「朝露を集めるだけの無能な精霊師は不要だ」と婚約破棄されましたが、この国の水源は三百十二年分わたくしの露で繋がっておりますので、どうぞそのままお続けくださいませ 〜元社畜の露集め令嬢、辞表一枚で王都を
「セラフィーナ・ウィンドロウ。朝露を集めるだけの無能な精霊師など、王妃には不要だ」
王立精霊祭の壇上で、王太子ジュリアン・レスフィード殿下は高らかにそう宣言なさいました。
「貴様との婚約を、破棄する」
広間がどよめきます。
数百の視線が、わたくし一人に突き刺さりました。
わたくしは、手袋を外しました。
厚手の、泥のついた作業手袋です。夜明け前に第三水脈の南堰を点検して、そのまま馬車に乗ったものですから。
殿下の隣に立つのは、燃えるような赤毛の少女。
カンタン男爵令嬢ミレイユ様。炎の大精霊と契約なさったと喧伝される、新しい聖女様。
彼女は小首をかしげて、本当に不思議そうに言いました。
「だって朝露なんて、放っておいても降りるものでしょう?」
貴族たちが笑いました。
扇の陰で、遠慮のない笑い声が広間を撫でていきます。
(――ああ)
わたくしは思いました。
(引き継ぎ資料を作らなくていい職場って、こんなに気楽なんですね)
前世の記憶が、ふっと浮かびます。
三村凪沙、三十五歳。水道局水質管理課勤続十四年。退職代行という単語を三回検索して、三回とも閉じた女。
結局わたくしは辞表を出せないまま、残業中に机で倒れて死にました。
今度は、向こうから切ってくださるのですね。
しかも公衆の面前で、書面もなしに。手続き的には後で揉めますけれど、まあ、いいでしょう。
わたくしは膝を折り、静かに頭を下げました。
「かしこまりました」
殿下が満足げに顎を上げます。
泣くか、縋るか、喚くか。そのどれかを期待していらしたのでしょう。
わたくしは顔を上げ、一度だけ微笑みました。
「では明日より、露は降りたままに致します」
「……何を言っている?」
「ご理解いただけなくて結構ですわ。十年間、どなたも点検表をお読みになりませんでしたもの」
殿下は、意味が分からないという顔をなさいました。
ミレイユ様も。
広間の誰一人として、その言葉の意味を理解しませんでした。
当然です。
退出するわたくしに、侍女のノエラが手袋を差し出しました。
眼鏡を人差し指で押し上げ、彼女は周囲に聞こえる声で、はっきりと告げます。
「お嬢様。本日分の点検、完了しております。――三百十二日目でございます」
三百十二。
その数字だけが、笑い声の残る広間に、ぽつりと落ちました。
誰も拾いませんでした。
拾わなくて結構ですわ。
記録は、こちらに全部ございますので。
※
屋敷に戻って、最初にしたのは荷造りです。
泣くより先に手が動く。前世で身についた癖ですわ。怒っても水質は改善しませんし、嘆いても濁度計の数字は下がりません。
「ノエラ。書庫の奥、上から三段目」
「はい。『朝露点検日誌』、第一号から第三百十二号まで。既に箱詰めを開始しております」
早い。
「……あなた、わたくしが辞めるとご存じでしたの?」
「いいえ。ですが、お嬢様が三年前に『倒れた場合の想定日数』を計算なさった時点で、いつかこうなると」
眼鏡がきらりと光ります。
「日誌の複写は三部、別々の場所に保管済みでございます。万一、原本が『紛失』した場合に備えまして」
わたくしは少しだけ笑ってしまいました。
この子、前世にいたら文書管理の主任になれましたわね。
箱は全部で十四。
十年と少し、毎朝一冊ずつ積み上げてきた紙の塔です。
日付。水脈名。露の結び具合。呼んだ微精霊の数。気温。土の湿り。提出先。そして決裁印の有無。
この国の人間は、精霊との契約は一度結べば永続だと信じています。
炎や雷の上位精霊を従える者ほど高位。華々しい儀式。鑑定石の光る数値。
ですが真実は逆でした。
大精霊の契約は、百年で摩耗します。
それを繋ぎ止めているのは、毎朝結び直される無数の微精霊の露の網。
わたくしのギフト、《朝露契約》。
日の出前後の一刻、地表に結んだ露に触れ、名を呼ぶ。
水の下級精霊と、一日きりの契約を結び直せる。
戦闘力ゼロ。翌朝には切れる。
