08-依頼
「はいぃ、お茶でもどうぞぉ」
その声と同時に、和人と茉莉の前に湯気の立つ湯飲みが置かれる。
そして置かれた湯飲みを手に取り、和人は一口それを口に含む。
途端、口腔に広がる癖のある独特の香気。
「……なぜに梅昆布茶……?」
首を傾げながら呟いた和人に、それはにこやかに答えた。
「時々ぃ、近所に住む人たちがお供え物として置いていってくださりましてぇ。ありがたく頂戴してますぅ」
と、それは和人同様に湯飲みを傾けた。
「あのー……」
タイミングを見計らい、今まで気になっていた事を茉莉が尋ねる。
「あなたは……本当にこの磯女の洞窟の磯女さん……なんですか?」
「はいぃ。近所の人たちからはぁ、昔からそう呼ばれていますねぇ」
と、それ──磯女はやっぱりにこやかに笑いながら答えた。
和人と茉莉の前に舞い降りた磯女。
彼女は二人の前まで来ると──やおら三つ指着いて丁寧に頭を下げた。
「お目覚めでございますかぁ、お客様ぁ? でしたらぁ、こちらへどうぞぉ」
「……はぁ?」
妙に間延びした口調はともかく、まるで旅館の仲居の如くに綺麗に頭を下げる磯女。そして彼女が頭を上げて天井の一角を指し示した。
釣られてそちらを見れば、天井にぽっかりと穴が空いていた。どうやらこの磯女はあの穴から現れたようだ。
「あー、そ、その……その前にさ、俺たちの服、知らない?」
和人は頬を朱に染めて視線を逸らしながら磯女に尋ねた。
自分も背後の茉莉も、そして目の前の磯女も。
この場にいる者全員が裸なのだ。もっとも、磯女が裸なのは上半身だけであり、下半身は蛇なのだが。
だが、その上半身が曲者だった。シルヴィアに等しい体積を持ったソレが、艶めかしくも完全に和人の目の前に晒されているのだから。
「あ、はいぃ、お客様たちのお召し物ですかぁ? それなら海水で濡れてしまったのでぇ、真水で洗った後で乾かしてありますよぉ」
どうやらこの磯女は、海水で濡れた和人たちが風邪を引かないように、衣服を脱がしその後きちんと洗ってくれたらしい。
そういえば、と和人は思う。
この洞窟の中は裸でいても寒くはなかった。だが逆に、濡れた服を着たまま放置されたら、きっと風邪を引いてしまっただろう。
彼らを裸にしたのは、変な目的があったわけではなく、単に和人たちの体調を気遣ってのものだったのだ。
その事にちょっとだけ安心した和人は、もう一度天井に空いた穴へと視線を向ける。
「で、どうやって天井の穴まで行けって?」
「それはですねぇ、こうやってですよぉ」
何とも落ち着かない気持ちを和人は味わっていた。
今、彼は裸のままぶらぶらと揺られていたのだ。
いや、ぶらぶらしているのは彼のナニではなく。今揺れているのは彼自身であった。
和人は磯女の尻尾を腰に巻き付け、そのまま運ばれて岩室の壁をゆっくりと登っているところなのだ。
磯女には壁や天井を地面同様移動する能力があるらしく、うねうねと蛇のように移動するが落下の恐れはなさそうだ。
しかし、磯女の尻尾を腰に巻き付け、そのままぶらぶらと揺れながら運ばれるのは何とも落ち着かない気分にさせられた。
先程のウーパーもどきを攻撃した事といい、今自分を運んでいる事といい。おそらく自分と茉莉を強引に攫ったのはこの尻尾だろうと和人は見当をつける。
ふと下を見やれば、茉莉が心配そうにこちらを見上げているのが目に入った。どこか視線が泳いでいるのは、きっと彼の全てが見えてしまっているからだろう。
かといって、彼女の方を先に行かせるわけにもいかなくて。
茉莉を先に行かせてしまえば、今度は彼女の全てが見えてしまうだろう。今更といえば今更だが、やはり気になってしまうのだ。
それに、全く危険がないと言い切れない場所に、彼女を先に行かせるのも躊躇われた。
そこでまず、和人が磯女に連れられてこの岩室から出る事にしたのだ。
完全に磯女を信用したわけでもないが、他に取るべき手段も見当たらない。
そもそも最初から危害を加えるつもりならとっくにそうしているだろう。何も今更騙す必要なんてないのだ。
その辺りを茉莉と相談し、彼らは磯女に連れられて岩室を出る事を選択した。
やがて磯女は天井の穴に到達し、そのままするりと穴に入り込む。当然和人もそのまま引っ張られていく。
穴の中は暗かった。ここには先程の岩室のような謎の発光体はないらしい。
どうせ真っ暗なので和人は目を閉じる。そうして相変わらずぶらぶらと揺れながら進むと、やがて身体が傾くのを感じた。どうやらどこかの部屋か何かに到達したらしい。
