07-磯女
肌と肌で直接感じる茉莉の体温。
耳元で聞こえる彼女の僅かな息使い。
彼女から立ち上る甘い体臭。
そして自分の胸に押しつけられる柔らかな二つの果実の感触。
それらを感じた和人の頭は、何も考えられないほど真っ白になった。
このまま茉莉を自分のものにしてしまえと叫ぶ雄の衝動。
こんなところで事に及んでもいいのかと訴え続ける理性。
最初は均衡を保っていた両者だったが、徐々に天秤は衝動の方へと傾いていく。
この事で和人を攻めるのは間違いというものだろう。
彼は17歳の健康な男性なのだ。衝動が理性を駆逐したとしても仕方がないというもの。
そしてついに天秤が衝動へと傾ききる時。彼の耳が小さな物音を捉えた。
反射的に手にしていた小型のLEDライトを音のした方へと向ける。
暗闇を切り裂く一条の光。そしてそれは光の中に確かにいた。
思わず出そうになった声を必死に飲み込む和人。横目で腕の中の茉莉を見れば、彼女も両手で口を押さえて悲鳴を押し殺していた。
簡潔にそれを表すならば、全身を鱗で覆われたウーパールーパーといったところだろうか。
体長は1メートルほど。のっぺりとした平たい顔と寸胴なオタマジャクシといった外見の胴体。そしてそれを支える短い四肢。頭の横から突き出した一対の角らしきもの。
のっぺり顔のウーパーもどきの口が開く。その中には細かいが鋭そうな牙がびっしりと生えていた。
そしてそのウーパーもどきの後ろには、更に同じようなウーパーもどきが何匹も蠢いている。
和人は慌てて茉莉と一緒に立ち上がる。そして彼女の手を引いて走り出した。現れたウーパーもどきたちは、明かに和人たちに敵意を抱いているのが感じられたからだ。
もう裸でいるとか足元に気をつけるとか関係なく。今はLEDライトの小さな光を頼りに走るしかない。
ウーパーもどきたちは和人がやって来た方から押し寄せて来る。残された道はこの通路を登って行くしかない。
この先に何があるのか。そんな不安を押し殺し、和人は茉莉の手を決して離すことなく必死に走り続けた。
鋭い爪が鱗に覆われた身体を切り裂く。
水中でふるわれた爪は普段ほどの鋭さはなかったが、それでも相手の身体に深い傷を負わせた。
二度三度と痛みに身体を震わせるそれ。だがやがてそれはまるで溶けるかのように消え失せる。
だが、それは一体ではない。今消滅した一体の穴を埋めるように、他の個体が二、三体群がって押し寄せて来て、その細かく鋭い牙が生えそろった口をぱくりと開く。まるで自分を喰らおうかとするように。
──ええい、しつこい奴らよ!
水中では声に出すことはできないので、せめて心の中で悪態を吐く。
慣れない水中で必死に身を捩り、押し寄せるそれをぎりぎりで躱す。
擦れ違いざまに再び爪をふるい、二体のそれを消滅させる。
だが、それでも自分を包囲するそれらの数は一向に減らない。減ったようには見えない。
その事が彼女──ミツキの心に更なる苛立ちを呼び起こす。
攫われた和人と茉莉を追って水中に身を躍らせたミツキ。
しばらくはそのまま水中を何事もなく進んでいたのだが、突然ミツキの鋭い感覚にひっかかるものが出現した。
しかもそれは明かに彼女の対しての敵意を抱いて。
そしてそれらは現れた。彼女の周囲の水中に、まるで湧き出るかのように唐突に。
1メートルほどの体長。細長く寸胴の身体。扁平な頭に短い四肢。
それは間違いなく和人たちの前に現れたものと同一のものであったが、ミツキにはその事を知る術がない。
そして現れたそれらは、一斉にミツキに襲いかかって来た。
慣れない水中とはいえ、それらはミツキの敵ではない。だが、相手の数が多すぎた。気づけばミツキは完全にそれらに包囲されている状態だったのだ。
そんな状態に陥り、ミツキは苛立ちながらも迫るそれらを鋭い爪で切り裂いていく。
それに彼女が苛立つのは目の前のそれらだけが原因ではなかった。
ミツキの主である和人。彼とミツキは心の奥底で繋がっている。その主と繋がっている心の部分が、先程から何やらざわめきたっているのだ。
彼も何かに襲われているのかも知れない。そう思うと、尚更に彼女の心はささくれ立つ。
苛立ち紛れに振るわれた爪が、更に数体のそれを切り裂き消滅させる。
そしてできた空間の穴にミツキは己の身体を強引に割り込ませる。