つまり、毎朝やらねば無意味な作業です。
設備点検と同じですわ。止めた途端に壊れるのではなく、止めた分だけ、静かに壊れていく。
扉が叩かれました。
父、ハーヴェイ・ウィンドロウ侯爵。
壇上で、ずっと俯いていらした方。
父は箱の一つから日誌を抜き取り、ぱらぱらとめくりました。
その手が、途中で止まります。
「……セラフィーナ」
「はい、お父様」
「お前、あれは本当に『ただの露集め』だったのか」
わたくしは、荷を縛る手を止めませんでした。
「いいえ、お父様」
麻紐を結び、きゅっと締めます。
「十年間、誰も点検表を読まなかっただけですわ」
父の顔から色が抜けていきました。
「……待て。この『私が倒れた場合、王都は十四日で濁ります』というのは」
「三日前に提出いたしました。未読、未決裁ですわ」
わたくしは文机から書類を取り上げ、父に見せました。
《精霊師任を辞する届》
《王室水源管理権の返上状》
「――明日、二通お届けいたします」
「復讐のつもりか」
「まさか」
わたくしは、首を振りました。
「ただの手続きですわ。前世で出せなかった辞表を、今世で出すだけのこと」
父は何も言いませんでした。
「……お前は、どこへ」
「涸れ谷へ」
父が息を呑みました。三十年前に水が絶えた、王国北端の廃村です。
「なぜ、そんな死んだ土地へ」
「死んだ土地など、ございませんわ」
わたくしは箱の蓋を閉じました。
「名前を忘れられている土地があるだけです」
翌朝。
夜明け前に目が覚めました。十年の習慣は、辞表一枚では消えません。
わたくしは窓を開け、庭に降りた露を見ました。
手を伸ばしかけて――やめました。
「おはようございます」
誰にともなく言って、窓を閉めます。
今日から、名前は呼びません。
王都の露は、降りたままです。
※
涸れ谷の陣屋で、わたくしは影に呑まれました。
七尺。約二メートル十センチ。
銀髪。首筋から手の甲へ鈍色の鱗が走る半竜人。
辺境守護〈竜人将軍〉アルヴィス・ロウ。戦場では『沈黙の竜』と呼ばれる男。
無表情でした。本当に、一ミリも動かない顔でした。
「……侯爵令嬢が、何の用だ」
「元、でございます」
わたくしは十四の箱を積み上げました。
「この谷に、水を戻しに参りました」
将軍は日誌を一冊取り、開きました。
そのまま、黙読を始めました。
一時間。
二時間。
三時間。
一言も発さず、ページをめくり続けました。
窓の外で日が傾いて、灯りを持ってきた従卒が空気を読んで引き返していきました。
わたくしは立ったまま待ちました。
読まれている。
十年間、誰も読まなかったものが、読まれている。
――おかしいですわね。
喉の奥が、変に熱くなるなんて。
三百十二冊目を閉じて、彼はようやく顔を上げました。
「……三時間、読んだ。君は、何ができる?」
家柄でも、精霊の格でも、婚約の有無でもなく。
わたくしは、正直に答えました。
「毎朝、露に名を呼ぶことだけです」
「戦えるか」
「まったく」
「治せるか」
「いいえ」
「どれくらい続けた」
「十年、一日も欠かさず」
将軍は立ち上がりました。天井が低く見えます。
「――ならやってみろ。この谷で」
それだけでした。
翌朝。
谷底は石と砂ばかりで、三十年前の水路の跡が、骨のように白く残っていました。
わたくしは膝をつき、岩の窪みに指を這わせました。
――ありました。
ほんの、針の先ほどの湿り。
「まだ、いらっしゃいますのね」
わたくしはその湿りに触れ、名を呼びました。
微精霊には、それぞれ名があります。誰も呼ばないから、忘れられていくだけで。
三日目の朝、岩陰から声がしました。
「ねえさま、なにしてんの」
日焼けした裸足の少年。十一歳くらい。
「ここ、水ないよ。三十年ないって、ばあちゃんが言ってた」
わたくしは振り向かずに答えました。
「ええ。ですから、名前を忘れられているのです。呼べば、思い出しますわ」
少年は、しばらく黙っていました。
それから、隣にしゃがみました。
「……おれ、トト」
「セラフィーナと申します。手伝ってくださるの?」
「手伝わない。見てるだけ」
四日目、トトは籠を持ってきました。
