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壁の中から

 月に支配された夜の世界が、朝焼けに染まって解きほぐされていく。月は空の彼方に追いやられ、太陽の時代がやって来る。そうして人が、車が、工場が、今日もまた活動を始めるのだ。街の活気はうねりを上げて、この小高い丘の静かな墓地にも届いてくる。風に乗って運ばれてくる塵埃(じんあい)は却って快く、私の心を貫いた。ああ、何度来ても景色の良いところだ。この倉田という街が一望できる、素晴らしい場所だ。私はここに眠る幼馴染のことを少しだけ羨ましく思った。

 と、携帯電話のバイブレーションが鳴った。画面には『夏目』の文字。瞬間、私は十年近く前にここで起こった出会いのことを思い出した。あれはたしか、雨の日のことだった。夏の初めの、ある雨の日のことだった……






 未だ幼い少年と少女は疾駆する、匂い立つような緑を踏みつけて。草原はどこまでも続くかのように思われ、視界を遮るものは何もない。地平線の上方に夕星はいかにも清らかな煌めきを見せ、星々の連なりも明瞭に見えた。ふと空を見上げた少女が二度三度と瞬くうちに、夜空には射手座の形に線が刻まれた。それはまさしく、二人を狙う魔弾の射手だった。

 天空の奥深くが明滅する。それに続く雷鳴はない。不審に思った少年が空を見上げると、ちょうど流星が地表に向けて放たれたところだった。流星は大地に足を伸ばす根っこのように、いくつもの線に分裂していった。そう思った次の瞬間には、そのうちの一つが二人をめがけて落下してくるのだった。立ち止まった少年が少女を守ろうと覆いかぶさる。贋物(にせもの)のような閃光の中で、少女は少年の最期の言葉を聞いた。


「大丈夫、俺がいるから」


 はっと目が覚める。優輝のささやきを聞いたような気がした。

 テーブルの上に読みかけの漫画、勉強机の上に忘れられたプリント、そして色褪せた写真の収められた写真立て。枕元には幼い頃に買ってもらった犬のぬいぐるみ、壁には私の大好きなイギリスの女優のポスター。華柄のカーテンの隙間から漏れる光が、六時三十分を指す壁の時計を射抜いている。

 全ては尋常に存在している。そう、尋常に。私はたった今までの世界が崩壊し去ったことを知ると、ほっとした気持ちともの悲しい気持ちとを味わった。夢の中の少女は間違いなく幼い頃の私で、少年は幼馴染の寺本優輝(てらもとゆうき)だった。悲しい気持ちになったのは、彼がこの世にはもう存在していないためだった。

 ベッドから起き上がり、窓を開ける。夏の始めの爽やかな暑気が、ひんやりとした部屋の空気を撫でる。優輝が事故で死んだのも、ちょうどこんな夏の日だったように思う。今日の学校が終わったら、一ヶ月ぶりの墓参りをしようと思った。




 その日は期末テストの最終日だった。私の取り柄は休まずに出席することで、そのおかげか特別な苦労をせずに問題を解くことができた。高校一年目の授業は、今のところ中学の延長のようなものだったから。

 学校は午前中に終わる予定だったけれど、最後のテストが始まった途端、青々とした空に雨雲が広がった。窓際の席に座る私は、夢の中の天空の明滅を思い出して、たまらなく嫌な予感がした。それでなくとも、夏の雨が嫌いで仕方なかったというのに。日本の夏は雨が多いんだよ、と優輝が教えてくれたことを思い出すから。

 学校が終わる頃には大雨になって、傘を持たない私はしばらく図書室で時間を潰さざるを得なくなった。元来、本を読むという習慣を漫画以外では持たなかったけれど、高校に上がってから小説を読むようになった。同じ中学に通っていた親友が、小説を読む習慣を持ってから国語の成績が良くなったと言っていた。娯楽として楽しめるうえに成績も良くなるという、都合の良い話を私は鵜呑みにしなかったけれど、なるほど、自分なりに小説を読解することで考える力を養えるように思えたし、漢字の覚えも良くなったような気がした。

 テスト期間中は部活も休止になっていたので校内にはほとんど生徒の姿がなく、図書室は一応生徒に開放されていたものの、いやに静かだった。そのために雨音が際立って聞こえてくるので、聞き耳を立てながら新着の小説の頁をめくった。篠突く雨の音を聞きながら壁の内側にいると、不思議に心地良い気分になった。三十分ほどすると雨雲の切れ間が見えたので、私は学校近くのコンビニで安物のビニール傘を購入した。

 私は電車で通学している。乗り換えで利用する倉田駅は人口七十万の倉田市の中心部であり、市内では最も乗降客数の多い駅で、駅ビルとその周辺には様々な有名チェーン店が軒を連ねている。そのために食事の選択肢は多かったけれど、さすがに女子高生が一人で牛丼を食べるわけにもいかず、結局はいつものようにハンバーガーを食べることにした。優輝の埋葬されている墓地まではバスで行くのが最も効率的な選択肢だったけれど、まだバスの時刻には早かったので、食事を終えてからお気に入りの雑貨店へ向かうことにした。