一秒でも早くこいつらの包囲網をくぐり抜け、主である和人の元へと駆けつけるために。
どれくらい走っただろう。肺が酸素を求めてぜいせいと喘ぐ。
両足が休息を要求してがたがたと震える。
相変わらず上り調子の坂道をLEDライトの僅かな光源を頼りに走る二人。背後からはざわざわという気配が途切れる事なく追いかけてくる。
だが、やがて二人の前方に小さな光明が見えた。
「み、見て、和人! 光がっ!!」
和人の背後、手を引かれながら走っていた茉莉がそちらを指差して叫ぶ。
和人が前方を見れば、確かに光が見えた。萎えかけていた足に力が戻る。
「あそこまで走れっ!!」
「うんっ!!」
どうやらそれは茉莉も同様のようで、二人が走る速度が加速する。
「あ、あれって、ひょっとして外かな?」
「判らん……。だが、もしかするとそうかもな」
茉莉の顔に笑顔が浮かぶ。零れてくる光のお陰で、もうLEDライトがなくても彼女の表情を見分けられるぐらいはできるようになっていた。
そして二人は光へと飛び込む。
久しぶりに感じた光はとても眩しく感じられた。だが、やがて目が慣れて来ると、その光は太陽の光ほど強くない事に和人と茉莉は気づいた。
「……外じゃ……なかったね……」
「どうやらそのようだな……」
彼らが飛び込んだ場所は、四方と天井を岩に囲まれていた。そしてその岩肌の所々が発光し、丁度朝まずめ程度の明るさで周囲を照らし出していたのだ。広さはちょっとした体育館二つ分ぐらいだろうか。
「ねえ……これって光苔って奴かな?」
茉莉は発光している岩肌を興味深そうに眺めている。
「判らないな……判らない以上、無闇に触るなよ? 何か毒性があるかも知れない」
「えっ!? ど、毒っ!?」
毒があると聞いた茉莉は、飛び退くように岩肌から離れる。
「ほ、本当にこれ、毒があるの?」
「だから判らないって。判らない以上、毒がないとは言いきれないだろ?」
茉莉の質問に、和人は絶体に彼女の方を見ないようにしながら答えた。
そんな和人に疑問を感じる茉莉。だが、和人の背中を見ているうちに、どうして彼が自分の方を振り向かないのかその理由を悟った。
(そ、そうだった……ボクたち、裸だったんだっけ……)
どうやら茉莉は、自分たちが全裸でいる事を忘れていたらしい。
予想以上に逞しい背中。きっちりと筋肉のついた両腕。そしてきゅっと引き締まったお尻。
それらが薄明かりの中、はっきりと目に飛び込んで来て、茉莉は改めて自分たちの格好を思い知らされたのだ。
赤面しつつ和人から視線をそらす茉莉。だが、ちらちらと時々どうしても彼の方を見てしまうのはご愛敬。
和人の方もまた、振り返って茉莉の裸身を見てみたいという衝動と必死に戦っていた。
互いに背を向け合いながらも、相手の気配を必死に探る二人。何とも滑稽というか微笑ましいというか。
だが、そんなほんわかした雰囲気もそこまでだった。二人が登ってきた通路から、ざわざわとした気配が漂って来たのだ。
「くっ! もう来たのか!」
和人は周囲を見回してみる。どうやら先程彼らが登って来たもの以外に通路はないようで、ここは完全な行き止まりのようだった。
「とりあえず奥へ! ここにいたら危険だ!」
「う、うん!」
再び茉莉の手を握り駆け出す和人。
しかし、ここには通路もなければ身を隠せそうな物陰もない。あるのはただがらんとした空間のみ。
それでも二人は必死に奥へと走る。幸い先程のウーパーもどきの足は遅く、二人の足でも十分距離を離す事ができた。
しばらくすると先程の通路から溢れるように現れるウーパーもどき。その数は10や20ではきかない程になった。
そしていくら広いといっても有限の空間である以上、和人と茉莉はあっと言う間に壁際へと追い詰められてしまう。
壁際で背後に茉莉を庇いながら、徐々に押し寄せてくるウーパーもどきを見詰める和人。
ウーパーもどきの数は余裕で50を超えているだろう。
どんどんと押し寄せる異形の怪物。逃げ場もない。正しく絶体絶命の危機。
いくら和人が怪獣や幻獣といった超常の存在と接した経験があるとしても、恐怖からパニックに陥っても不思議ではない状況である。
だが、和人の理性は辛うじて保たれていた。背中に感じる暖かい温もりが、彼の理性を繋ぎ止めている最大の理由であった。
