14-砂男
視界一杯に広がる、かつて一号怪獣だった物体から飛び出した無数の触手。
一つひとつが鞭のように強靭で、当たれば皮膚が裂けるどころか骨まで砕けそうな剣呑な凶器。
その無数の凶器が、怒涛の勢いで自分に殺到した時、明人は死を覚悟した。
死を覚悟した明人の脳裏に浮かんだのは、眠ったまま目覚めの兆しを見せないたった一人の肉親である弟ではなく、なぜかここ数ヶ月いつも一緒にいた銀髪の女性の姿だった。
機械工学の世界的権威であり、同時に歴史の裏側で生き延びた魔術師でもあるその彼女。
その割にはどこか抜けているところがあり、家事が苦手だったりと決して固いだけの人物ではない。
そして彼女が自分に向ける笑顔に、明人自身何度も助けられてきた。
明人が死の直前に感じたのは、その笑顔がもう見られないという残念な思い。
──そうか。俺はいつの間にか……
彼がそう思い至った時、不意に彼の身体に衝撃が来た。
最初はとうとう触手が襲いかかってきたのかと思ったが、その衝撃は正面ではなく背中から。という事は、この衝撃の正体は触手ではない。
では一体何が? と考えた明人がちらりと肩越しに横目で確認すれば、彼の背後に柔らかくて暖かくて肌色な物体が張り付いていた。
そして、ふわりと彼の頬をくすぐる銀の髪と、最近ではすっかり馴染んでしまった彼女の匂い。
「……シルヴィアさん……?」
思わずそう呟いた時、明人の意識は暗転した。
再び明人の意識が暗闇から浮上した時、咄嗟に周囲を確認した彼の眼に見慣れた光景が飛び込んで来た。
「……ここは……シルヴィアさんのオフィス……?」
怪獣自衛隊に招聘されているシルヴィアは、城ヶ崎基地内にオフィスを構えている。
当然明人もその部屋には何度も出入りしており、明人の記憶は今自分がいる場所が間違いなくそこである事を告げていた。
そして、オフィスの床に直接座り込んでいた明人が、周囲を見回した時に眼に飛び込んできたものがあった。
それは肌色をした物体。その物体は自分の背中にしがみつくように抱きついており、はあはあと息を荒げている。
「……シルヴィア……さん?」
耳元で繰り返される息遣いと覚えのある匂いから、明人は背後にいるのがシルヴィアであると確認する。
そして振り向いた明人は、今のシルヴィアの姿を見てそのままずざざざーっと腰を落としたまま後退した。
「な、なななななな、なんて格好をしているんですか、シルヴィアさんっ!?」
驚きに眼を見開いた明人の視線の先で、全裸のシルヴィアが荒い息使いのままにこりと微笑む。
手で胸元と股間を何とか隠しながら──その豊満な両の胸はとても腕一本で隠しきれないが──、何とか息が整ったらしいシルヴィアがようやく口を開いた。
「…………な、何とか……間に合った……わね……」
「え?」
そう言われて、明人は意識を失う直前の事を思い出した。
視界一杯に広がる無数の触手。あの触手に絡み取られれば、皮膚を解かされ骨を砕かれ、最後には一号怪獣の細胞に吸収されてしまっただろう。
だが、実際にはそうはならず、明人とシルヴィアは一号怪獣の細胞が暴れていた解析施設から遠く離れたシルヴィアのオフィスにいる。
当然、明人はシルヴィアが何らかの手段──魔術的なもの──を施した事を理解した。
そんな明人の思いを見透かしたのか、シルヴィアは自分が行った事を彼に解説する。
「予め、この部屋には緊急避難用の転移ポイントが設定してあったの。どこかで転移の魔術を発動させれば、瞬間的にここに戻って来られるようにね」
「転移……いわゆる、瞬間移動って奴ですか?」
「ええ、その通りよ。って、明人くん? いくらあなたでも、あまりまじまじと見ないでもらえるかしら?」
「あ、え、ええと……す、済みませんっ!!」
彼女が全裸なのを改めて思い出し、明人は慌てて後ろを向いた。そしてそれを確認したシルヴィアは、とりあえず椅子の背もたれにかけてあった白衣に袖を通す。
「転移の魔術は予め施術しておいた鍵を操作すれば発動はできるけど、実際は高難度な魔術の一つでね。消費する魔力も馬鹿にならないのよ」