目を開けた和人は、ここにも発光体がある事にちょっと安堵する。やはりずっと真っ暗なのは精神的にきついのだ。
磯女は和人の腰に絡めていた尻尾を解くと、ちょっと待っていてくださいねぇ、と言い置いてこの岩室にあった通路へと姿を消した。
今和人がいる岩室は、先程までいた岩室に比べるとかなり狭い。五メートル四方ほどの四角い岩室だった。
その岩室から伸びる通路は二本。一本は和人が運ばれて来た床に空いた穴。もう一つが先程磯女が姿を消したもの。
「しかし、どれだけ広いんだよ、この洞窟……」
岩室を眺めながら改めて和人は考える。
最初に足を踏み入れた洞窟の入り口。そこから和人が目覚めた真っ暗な岩室までどれだけの距離があるのかは判らないが、入り口から今和人がいるこの岩室までは、かなりの距離があると推測される。
そんな事を考えていると、先程の通路から和人と茉莉のものらしい服を手にした磯女が戻って来た。
「はいぃ、これをどうぞぉ。こちらは下で待っているお嬢様にお渡ししますねぇ」
そう言うと磯女は茉莉の服を持ったまま、床に空いた穴へするりと身を潜らせた。
そして和人はこれも磯女の気遣いである事に気づいていた。
裸でいるのも恥ずかしいが、異性の前で服を着るというのも何だか気恥ずかしい。その辺りを考慮して、あの磯女はまず和人だけをここに連れて来て服を渡し、茉莉の分は下へ持って行ったのだろう。
そんなちょっとした気遣いに感謝しつつ、和人は手早く衣服を身に着けた。
服を着た茉莉を連れて戻ってきた磯女は、再びもう一本の通路へ入ったかと思うと、今度は急須と湯飲みを持って戻ってきた。
そして急須から三人分のお茶を注ぐと、それぞれのまえにすっと差し出した。
三人がそれぞれお茶を飲み、ふぅと一息吐く。
ちなみに、磯女には和人の上着を着てもらった。いくら自分たちが服を着ても、彼女のその豊満な胸が目の前でふるふると揺れたりするのはどうしても落ち着かないからだ。
そして和人は、服を着ているのがとても落ち着くものだと改めて思い知らされた。
だが、改めてと言えば目の前の磯女の目的だ。
どうして彼女は自分たちを攫ったのか。更に言えば、緑川の安否──ちょっと前まですっかり忘れていたのは秘密──だってある。
そしてあのウーパーもどき。あれらが磯女の仲間ではないのは先程の戦闘で明らかだ。ではあのウーパーもどきは一体何なのか。
なぜ自分と茉莉はあの真っ暗な部屋に置き去りにされていたのか。
考えれば考えるほど尽きない疑問。思い切ってこの磯女にその事を尋ねようかと和人が思っていると、当の磯女の方から口を開いた。
「実はですねぇ、お客様たちに来て頂いたのはお願いがありましてぇ……」
「お願い? それって──」
内容を尋ねようとした茉莉を、和人は彼女の肩に手を置いて止めさせた。
不思議そうにこちらを向く茉莉に、和人は一つ頷くと彼の方から質問する。
「その前に、幾つか聞いてもいいか?」
「はい、どうぞぉ」
「まず、一つ目。どうして俺たちをあの真っ暗な岩室に放置しておいたんだ?」
「ああ、それはですねぇ──」
磯女は、相変わらずにこにこしながら和人の質問に答えてくれた。
磯女は彼らの海水で濡れてしまった服を洗うため、彼らの身体を丁寧に拭いた後、一旦脱がせた服を持って真水のある場所へ一人で移動した。
そして服を洗濯して干した後、和人と茉莉を別の場所に移動させようとしたのだが、戻る時に例のウーパーもどきと遭遇し戦闘になったため、彼らの元へ戻って来るのが遅くなってしまったそうだ。
その間に和人たちが目覚め、勝手に移動した。これはどちらが悪いとかではなく、単なるすれ違いというべきだろう。
「じゃあ、緑川さん──大柄な男の人はどうした?」
「ああ、あの方なら、この奥の部屋でお休みになられてますよぉ」
「お休みって……もしかして寝てるの? 昨日の夜からずっと?」
「いいえ、一度は目覚められたのですがぁ、その後ぉ、お食事とお酒を召し上がられましてぇ、またお休みになられましたぁ」
思わずぽかんとする和人と茉莉。
しばらく呆然としていた二人だったが、やがて震えるような声で和人が呟いた。
「するってえと何か? あの人、ここに連れられて来た後、暢気に飲だり食ったりしてまた寝ちまったのか? 目が醒めたなら、まず俺たちに連絡しようするのが普通じゃないか? 曲がりなりにも自衛官だろ、あの人……」
最後の方は完全に呆れの混じった呟き。
その呟きを聞きながら、茉莉もまた磯女に質問する。
「どうして緑川さんをここに連れて来たんですか?」