五日目、わたくしの日誌を覗き込んで、木片に線を引き始めました。
六日目、彼は自分で書きました。
『きょう、つゆ、すこし』
「上手ですわ」
「バカにしてる?」
「いいえ。日付を入れると、もっと上手になりますわ」
七日目の朝。
谷底の岩の裂け目から、糸のような水が、するりと落ちました。
「――つめてえ! ねえさま、水だ! 出てる、出てるって!」
トトが水面に手を突っ込んで叫びました。
泉は細く、しかし確かに、湧き続けていました。
背後で、鎧の鳴る音がしました。
アルヴィス・ロウ将軍が、膝をついていました。
両手で水を掬い、口に運びます。
「…………」
無表情のまま、ぼたぼたと涙が落ちていました。
滂沱です。表情筋は一ミリも動いていないのに、顎から雫が垂れています。
「……うまい水だ」
わたくしは、静かにハンカチを差し出しました。
「拭くものを。……あの、将軍。お顔が、その、滝のようですけれど」
彼はそれを受け取り、顔に当て――小さすぎて明らかに用をなさず――律儀に四つに畳んで返しました。
「すまない。濡らした」
「乾きますわ。朝ですもの」
将軍は、掌に残った最後の一滴を、じっと見つめていました。
「……朝露は、いい。肌に、いい」
「……はい?」
『沈黙の竜』は、極度の乾燥肌だそうです。
十年悩んでいらしたとか。執務室の抽斗には蜂蜜漬けの干し果が常備されているとか。
わたくしは、この谷が少し好きになりました。
※
〈王都・十四日目〉
最初の報告は、東区の井戸からだった。
「濁っております」
「井戸が濁った? 濾せばよかろう」
ジュリアンは書類から顔も上げずに言った。二日後、濁りは十一の井戸に広がった。五日後、王都の全区画で水が茶色く濁った。
聖女ミレイユは胸を張った。
「ご安心を、殿下! 炎の大精霊で蒸留してみせますわ!」
貯水槽に炎柱が立った。
蒸気が上がり、群衆が歓声を上げ――三刻後、貯水槽は空になっていた。
「……貯水槽が空だと? 蒸留水はどこへ行った」
「……あの、蒸気は、どこへ行くのでしょう……?」
誰も、蒸気を集める装置を用意していなかった。
王都の残存水量は、三分の一に落ちた。
〈二十一日目〉
王立庭園の《結界樹》が枯れた。
七百年立ち続けた巨木が、葉を落とし、幹から乾いた音を立てて裂けた。
国防結界が三箇所で破れ、街道に魔物が溢れた。
「なぜだ! 結界樹は大精霊が守っていたはずだ!」
答えたのは、ウィンドロウ侯爵だった。手には埃だらけの綴りがある。
「……結界樹は、根から露を吸って生きておりました。殿下。第二百四十通に、そう書かれております」
〈三十日目〉
王都中央の大精霊契約が、摩耗切れを起こした。
契約紋が光を失い、砕けた。
水の大精霊は、初めから百年ごとに摩耗する存在だった。それを繋ぎ止めていたのは、毎朝結び直される無数の露の網。
『永続契約』など、存在しなかった。
王宮の書庫では、ハーヴェイ・ウィンドロウ侯爵が一人、綴りを掘り返していた。
『雑務綴』と書かれた棚。三百十二通。
彼はその一枚一枚の、決裁印を照合していた。
第百七通。三年前の秋。
『王都第二水脈、露の結びが弱まっています。要人員増』
――王太子の印。
第二百四十通。二年前。
『結界樹は露を吸います。伐採計画に反対いたします』
――却下署名、カンタン男爵。
第三百十二通。婚約破棄の三日前。
『私が倒れた場合、王都は十四日で濁ります』
――未読。未決裁。
侯爵は椅子に座り込み、長いあいだ動かなかった。
それから、震える手で申請書を書き始めた。
《雑務綴 第一号から第三百十二号を、王立記録院所蔵の公文書として登録することを申請する》
娘を追う資格は、もうない。
ならばせめて、娘と同じ手段で。
書類で。
※
涸れ谷の朝は、湯気で始まります。
泉の周りに水路を引き直して二十日。畑の土が黒くなり、トトの祖母が三十年ぶりに菜を植えました。村に戻ってきた家族が四世帯。
わたくしは日誌の第三百四十二冊目を開き、今朝の数値を書き込んでいました。
そこへ、土煙。
馬が三頭、谷を駆け下りてきます。
「セラフィーナ!」
ジュリアン殿下でした。
