03-幽霊
ぱたぱたとスリッパを鳴らし、白峰兄弟と毅士はホテルの廊下を歩く。
彼らが手にしているのはバスタオルやタオル、そして着替えの下着など。身に付けているものもホテルに用意されていた浴衣だ。
そんな彼らが向かう先はもちろん露天風呂。
シルヴィアが明人の話を参考に作らせたという露天風呂は、彼らも楽しみにしているものの一つだった。
「────あれ?」
その途中、不意に和人が足を止めた。
怪訝そうに振り返る兄と親友に、和人は首を傾げながら尋ねる。
「何か今、声みたいなのが聞こえなかった?」
「声? 男のものか? それとも女のものか?」
毅士の問いに和人は女のものだと答えた。
「女の声ねぇ。今日は俺たちしか宿泊客はいない筈だし、そうするとシルヴィアさんたちの誰かか? 露天風呂ではしゃいでるのかね?」
明人は視線を廊下の先にある露天風呂へと向ける。この時間、シルヴィアたちが露天風呂に入っている事は事前に聞かされていた。
「それならいいけど……まあ、空耳かも知れないしな」
などと会話を交わしているうちに、三人は露天風呂の前に辿り着いた。
そして「男」「女」と染め抜かれた暖簾を確認し、「男」の暖簾を潜ろうとした時。
「女」の暖簾がはためき、その奥から肌色の何かが数体飛び出して、物凄い勢いで彼らに向かって飛びかかってきた。
訓練で培われた自衛官の技能が、咄嗟に迎撃体制を明人に取らせた。だが明人は数瞬の後、その自衛官の技能を後悔する。
飛び出してきたモノの一体、全身肌色に一部が金色のそれは、実にやわらかそうな二つの球体をふるんふるんと揺らしながら、咄嗟に腰を落として体制を整えた明人に飛びかかった。
飛びかかってきたものの一部を掴み、投げ飛ばそうとした明人。だが、自分が今掴んでいるモノと、そのモノの持ち主の正体を知った時、彼の身体はぴきりと凍りついた。
明人にとびかかったモノ。それはもちろんシルヴィアであり、今明人が掴んでいるモノは彼女の豊かな胸──即ちおっぱいだった。
思わず男の本能でにぎにぎとその弾力を確かめてしまった明人。
「あん、いやん」
だがシルヴィアの艶のある声で彼の頭は再起動を果たした。
そして慌てて周囲を窺えば、和人にはもちろん茉莉とミツキがしがみ付き、毅士にはなぜかブラウン姉妹が抱きついていた。
皆、裸。全裸。すっぽんぽん。
明人同様、和人も絶賛混乱中のようで、普段は冷静な毅士もさすがにこの状態では冷静ではいられず、ブラウン姉妹を身体にぶらさげた状態でおろおろとあちこちを見回している。
このままでは色々な意味で不味いと判断した明人は、シルヴィア以下全員を一旦そのまま女湯に押し込んだ。
なぜ女湯に押し込んだのかと言えば、きっとそこには彼女たちの着替えがあるだろうと判断したからだ。
「幽霊?」
「そう、幽霊! 本当に出たんだから!」
先程は恐怖のあまり口も利けなかった茉莉が、ようやく言葉を取り戻したものの、いまだにがたがたと震えながら己の両肩を抱いて叫ぶように告げる。
明人たちは無我夢中でしがみ付く女性陣を何とか女湯に押し込み、落ちつかせて服を着させる──もちろん、その間明人たちは外で待機していた──と、彼女たちから先程の奇行の理由を聞き出した。
そしてシルヴィアたちは真っ青な顔で幽霊が出たと告げたのだ。
「幽霊だあ?」
はなはだ疑わしそうに言いながら、和人は視線をミツキに向ける。
「うむ、確かに何かいたな。それが何かまでは確認しておらんが……」
そう告げるミツキは思案顔だ。
どうやら彼女は幽霊の正体を探る事よりも、露天風呂を飛び出したシルヴィアや茉莉を追いかける事を優先したようだ。
そして茉莉が裸で和人にしがみ付いたのを見て、対抗心から思わず自分も裸のまま彼にしがみ付いたのだった。
「取り敢えず、シルヴィアさんはホテルの支配人に連絡を。支配人立ち会いの元、露天風呂の女湯を捜索してみましょう」