「えっとぉ、私、以前からずーっと独りぼっちでこの洞窟に住んでましてぇ。近くに住んでる人たちは私の事を怖がって中々近づきませぇん。時々、お供え物を持って来る人がいるぐらいでぇ。でもやっぱり一人は寂しくてぇ。そうしたら昨日、浜の近くの大きな建物の方から何やら力を感じましてぇ。夜になってからそーっと様子を見に行ったんですねぇ。そしたら、建物の一番上で数人の女性が楽しそうにお風呂に入っていてぇ。人間の方たちは私の下半身を見ると怖がるのでぇ、お風呂の中なら下半身を何とか誤魔化す事ができるかなぁって。それに私と同じような感じの人もいたしぃ、あの人たちなら私を怖がる事もないかなぁって思ってぇ。こっそりとお風呂に入ったんですよぉ。だけどその人たち、やっぱり私を見た途端、びっくりして急にお風呂から出ていっちゃってぇ」
しゅんと寂しそうに語る磯女。
どうやら夕べの幽霊の正体がこの磯女であり、露天風呂に現れたのは人恋しさからだったようだ。
壁や天井を自在に移動できる彼女は、ホテルの外壁を伝って露天風呂に侵入したのだろう。当然退路も同様。
毅士や明人たちが露天風呂を捜索しても何も発見できないわけである。
「でぇ、そのまま私の家──この洞窟に帰ろうとした時ぃ、浜辺を歩いていた男の人に見られちゃったんですねぇ。そしたらその男の人、びっくりして気を失っちゃってぇ。どうしようかなぁって迷っていると、小さな鳥さんが飛んで来てぇ。でもその鳥さん、身体は小さいのに大きな力を感じてぇ……怖くなって海の中に隠れたんですぅ」
浜辺で緑川が気絶していた理由もこれで判明した。
確かに夜の浜辺でいきなり磯女と遭遇すれば、気絶したって不思議ではない。例えそれが自衛官であったとしても。
「そのまま海に隠れて様子を見ているとぉ、数人の人間の方たちがやって来てぇ。姿を見られると怖がらせちゃうので海の中に潜んでましたぁ。するとぉ急に目の前にあの男性がどぼぉんって落ちてきましてぇ、すぐに浜に引き揚げようとしたんですがぁ、浜の方から何やら異常に強い力を感じたものですからぁ……怖くて浜に揚がる事ができずに仕方なくここに連れて来たんですよぉ」
あの時、緑川にいきなり胸を掴まれた茉莉が思わず使ってしまったベリルの力。その力が彼女を恐れさせてしまったようだ。
どうやら偶然に偶然が重なって事態が更にややこしくなったんだな。と、和人は心の中で溜め息を吐いた。
「それからぁ、今日の明け方頃にあの男の人は一度目を醒ましましたぁ。でぇ、お腹がすいたと仰るので魚を捕まえてそれを捌いてお出ししましたぁ。すると今度は何か飲む物はないかと聞かれましたのでぇ、お茶とお酒どちらがいいですかぁとお聞きしたところお酒がいいと仰るのでぇ、以前にお供え物で頂いたお酒をお出ししましたぁ」
「で、酔っ払ってまた寝ちゃったんだね」
茉莉の言葉に、磯女ははいぃ、そうですぅとやっぱり間延びした口調で答えた。
「しかし、緑川さんって目を醒ました時にあんたの事怖がらなかったのか? 夜の暗がりの中とはいえ、一度はあんたを見て気絶したんだろ?」
「それならぁ、部屋の中が薄暗くて私の下半身に気づかなかったのだと思いますぅ」
磯女の話によると、緑川のいる場所はここよりもかなり薄暗いらしい。
どうしてそんな部屋に案内したのかといえば、やはり下半身を見てびっくりされるのを防ぐためだったそうだ。
昔から人間は彼女の姿を見れば恐れおののく。中には緑川のように気絶する人も少なくない。
それは磯女にとっても辛い事のようだ。
「じゃあ、どうして俺と茉莉だけここに連れてきた?」
「お客様たちは他の人間とは違いますからぁ、私を怖がらずに私の話を聞いて貰えると思いましたぁ」
その事は夕べから気づいていたらしい。今まで見てきた人間とは違う、人間でありながら自分に近しいもの。
ただ、その彼らの傍には自分よりも遥かに力の強い存在がいた。その存在からすれば、自分など蝋燭の炎のように一息で消し去る事ができるだろう。
だから彼女は二人だけをここに招いた。自分の願いを聞いて貰いたくて。
「願い? そういえば、さっきもそんな事言っていたな」
和人の呟きに、磯女はぽんと手を叩くとにっこりと微笑んだ。
「そうですぅ。お客様たちには牛鬼を何とかして貰いたいのですぅ」
と、にっこりと微笑んだ磯女はとんでもない事を頼んで来た。
『怪獣咆哮』更新。
やっぱり少し遅くなりましたが、何とか書き上がりました。
今回は第二部に入ってからの伏線の回収の回。取りあえずこれで回収し忘れた伏線ってないよね?
えー、来週も何とか更新できるように頑張ります。よろしくお願いします。