しかし、例え理性が残されていようとも、今の状況を打破する術は思いつかない。
武器となるようなものどころか、衣服さえない全裸の状態。こんな状態であのウーパーもどきと戦うのは自殺行為以外の何者でもないだろう。
それでも。例え自殺行為でしかないとしても。
和人は拳を握り締めた。少しでも茉莉を守るため、力尽きるまで抗おうと。
いよいよ、ウーパーもどきの波が足元まで押し寄せる。
和人は覚悟を決めて一歩を踏み出した。
「か……和人?」
和人の覚悟を悟ったのだろうか。背後から茉莉の心配そうな声が響く。
和人は少しだけ振り返ってにこりと笑うと、改めて拳を握り締めてもう一歩踏み出す。
茉莉の体温が背中で感じられなくなる。それが和人が覚悟を決める最後のスイッチ。
最も近くまで這い寄ったウーパーもどきを蹴り飛ばそうと、和人は足に力を込める。
そして蹴り足を振り上げようとした時。和人の攻撃の意思を察知したウーパーもどきの一体が、その短い四肢からは想像もできないような跳躍を見せた。
和人の目線まで高々と舞い上がったウーパーもどきは、くぱっと口を大きく開いて和人を飲み込もうとばかりに飛びかかる。
和人は反射的に一歩後ずさった。その一歩が結果的に和人を救った。
和人の目の前を何かが掠めるように横切ったのだ。
「────え?」
それまで和人のいた空間を掠めるように横切ったそれは、和人にも茉莉にも見えない速度で空中のウーパーもどきを地面で蠢いていたもの共々薙ぎ払う。
それでけで、跳躍したウーパーもどきを易々と両断し、和人たちまで後少しという所まで迫っていたウーパーもどきたちも数体が宙を舞った。
宙を待ったウーパーもどきたちは、そのまま空中に溶け込むように消えていく。
その何かは数度閃き、乾いた炸裂音が響かせる。その度にそれはウーパーもどきたちを一方的に蹂躙する。
打ち払われ、断ち切られ、そして叩きつけられ。ウーパーもどきたちは片っ端から消滅していく。
その光景を呆然と見詰めていた和人と茉莉は、ようやく今目の前で蹂躙の限りを尽くしているものが、細くしなやかな鞭のようなものであると思い至った。
同時に、それがどこから振るわれているのかも。
「上……?」
そう呟いたのは茉莉だったが、和人も同じ事を思っていた。
振り仰いだ二人の視線の先で、何かが天井にへばり付いて蠢いているのが薄暗い中で何とか確認できた。
「……あ、あれ何……?」
「判らない……でもきっとあれは……」
幻獣。
言葉にこそ出さないものの、二人の見解は一致していた。
問題はあの幻獣が自分たちにとって敵対的な存在かどうかだ。
じっと天井で蠢く影を見詰める和人。ふと気づけば周囲に満ちていたざわめきや、ウーパーもどきを薙ぎ払う鞭のようなものが翻る音がしなくてっていた。
改めて周囲を見回せば、あれ程ひしめき合っていたウーパーもどきの姿が一体残らず消え去っている。
「あ……あれだけいたのに、こんな短時間で全部片付けたのか……?」
おののくように和人は呟いた。そして再度天井を見上げ──
「い、いない?」
先程まで天井で蠢いた影。だが今はその影が存在しない。
どこに行ったのかと天井に視線を這わせる和人。その和人の背後から、茉莉の震える声が彼の耳に届いた。
「か、和人……あ、ああああ、あれ……っ!」
背後から伸ばされた茉莉の腕。その指は和人の前方を指していた。
和人は茉莉が指差す方へと視線を移動させる。
そしてそれはそこにいた。
漆黒の髪をざんばらに長く伸ばし、真っ赤な唇をにぃと歪めて。
一見しただけでは女性。それもかなりの美人に分類されるだろう。
その身に衣装らしきものは一切纏わず、その均整の取れた美しい裸体を惜し気もなく晒して。
豊かな胸の双丘が揺れるたび、その先端に息づく赤く可憐な果実も魅惑的に震える。
だが。
だが、問題はその女性の下半身だ。
彼女の腰から下は、細かな鱗に覆われた大蛇のそれ。
「い…磯……女……」
そう。
その姿は確かに、夕べ毅士から聞かされた磯女のものだった。
そしてその女性──磯女は、和人の呟きが聞こえたのかにたぁりと笑った。
『怪獣咆哮』更新しました。
前回の更新から一週間……と二日経ってしまいましたけど。
今後も何とかがんばって、一週間に一度は更新したいと思います。
よろしくお願いします。