高校に入って初めての夏休みを鬱屈した気分のままで迎えた。

 倉田駅から最寄り駅までは電車で十五分かかる。私はその十五分が妙に嫌に思えて、倉田駅の周辺で散財することにした。いつものようにハンバーガーを食べ、いつものように書店に行き、いつものように雑貨店を訪れ、そうして気が済んだなら帰宅しようと思ったのだ。そうでもしなければ憂鬱な気分を払いのけることができないと思ったのだ。

 それでも気分は晴れなかった。大好きなハンバーガーを食べても、大好きな漫画家の新作を手にしても、何をしても楽しい気分にはなれなかった。そのせいか、私は縋るような気持ちで例の雑貨店に入った。すると、いつもは気にしたことがなかったのだけれど、雑貨店にはブレスレットやネックレスなど、様々なアクセサリーが並べられていた。あのミサンガの代わりを探そうと思った。思ったところで、やはりどうしても優輝から貰ったミサンガのことが忘れられなくなって、切なさで胸が破裂しそうになった。そして駆け抜けるようにして雑貨店を出たとき、


「あら、この間の」


 墓地ですれ違ったあの女性と再会したのだ。




「これ、貴女の落し物でしょう?」


 喫茶店の二階、窓際の席で向かい合った私に、彼女はある物を手渡してきた。


「あっ、ミサンガ!」


 私は思わず叫んでしまった。それはまさしく、優輝から貰ったあのミサンガだった。そのミサンガを受け取ろうとして、どこか違和感を覚えた。


「私が落としたものですか、これ?」

「実はこれ、私が編み直したものなの。貴女が落としたミサンガはちぎれていたし雨に濡れていたから、とても使えるような状態じゃなかったの」


 そう言って女性はもう一つ、私に小箱を差し出してきた。その中には布に包まれたボロボロのミサンガ、優輝が編んでくれた本物のミサンガが入っていた。


「ありがとうございます。拾って下さったんですね」

「いいのよ。おせっかいだったかしら、新しいミサンガなんて」


 はっきりと言ってしまえば、素姓の知らない相手から貰ったミサンガを身に付けることには抵抗があった。優輝のミサンガを拾ってくれたことには素直に感謝できたけれど、新しいミサンガを身に付けることはまた別の問題だった。それでも私は笑顔を浮かべて、こう言った。


「いえ、とても嬉しいです。古い方のミサンガも大事なものだけど、新しいミサンガもとても素敵です」

「優しいのね」

「でも、どうしてわざわざ新しいミサンガを編んでくれたんですか? 私と会える保証なんてありませんよね」

「私と貴女は何度かあの店ですれ違ってるのよ。貴女は雑貨に夢中で気付いてなかったようだけど」


 ああ、あの既視感はそういうことか、と私はそのときになって気が付いた。


「訊いてもいいかしら。そのミサンガは誰かからの贈り物?」

「ええ、とても大事な人の。十年も前にずっと遠くへ行ってしまった人の……」

「そう。実は私も大切な人を亡くしたばかりなの。私たちって似た者同士なのね」

「と、とんでもない!」


 そう言って私は否定した。言ってしまってから、言葉が足りなかったことに気が付いた。


「そういう意味じゃないんです。私なんか、お姉さんのように綺麗でもないし、不器用だからミサンガなんて編むことだってできないし……」

「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私、茉莉花(まりか)っていうの。よろしくね」

「私は木戸咲良(きどさくら)です。よろしくお願いします」


 咲良の字を教えるために紙ナプキンに名前を書くと、茉莉花さんも紙ナプキンに何かを書き出した。


「これね、私の住所と連絡先。今度、家に来るといいわ」

「いいんですか?」

「ええ。本当は猫でも飼って寂しさを紛らわせたいけど、ペットは禁止だって言うし、この街に住んでる弟もなかなか訪ねてきてくれないし」

「私は……猫と同じなんですか?」


 私がそう言うと、茉莉花さんはたちまち笑い始めた。口を隠して静かに笑う、上品な笑い方だった。


「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの。面白いわね、貴女」

「こちらこそごめんなさい。失礼なことを言ってしまって」

「いいのよ。私が言葉を間違えたんだから。きっと来てくれるかしら?」

「はい、必ず伺います」

「ありがとう、咲良さん」


 その日はそれで別れた。帰りの電車の十五分間は、どうしてだかあっという間に感じられた。






 その次の日曜日、私は茉莉花の家を訪ねることにした。高校は夏休みに入っていたし部活にも所属していないから、本当は平日でも良かったのだけれど、茉莉花さんは社会人だから夏休みがないだろうと考えた。だから日曜日に訪ねることにしたのだけれど、休日に自宅を訪ねるのは迷惑かもしれないと、茉莉花のマンションの前に来たときになって思い至った。それでもどうせ来てしまったのだし、ちょっとお茶を飲むだけでも良いかなと、茉莉花さんの部屋のチャイムを押した。

 ちょうど十二時を回ったところだった。チャイムを押し、しばらくしてもう一度を押した。反応がなかったので立ち去ろうとしたとき、玄関のドアが開いてタンクトップ姿の茉莉花さんが現れた。