魔力というものは人間の体表全体から放射される。そのため、消費の激しい魔術を行使する際には、極力肌を露出させる必要がある。
転移の魔術もそんな術の一つであり、発動する際には肌を晒す必要があった。
正確にいえば全裸にまでなる必要はないのだが、一行程で脱衣するには細かい設定までを施す事はできなく、「脱ぐ」か「脱がない」かの二択しかない。そのため、緊急時に転移を使うには全裸になるしかないのだ。
そして、これこそがシルヴィアが同行者に明人を選んだ理由でもある。
彼女とて異性に肌を晒すのは本意ではない。しかし、今更言うまでもないが彼女にとって明人は例外的な存在である。
恥ずかしいものは恥ずかしいが、それでも彼になら肌を晒しても許せると思うのだ。
説明を聞き終え、明人は思わずぽかんとした表情になる。そんな彼にシルヴィアは悪戯っぽい微笑みを向ける。
「私が肌を晒しても許せると思えるのはあなただけよ? それだけは忘れないでね?」
城ヶ崎基地の司令室に、状況オペレーターのアンジェリーナの声が響く。
「シルヴィア師……いえ、カーナー二佐と白峰二尉の生体反応が解析施設から消失。ですが次の瞬間に再び二人の生体反応が現れました。おそらく、緊急事態に遭遇して転移したものと思われます」
「カーナー博士が言っていた緊急手段とはそれの事か?」
「はい。おそらく間違いありません」
権藤の質問にアンジェリーナが答えると、彼は次にベアトリスに向けて口を開く。
「白峰二尉たちが転移したという事は、彼らが非常事態に遭遇したという事だ。念のため『騎士』の出撃準備を急がせろ。それから茉莉くんとミツキくんは和人くんの病室なのかね?」
「おそらくそのはずですが……」
和人が眠りについてからというもの、茉莉とミツキはずっと彼に付き添っている。
当然今のそのはずだとベアトリスが答えたのも無理のない事。
だが、今二人は和人が寝ている病室にはいない。彼女たちは今、日本から遠く離れ所にいるのだから。
ヨーロッパはドイツ中央部。
ハルツ山地の最高峰であり、ブロッケン現象が起こりやすいことで有名なブロッケン山。
山頂は年間三百日は霧に覆われ、九月から五月にわたり積雪が残る。
この山は年に一回魔女が集まって饗宴をする、いわゆるヴァルプルギスの夜の舞台と言われ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲「ファウスト」にも登場する。
そんな反面、なだらかな山であるため山頂まで蒸気機関車やマウンテンバイクで登ることもできるという面も持つ。
だが、この山の付近には本当に魔物が、いや、正確に言えば幻獣が棲んでいる事を知る人間は殆どいない。
そんなブロッケン山の麓に広がる森の中、ミツキと茉莉、そしてベリルの姿があった。
日本からドイツまでは飛行機で約十二時間。
だがベリルの翼は実に三時間程でその距離を飛び越えた。
和人たちが鳳王たる沢村正護と共に、例の西洋人の青年と出会ったのが日曜日の正午過ぎ。
その後、和人が襲われて病院に運び込まれたり、城ヶ崎基地に移転されたりと何だかんだあった後、茉莉たちが基地を抜け出したのはほぼ二十四時間後の翌日の正午前。
そして三時間程の飛行でドイツまで来たが、日本とドイツの時差は約八時間ほどあるので、現地の時間は朝の七時ほど。
まだまだ早朝とも言える時間ともなれば辺りに人影はまるでなく、森の中には茉莉たち以外には野生の小動物ぐらいしか気配はない。
そんな森の中、先導するミツキが不意に足を止め、それに合わせて茉莉もまた立ち止まって不安そうに周囲を見回す。
「どうしたの? 急に立ち止まって」
「目的地に着いたのでな」
茉莉の質問に簡潔に答えたミツキ。その視線は森のとある一点に定められぶれる事もない。
「いるのであろう? 砂男よ。竜王たるこの我がわざわざ足を運んだのだ。迅くその姿を見せぬか」
ミツキのその呼びかけに応えるように、森の一点の地面が蠢く。いや、地面というよりその表面の砂が寄り集まり、次第に人の形を造り上げていく。
「お久しぶりにございますな、竜王様」