髪は乱れ、外套は泥にまみれ、喉が枯れています。その後ろに、赤毛の少女。顔色が紙のようです。
「戻れ、セラフィーナ! あれはお前にしかできぬ!」
わたくしは筆を置きました。
そして、彼らが最も聞きたくないであろう言葉を、丁寧に差し上げました。
「あら。放っておいても降りるものでしょう?」
ミレイユ様が、ひゅっと息を呑みました。
自分の台詞です。
三十日前に、自分の口から出たものです。
「……あ、あれは……」
「ええ、降りておりますわ。今朝もきちんと。王都にも、この谷にも、公平に」
わたくしは空を指しました。
「ただ、誰も名を呼びませんと、露はただの水滴のまま、日が昇れば蒸発して終わりです。結ばれないのですよ、どことも」
「……知らなかった」
「はい。存じております」
わたくしは箱から三冊を抜き出しました。あらかじめ、紐で栞を挟んでおいた三冊です。
「第百七通。三年前の秋」
開いて、差し出します。
「『王都第二水脈、露の結びが弱まっています。要人員増』――殿下の決裁印がございますわ。読まずに押されましたのね」
殿下の目が、朱の印を捉えました。
「……余の、印だ」
「二百四十通。二年前」
二冊目。
「『結界樹は露を吸います。伐採計画に反対いたします』――却下の署名。ミレイユ様の父君ですわね」
ミレイユ様が、よろめきました。
「お父様……? そんな、私、そんなつもりじゃ」
「聖女様の凱旋行進のため、庭園の根回りを整備なさったと記録にございます。結界樹の根は、地表二寸の露を吸うのです。踏み固めれば、吸えません」
「……知らなかった、私……」
「存じております。だからこそ、報告書を書いたのですわ」
わたくしは三冊目を開きました。
「そして三百十二通。婚約破棄の、三日前」
一行だけ、読み上げます。
「『私が倒れた場合、王都は十四日で濁ります』」
顔を上げました。
「――ご覧の通り、ぴたりでしたでしょう?」
静寂。
谷を風が通り、泉の水面が細かく震えました。
ジュリアン殿下の膝が、砂利に落ちました。
「……余は」
喉が動きます。言い訳を探して、見つからない音でした。
「余は、兄を持たぬ王太子だ。……地味な婚約者では、舐められると、ずっと……」
一行でした。
それが、十年の答えでした。
わたくしは、少しだけ目を伏せました。
怒りはありません。前世で学びましたので。怒っても水質は改善しない。
ただ、寂しくはありました。
「殿下。一度でも、わたくしがどこへ行っていたか、お尋ねくだされば」
「…………」
「印を押す前に、一枚めくってくだされば」
わたくしは懐から、控えを取り出しました。
《王室水源管理権の返上状》の写し。受理印つき。
「わたくし、辞めた者ですので」
差し出します。
「どうぞそのままお続けくださいませ」
そのとき、影が落ちました。
七尺の巨躯が、わたくしの半歩前に立ちます。
アルヴィス・ロウが、殿下を見下ろして、たった一言。
「彼女は、辞めた者だ」
殿下は、何も言えませんでした。
背後で、ノエラが眼鏡を押し上げる音がしました。
「なお、王宮が『そのような報告書は存在しない』と仰せの場合に備え、複写を三部、別所に保管しております。原本はすでに王立記録院へ登録申請済み。申請者はハーヴェイ・ウィンドロウ侯爵でございます」
わたくしは、わずかに息を吸いました。
お父様。
「――記録がございます」
ノエラが、笑顔で刃を抜きました。
※
わたくしは、無償では戻りませんでした。
王都へ行くこともありませんでした。交渉は、涸れ谷の陣屋の卓で行われました。王国側が、こちらへ来たのです。
卓の上に置いたのは、三条の要求書です。
「一。《露点検士》の正式官職化。俸給、定員、昇進規程を明文化すること」
「二。朝露点検日誌、第一号から現行分まで、王立記録院での恒久保管。閲覧は自由とすること」
「三。涸れ谷一帯の叙爵、および《北方水源管理公社》の設立認可。公社は王国と契約を結ぶ、対等な当事者とすること」
宰相が唸りました。
「……公社との契約、とは。王国が、一貴族と対等に?」
「契約でなければ、また『雑務』になりますわ」
わたくしは微笑みました。