「おはよう、今起きたの」

「ごめんなさい、迷惑でした?」

「いいえ。ちょうど起きなきゃいけない時間だったから。さあ、入って」


 少し前屈みになってドアを開けた茉莉花さんの、豊潤な胸元が露わになっていた。私は見ないふりをして、誘われるままに玄関をくぐった。茉莉花さんは部屋の奥へ入って行くところだった。今度はとても丈の短いホットパンツが目に付いて、私はどうしてだか緊張させられるのだった。

 一言で表すとするなら、茉莉花さんの部屋は実に質素だった。あの雑貨店で買ったらしい小物や白い書棚があり、ソファやカーテン、花柄の壁紙などは寒色で統一されている。暖かみを感じさせない部屋だった。ソファに座る黒猫のぬいぐるみが、唯一の例外といえた。それは茉莉花さんに残る幼心を体現しているようで、私はなんとなくほっとした気分になった。


「一人暮らしなんですか?」

「言ってなかったかしら。実家は東北にあって、弟はこの街に住んでるけれど……。猫も飼えないから、今は一人暮らしよ」

「今は……?」

「同居人がいたんだけどね、……」


 しまった。茉莉花さんとは墓地ですれ違ったじゃないか、きっとあそこに埋葬されているのが茉莉花さんと同居していた人物なんだ、と思った。謝る機会すら逃してしまって、私はソファに座ることもできずに立ち尽くした。

 茉莉花さんが寝室と思われる部屋に引っ込んだので、私は西向きのベランダに出てみた。この部屋はマンションの最上階で、軽い高所恐怖症の私は目眩がするようだった。不意に気になったのは、茉莉花さんの職業だった。マンションの最上階に住み、値段の張る北欧製の家具を買うくらいなのだから、沢山のお給料を貰っているに違いないと思えた。看護師か何かだろうか?

 ふと、ベランダの隅っこにある吸い殻入れが目に入った。茉莉花さんに対する印象ともみ消された煙草とが結びつかず、少しばかり驚きを感じた。

 私が室内に戻ると、茉莉花さんは青い無地のエプロンを着ていた。


 「料理はあまり得意じゃないけれど、何か作ってみるわ」


 そんなことを言う茉莉花さんの手際は、たしかにあまり良くはなかった。私は手伝いますと提案してみたのだけれど、お客様は座っていて、と無理矢理ソファに座らせられるのだった。液晶テレビから流れてくる放送はどれもつまらないものばかりで、ついつい書棚やCDラックを触ってしまった。書棚には谷崎潤一郎や安部公房といった名前が並んでいて、私はどれも読んだことがなかったけれど、なんとなく茉莉花さんの趣味が理解できた。CDラックに並んでいるものには、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやセックス・ピストルズ、チェット・ベイカーなどの名前が並んでいたけれども、やはり私の知るものはなかった。

 そうこうするうちに茉莉花さんがコーヒーと一緒に運んできたのは、昔ながらのナポリタンだった。気の利いたものを作れなくてごめんなさいと茉莉花さんは言ったけれど、私はナポリタンの素朴な味が大好きだったので、そんなことはないですよ、と否定した。茉莉花さんの作るナポリタンは薄味だった。空腹だったのでそれをあっという間に食べ終えて、私はくつろいだ気分になった。


「普段はね、もっと周到に準備するの。レシピを調べたり食材を吟味したり。だからいつもはもっとマシなものが作れるんだけど、ごめんなさいね」

「いえ、とても美味しかったです」


 私が吐いた二度目の嘘だった。それでも茉莉花さんは喜んでくれたから、たまには嘘も必要なんだと自分に言い聞かせることにした。

 このとき、私たちは何を話したか、よく覚えていない。いつもは受け身な姿勢になってしまう私だけれど、珍しくよく喋っていたと思う。そして、茉莉花さんはそれを笑顔で聞いてくれた。

 ある瞬間、会話が途切れた。茉莉花さんが立ち上がり、食器を流し台に持って行った。コーヒーのお代わりを頼むために、私もコーヒーカップを持ってその後に付いて行った。


「ちょっとそこへ立ってみて」


 茉莉花さんは私を青色の冷蔵庫の前に立たせた。私は何の疑いもなしに従った。そして、茉莉花さんは私を力任せに冷蔵庫に押しつけると、身体を密着させて唇を重ねてきた。何が起こっているのか分からなかった。ジャスミンの香りを嗅ぎながら、何故だか優輝のことを思い出していた。それは、私にとって初めての口づけだったから。

 五秒ほどの間だったと思う。それでも、茉莉花さんとの口づけはとてもとても長く感じられた。唇を離して見つめ合ったとき、不思議に嫌悪感はなかった。異性への気持ちが歪んでしまったから、同性を愛してしまうようになったのかもしれないと、私は冷静に考えた。けれども、心の底にじんわりと違和感が広がっていくのが分かった。

 茉莉花さんの視線が私の右手へと向けられた。そして茉莉花さんは、自分で編んだ新しいミサンガにも優しい口づけをした。不思議なことに、その瞬間にこそ茉莉花さんとの肉体的な繋がりを感じた。

 私は茉莉花さんの身体を引き離して食事の礼だけ言うと、そのまま駅の方角へ走り去った。

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