 その雑貨店は外国から買い付けてきた商品が中心の店で、外国の家具といえば北欧のものなどが思い浮かぶけれども、まさにフィンランド製の素朴な書棚や、ソリに乗ったサンタクロースの小物などが並んでいる。私はアルバイトをしているわけではないので、輸入物のそれなりに値が張る雑貨を買うことはできなかったけれど、眺めているだけでも満足できた。そして、いつかは素敵な雑貨を並べた部屋で一人暮らしをしてみたいと考えてみたりするのだった。




 私は優輝との出会いをよく覚えていない。物心がついたときから一緒にいたためだ。記憶が整ってくるのは四歳ぐらいからのことで、その頃には私は優輝のことが好きだった。あるとき、私と優輝を含めた数人でおままごとをすることになった。父親役を演じることになった優輝は、迷わず私を母親役に選んでくれた。私はそんな他愛のないことにとても喜び、それでもその気持ちを伝えることができなかった。私たちはいつも一緒にいたけれど、お互いに好意を言葉で確認することはしなかった。

 優輝は女の子の人気者だった。たまに写真を見返してみたりすると、たしかに幼いなりに顔つきが整っていて、女の子に好かれていたのも理解できる。バレンタインの日などにはたくさんのチョコレートを貰っていたのを覚えている。私は結局、いつもチョコを渡せずに終わったのだけど。

 そんな優輝との別れは唐突だった。十年前の不幸な交通事故で優輝は死んだ。とても悲しい別れだったというのに、私は今でもその前後のことをよく思い出せない。いや、だからというべきか。とにかくそのときのことを思い出そうとすれば、必ず拒絶反応が起きる。動悸がして、冷や汗がにじんできて。優輝の最期の瞬間を、私は見ていたはずなのだ。

 優輝という大切な存在を失ってから、異性というものとどう接すればいいのか分からなくなってしまった。今までに告白してくれた男の子はいたのだけど、どうしても優輝のことが頭から離れず、いつも逃げていた。幼い頃から私を知っている小学校や中学の友人は、その辺りの事情をよく理解してくれていた。けれども、高校に入学してからは昔から知っている友人もいなくなって、私は自然とクラスの中で孤立するようになった。

 決して、いじめられているというわけではなかった。学校にだって毎日ちゃんと出席したし、他愛のない会話を交わす相手もいた。それでも何か、どうしようもない空白があった。それは高校に入ってから生まれたものではなくて、優輝を失ったときに生まれたもの、つまり空白は優輝そのものだった。私は過去に一度だけ、一番の親友にそのことを相談したことがある。返ってきた答えは、


「さっさと忘れなさい」


 だった。それは冷たい言葉ではなく、思いやりのある温かい言葉だったし、私も頭では理解していた。優輝のことはもう終わったことなのだと。それでも、気持ちがついていかなかった。将来を誓い合った優輝との別れは、私の心を徹底的に壊してしまったのだ。




 通学カバンの中からハンカチに包んだミサンガを取り出し、それを右の手首にはめる。それは優輝からプレゼントされた思い出の品で、お墓参りをする日には必ずこうしているのだ。バスを降り、後ろを振り返ることなく丘の上まで歩く。丘の上の墓地に達したとき、私は初めて後ろを振り返った。今日は視界がぼやけて遠くの方はよく見えないけれど、その墓地からは市街の様子が一望できて、きっと優輝もこの風景を楽しんでいるだろうと思われた。

 優輝のお墓は手入れが行き届いている。ここで出会ったことはないけれど、遺された家族が度々ここを訪れているのだろう。お花を手向け、手を合わせて祈りを捧げる。心の底から湧いて出る言葉はなく、哀切の情だけを強く感じた。


「さっさと忘れなさい」


 あの親友の言葉が心の中で木霊する。たしかに、もう後ろを振り返らなくても良いのかもしれない。けれど、それは決して忘れるということと同じではない。後ろを振り返らないままに泥を跳ね上げるようなことはできない。けれど、けれど……。

 未だに心の整理がつかない。ここに眠る幼馴染のことを、私はいつまでも想い続けるのだろう。

 伏せていた顔を上げたとき、こちらへと近づいてくる人影が見えた。喪服に赤い傘のよく映える、麗しげな女性の姿だった。あまりに美しかったので、私は思わず声を漏らしていた。その女性は私よりもずっと背が高く、ヒールの高い靴を履いているのかと思われたけれど、それにしても女性はすらりとした長身だった。すれ違うとき、ちらりと私の顔を見て微笑んだ。目と目が合った瞬間、ああ、私もこんな綺麗な女性に、大人の女性になりたいと思った。

 すれ違いざまに雨粒が運んできたのは、ジャスミンの香りだった。香水の匂いのきついことよりも、その香りの芳しさにうっとりとしてしまった。すれ違った後に残ったのは、妙な既視感だった。まるで彼女と出会うことが運命だったかのような、妙な感覚に襲われたのだ。

 その感覚は勘違いではなかった。積鬱(せきうつ)の雨の降る墓地で出会ったその女性とは、再会を果たすことになるのだから。

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