やがて砂は、一人の長身の男性の姿となる。
森の中だというのにぴしっとした黒の三つ揃えを着込み、眼には単眼鏡。灰色の髪を綺麗にオールバックに撫で付けた、整った顔つきの一見すると執事のような三十代程の男性だった。
彼は砂男──サンドマンと呼ばれる眠りを司る幻獣である。
サンドマン (Sandman)はドイツではザントマン (Sandmann)とも呼ばれ、民間伝承にも登場する睡魔である。
伝承の中でのサンドマンは、砂の入った大きな袋を背負った老人の姿であるとされ、その袋の中には眠気を誘う魔法の砂が詰まっており、彼は夜更けになると人々の目の中にこの砂を投げ込む。すると、人々は目が開けられなくなり、眠らずにはいられなくなってしまうという。
ここドイツでは、古くから夜更かしをする子供に「ザントマンがやってくるぞ」と脅して寝かしつける習慣がある程だ。
「お主に頼みがある」
「竜王様の頼みとあればどのような事とて……と、申し上げたいところですが内容によりますな。私めはそれほど力の強い幻獣ではありませぬゆえ」
「眠りを司る、貴様に見てもらいたい人間がおるのだ」
ミツキの言葉を、サンドマンは微笑みながら聞いている。
その穏やかな微笑みと直立不動の姿勢から、ますます執事のようだと茉莉は思う。
茉莉がそんな事を考えている間も、ミツキとサンドマンの会話は続いている。
「我が契約者が不本意な眠りに囚われた。なんとかして、契約者の目を覚まさせたいのだ」
「ほう。ついに竜王様にも契約者が現れましたか。それは目出度き事にございますな」
「そのような世辞は要らぬわ、うつけ者めが。それでどうなのだ? 我と共に来るのか? 来ぬのか? いや、来ぬと言われても力尽くでも連れて行くがな」
腕を組み、不敵な笑みを浮かべるミツキ。そんな彼女に対して、サンドマンはきっちりとした動作で頭を下げた。
「いやはや、力尽くと申されましては私めには抗う術はございますまい。よいでしょう。竜王様と共に参りましょう。とはいえ、それなりの報酬は期待してもよろしゅうございますな?」
「うむ。わざわざ面倒をかける故、我にできることならなんでもしよう。して、貴様はこの竜王たる我に何を望む?」
なに、簡単な事でございますよ、とサンドマンは涼しい微笑みを浮かべたまま、実にとんでもない事を口にする。
「竜王様のその可憐にして隆々たる胸の二つの頂────すなわち、竜王様のおっぱいを触らせていただきとうございます」
「はあっ!? な、何言い出すのっ!?」
余りの想定外の事に、思わず言葉が飛び出してしまった茉莉。
如何にも真面目な紳士といった外見のサンドマンから、そのような要求が飛び出すとは思いもしなかったのだ。
「いやなに、自分で申すのも何でございますが、私めは無類のおっぱいマニアでございまして。かねてより、一度でいいから竜王様のその比べるもののない美しき胸の双丘に触れてみたいと思っておった次第です」
どこまでも礼儀正しく。どこまでも紳士の振る舞いで。好色じみた様子は微塵もなく。
サンドマンはあくまでも真面目にとんでもない事を口走る。
そのあまりのギャップに、茉莉は開いた口が塞がらないほどだった。
「それで、いかがでございましょうや、竜王様? あなた様のその二つの魅惑の果実、触れてもようございますかな?」
サンドマンは言外に、触らせてくれなければ言うことを聞かないと滲ませながらミツキに決断を迫る。
対してミツキは、相変わらず不敵な笑みを浮かべながらサンドマンを見詰める。
「断る」
だが、ミツキはサンドマンの要求をきっぱりと拒否したのだった。
『怪獣咆哮』更新しました。
今後もできればこのペースで更新していきたいと思います。
いや、できれば、ですよ?
そういえば、以前に設定した当面の目標である「お気に入り登録150突破、文章評価・ストーリー評価それぞれ100突破」ですが、お気に入り登録の方はおかげ様をもちまして現在166と目標達成。両評価も91と92と目標達成まであと僅かです。一日でも早く達成できるよう、今後もがんばって行く次第であります。
次回もよろしくお願いします。