そう切り出したのは毅士。さすがにオーナーがいるとはいえ、ホテル関係者に何の断りもなく女湯に出入りするのは気が咎める。そこで支配人に訳を話し、立ち会ってもらった上で女湯の捜索が行われた。
ベリルには誰にも気づかれないようにホテルの周囲の探索を頼んだ。身体が小さく空も飛べる彼は、こういう事に打ってつけだと毅士が判断したからだ。
そして今のところ、幽霊に関するようなものの発見はないようだった。ただ、笑いながら走って行く緑川の姿なら見かけたらしい。
しばらく後、駆けつけた支配人と一緒に、和人たちは懐中電灯片手に女湯を探索した。
普段立ち入る事のない禁断の園にどぎまぎしつつ、明人と毅士は周囲を探索する。
だが和人だけは、いまだに震えが収まらない茉莉に抱きつかれていて探索どころではなかった。
そんな茉莉に対抗してミツキもまた和人から離れないものだから、なおさら身動きの取れない和人は露天風呂の隅っこで大人しくしている事にした。
懐中電灯に光が左右する光景を眺めていると、ふと和人は身体に暖かくて柔らかいものが接触している事に気づいた。
現在、和人の右腕には茉莉が、左腕にはミツキがしがみ付いている。そしてその両腕と脇腹に当たる先程の感触。
左はふよんふよんと弾力良く。右はふわふわとちょっと物足りなく。
一体何だろう、と考えた和人がその正体に気づくまで0.5秒。そしてその0.5秒後には一瞬で真っ赤に茹で上がった。
そう。もちろんその正体は二人の胸。
先程は急いで着替えたため、二人は下着を着けていないらしい。つまりノーブラ。
そのため二人の柔らかな胸が、浴衣越しとはいえほぼダイレクトにむぎゅむぎゅと和人の腕と脇腹を刺激する。
さっきは二人の全裸による視覚攻撃。今度は腕と脇腹を柔らかく襲う触覚攻撃。
何か言わなきゃまずい。何とかして二人に離れてもらわないとまずい。色々な意味できっとまずい。
そう考えつつも、心のどこかではいつまでもこの状態でいたいと思っているのも事実であり。
取り敢えず辺りが暗くて助かった。この暗さならきっと自分が真っ赤になっている事に二人は気づかないだろうから。
そう思いつつ、極力両脇の二人の事は考えないようにして、和人は探索を続ける兄たちをずっと眺めていた。
「何も発見できなかった?」
和人の言葉に、明人はゆっくりと頷いた。
あれから数刻後。場所をホテルのロビーに移動した和人たちは、調査した兄や毅士からその結果を聞かされた。
彼らは念入りに露天風呂を調べたが、誰かが入り込んだような痕跡は何も見つけられなかったのだ。
「なんせここの露天風呂はホテルの屋上だ。外から入り込むのは極めて難しい。かといってどこかに潜むようなスペースもない。ある意味でこの露天風呂は「密室」と言ってもいいだろう」
背の低い目隠しの外は若干のスペースが空いているものの、その向こうはホテルの外壁である。もちろん、出入り口は一つだけ。その出入り口からシルヴィアたちが飛び出して、その後は明人たちがその場から離れた事はない。
毅士はそういう意味で、この場は密室に等しいと言いたいのだろう。
「解放された密室」。そんなどこかのミステリィにでも出てきそうな言葉が和人の頭を過った。
「じゃあ、茉莉やミツキたちが見たのは……?」
明人も和人もそして毅士も、この土地には幽霊に纏わる伝説がある事を思い出した。
海岸にある洞窟に幽霊が出る。そんな噂が昔からこの土地には伝わっているのだという。
「さっき兄ちゃんが言っていた洞窟って、ここから遠いのか?」
弟の問いに首を傾げる兄。なんせこの辺りの土地勘がないのは彼も同様なのだ。
だが、和人の問いにまだ同席していたホテルの支配人が答えてくれた。
「もしかして、幽霊の出る洞窟とは『磯女の洞窟』の事ですか? それならこのホテルのすぐ近くです。ホテルの所有するビーチから東に行った岩場の陰にあります。満潮時には水没してしまいますが、干潮時なら中まで入れますよ」
「磯女?」
支配人の説明に首を傾げる和人。もちろん明人以下誰も心当たりがなさそうだった。