「無料の善意は、記録されませんの。十年で学びましたので」
室の隅で、ハーヴェイ・ウィンドロウ侯爵が硬い声で述べました。
「……証拠は全て記録院にございます」
三日後、認可が下りました。
契約書の末尾に、わたくしは自分の名を書きました。
セラフィーナ・ウィンドロウ。北方水源管理公社・総代。
隣に、大きな字でアルヴィス・ロウ。
王妃の欄ではありません。
署名する側の欄です。
王太子は、震える手でその契約書に署名しました。
最後まで、顔を上げられませんでした。
※
カンタン男爵家の炎の大精霊は、中級精霊の水増し申告と判明しました。
鑑定官が買収されていたのです。ミレイユ様ご自身は、疑いもせず信じておられたそうですが。
爵位は査定取り消し、保留処分。
彼女は減刑嘆願も亡命も選びませんでした。
「涸れ谷で、一年、見習い露拾いをさせてください」
初日、寝坊しました。
二日目も寝坊しました。
三日目の夜明け前、ようやく籠を持って谷底に立ちました。
赤毛は雑に結わえられ、手は擦り傷だらけです。
わたくしが名を呼ぶのを、彼女は黙って見ていました。
岩の窪みに結んだ露が、朝日を受けて、掌の上で小さく光りました。
「……これ、毎朝、十年」
誰にともなく、彼女は呟きました。
語尾に、感嘆符はありませんでした。
わたくしは何も言わず、隣の窪みを指しました。
「そちらもお願いいたしますわ。名は、リル。二音で、短く」
「……リル」
露が、応えました。
※
三年後。王都の朝。
夜明け前の広場に、籠を持った少年少女が三十人並んでいる。
揃いの灰青の外套。腰に木札の記録板。
「配置を確認。第一水脈班、東へ。第二水脈班、結界樹の根回りを重点」
号令をかけているのは、十四歳の少年だ。
日焼けした肌、黒髪、王立の官服。腰には、どう見ても役職に不釣り合いな、古びた木片が一枚ぶら下がっている。
削り跡の文字は、かろうじて読める。
『きょう、つゆ、すこし』
視察に来た外国使節が、興味深そうに尋ねた。
「露点検長官殿。失礼ながら、その……露を集める、というのは、その程度のことで国が保つものなのですか」
少年は振り返った。
「『朝露を集めるだけ』」
淡々と繰り返す。
「――そう言った方がいらしたそうです」
東の空が白み始める。三十の籠が散っていく。
「今は国の全水脈が、この作業で保っております。露点検士は現在、王国全土で四百七十二名。日誌は王立記録院に、全て残っております。閲覧は自由です」
少し間を置いて、彼は付け加えた。
「ええ。たった一人で、十年やっていた方がいたのですよ」
使節が言葉を失う。
少年は木札を撫でて、東を見た。
「第一号は、その方の字です。俺の第一号は、北の谷で書きました」
※
同じ朝。涸れ谷。
泉は太くなり、水路は村を三周して、畑を潤しています。
わたくしは日誌を閉じました。本日分、完了。
隣に、大きな影。
アルヴィス・ロウ辺境伯は、しゃがんで掌を差し出しました。乾燥肌はだいぶ改善されたそうです。朝露で洗顔を続けた成果だとか。三年で顔色まで良くなりました。
その掌の上に、露がひとつ、ぽたりと落ちます。
「……冷たいな」
彼は、じっとそれを見つめました。
いつもの癖です。
「ええ」
わたくしは答えました。
「でも、正直ですわ」
露は嘘をつきません。
呼べば応え、呼ばなければ消える。それだけの、まっすぐなものです。
わたくしは、その掌に自分の手を重ねました。
「――アルヴィス」
名を、呼びました。
鱗の走る指が、ゆっくりと閉じます。壊さないように、露ごと、わたくしの手を包み込んで。
「今朝の契約は、一日きりですわよ」
「知っている」
「明日には切れますの」
「……ああ」
彼は無表情のまま、少しだけ目を細めました。
三年かけて、わたくしにだけ読めるようになった表情です。
「だから、明日も呼べ」
永続する契約など、この世にはひとつもありません。
大精霊のものでさえ、百年で摩耗する。
だから、結び直すのです。
毎朝。日の出前の一刻。地表の露に触れて、名を呼んで。
東の稜線が金色に裂けました。
今朝の契約は、一日きり。
――明日もまた、結び直すために。