「磯女とは海辺に出没するという妖怪の一種だ。主に九州地方の民間伝承で登場する。濡れ女、海姫などとも呼ばれ、見た目は上半身は美女だが下半身は蛇のようになっているとか、幽霊のようにぼやけているとか様々。共通する点としては髪が長いという点がある。その髪を使って血を吸うとも言われているな」
唯一の例外はやはり毅士だった。
そのどこから仕入れてかるのかといつも和人が疑問に思う知識量は、この場においても遺憾なく発揮された。
「海外でも下半身が蛇の美女という怪物は結構ポピュラーだな。ラミアとかナーガとか聞いた事くらいあるだろう?」
おお、あるある、と相槌を打つ和人や茉莉。何故かシルヴィアやブラウン姉妹まで首を縦に振っていたりしたが。
「茉莉たちが見た幽霊ってのはどんな姿だったんだ?」
「く、暗くてよく判らなかったんだけど……き、気づいたらボクたち以外の人が温泉にいたんだよ」
その時の様子を思い出して再び震え出す茉莉。
彼女たちの話を統合すると、どうやらシルヴィアたち以外の女性がいつの間にか会話に参加しており、その事に気づいた全員がゆっくりとそちらを振り向けば、確かに彼女たち以外の人物がそこにいたという。
そしてその人物の髪は長かった、と全員が供述した。
この中で一番髪が長いのはミツキだ。彼女の髪は尻まである真っ直ぐな銀髪だが、そのミツキよりも長かったらしい。そして光の加減からその色はおそらく黒だろうとシルヴィアが証言した。
「ほ……本当に磯女が紛れ込んでいたんじゃ……」
ごくり、と唾を飲み込んだ和人が言う。
そしてその一言に茉莉は、ひっと短く悲鳴を上げて和人に再びしがみ付く。当然、ミツキも対抗して和人に態とらしくくっついていく。
二人にしがみ付かれて狼狽える親友に溜め息を零しつつ、毅士は腕を組んで考え込む。
「明人さん。一度のその『磯女の洞窟』を調べてみませんか?」
「おいおい毅士。おまえまで本当に幽霊がいると思っているんじゃないだろうな?」
「幽霊がいるかどうかはともかく、ちょっと気になることがあります」
「気になる事?」
「はい。まず、その洞窟が『磯女の洞窟』と呼ばれている事。いつの時代からそう呼ばれているのかは不明ですが、そもそも磯女が民間伝承に登場するのは主に九州地方です。ここはその九州地方からは極めて遠い」
このホテルが存在するのは本州のほぼ真ん中である。九州からはかなりの距離がある。
そしてその洞窟が『磯女の洞窟』と呼ばれているのは、近年になってから磯女らしき姿が目撃されたからではないかと毅士は言う。
「だが、磯女という妖怪はそれほど有名な存在ではない。現に明人さんも和人も知らなかったぐらいだ。これが子泣き爺や砂かけ婆といった存在ならほぼ誰でも知っているだろう。だから少なくとも磯女という妖怪の存在が、限定的とはいえ知られるようになってから……少なくとも戦後以降から『磯女の洞窟』と呼ばれるようになったのではないか、と思うんです」
毅士の推論に耳を傾ける一同。そしてそれはそんな時だった。
(────聞こえるか、茉莉。私だ。ベリルだ)
「あ、ベリル?」
茉莉は一瞬そのままベリルから伝わる話を皆に伝えようとしたが、その場にホテルの支配人がいる事を思い出し、慌てて和人だけを連れてロビーの片隅に行く。
「ベリルからの連絡か?」
茉莉の様子からそれらしいと悟った和人。だが茉莉は和人の問いには答えず小さく驚きの声を上げた。
「どうした、茉莉?」
「い、今、ベリルから連絡があったんだけど……」
不審げな和人の問いに、茉莉は青ざめた顔で答える。
「す、砂浜で緑川さんが倒れているって────」
『怪獣咆哮』更新。
夏っぽく怪談ふうな展開にしてみました。もっとも、本格的なホラー展開にはなりませんが。
最近はテレビでもあまり怪談やらなくなったなぁ。昔は夏といえば怪談番組を必ず放送したのに。どうしてだろう?
ちなみに、ホテルの存在する場所は中部地方の太平洋側、だいたい静岡県辺りを想定しています。
ともかく、今後もよろしくお願いします。




