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短編(異世界など)

婚約破棄されたので泣こうとしたら、隣にいた聖女のほうが号泣していました

作者: みき
掲載日:2026/08/14

 婚約を破棄されたら、泣くものだと思っていた。


 少なくとも、アメリア・ローデンはそう考えていた。


 王立学院の卒業夜会。きらびやかな大広間の真ん中で、婚約者である王太子セドリックが別の女性を連れて自分の前に立ったときも、アメリアは妙に冷静だった。


 セドリックの隣にいるのは、この国でただ一人の聖女、リナ・フェルナー。


 栗色の髪を胸の前まで伸ばした、小柄な少女だった。


「アメリア・ローデン。君との婚約を、本日をもって破棄する」


 楽団の演奏が止まった。


 少し遅れて、広間の話し声も消える。


 何十人もの視線が、一斉にアメリアへ向いた。


 ――ああ。本当に来たのね。


 ここ一か月ほど、セドリックがリナと行動を共にしていることは知っていた。


 彼は何度も言っていた。


『聖女はこの国にとって大切な存在だ。僕が守らなくてはならない』


『リナは君を怖がっている。しばらく彼女には近づかないでくれ』


『君は公爵令嬢なんだから、もう少し大人になってくれ』


 だから、いつかこうなるのではないかと覚悟はしていた。


 それでも胸の奥は、ちゃんと痛かった。


 十歳のころから八年間、隣にいた人だ。


 好きだったかと聞かれれば、好きだった。


 少なくとも昨日までは。


「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 アメリアが尋ねると、セドリックは待っていたとばかりに胸を張った。


「僕は真実の愛を知ったからだ」


 広間のどこかで、誰かが小さくむせた。


 けれどセドリックは気づかない。


「僕はリナを愛している。そしてリナも僕を愛している。身分や家の都合だけで結ばれた君との婚約を続けることは、僕にも、君にも、そしてリナにも不幸なことだ」


「……なるほど」


「それだけではない。君はリナに冷たく当たっていたそうだな」


「私が、聖女様に?」


「ああ。彼女が君を見るたびに怯えていたことを、僕は知っている」


 アメリアは、そこで初めてリナを見た。


 目が合った。


 リナの大きな茶色の瞳は、たしかに震えていた。


 顔も真っ青だった。


 ――私を、そんなに怖がっていたのね。


 知らなかった。


 聖女になったばかりの彼女が王宮で困らないよう、必要な礼儀や行事についてまとめた手紙を何度か送ったことがある。


 けれど返事は一度もなかった。


 迷惑だったのだろうか。


 そう思うと、胸の痛みが少し増した。


 婚約者には捨てられ、知らないうちに聖女には嫌われていたらしい。


 大勢の前で泣くのは好きではない。


 けれど、今日くらいは泣いても許される気がした。


 アメリアは小さく息を吸った。


 その瞬間だった。


「うっ……ううっ……」


 すぐ横から、妙な声が聞こえた。


 アメリアは瞬きをする。


「うえええええええん!」


 泣いた。


 聖女が。


 それはもう、見事なほどに泣いた。


 大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、リナが両手で顔を覆う。


「リ、リナ?」


 セドリックまで慌てている。


「どうしたんだ? もう大丈夫だ。君を苦しめていたアメリアとの婚約は――」


「違いますううううう!」


 リナの声が大広間に響いた。


 今度こそ、完全な静寂が訪れた。


「え?」


「違うんです! 違うんです、アメリア様! ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」


「……私に?」


「そうです!」


 なぜかリナはセドリックの手を振りほどき、アメリアの前へ走ってきた。


 そして、その場に膝をつきそうになる。


「聖女様!」


 アメリアは慌てて彼女の腕を取った。


「おやめください。皆が見ています」


「だって、だって私のせいで婚約破棄なんて……!」


「リナ、何を言っているんだ?」


 セドリックが心底わからないという顔をする。


 リナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


「私、殿下のこと好きじゃありません!」


「……え?」


 誰の声だったのかわからない。


 アメリアかもしれないし、セドリックかもしれない。


 もしかすると、広間にいた全員だったのかもしれない。


 リナは鼻をすすりながら続けた。


「一度も好きって言ってません!」


「だ、だが君はいつも僕を頼ってくれたじゃないか」


「殿下が『困ったことがあったら僕に言ってくれ』って言ったからです!」


「僕に笑いかけてくれた」


「話しかけられたら笑うくらいします!」


「ハンカチもくれた!」


「くしゃみしたからです!」


「二人で庭園を歩いたじゃないか!」


「神殿への道がわからなかったから案内してもらっただけです!」


「では、あの日の『殿下がいてくださって助かりました』は……」


「道案内のお礼です!」


 セドリックの顔から、少しずつ色が消えていく。


 広間の空気が変わった。


 さっきまで悲劇の婚約破棄を見守っていた人々が、今は別のものを見る目になっている。


 アメリアは、なんだかセドリックがかわいそうになってきた。


 ほんの少しだけ。


「ですが、聖女様」


 アメリアはできるだけ静かな声で尋ねた。


「殿下は、あなたが私を怖がっているとおっしゃっていました」


「怖がっていました!」


 即答だった。


 やはり嫌われていたらしい。


 アメリアが少しだけ目を伏せると、リナはさらに大きく首を振った。


「ち、違います! 嫌いだからじゃありません!」


「では、なぜ?」


「だってアメリア様、すごくきれいで、いつも姿勢がぴんとしていて、何を聞いてもすぐ答えて、王妃様とも普通にお話しして……!」


「はい」


「私みたいな田舎の村から出てきた人間には、まぶしすぎるんです!」


「……はい?」


「しかも、最初にいただいたお手紙!」


「手紙?」


「王宮で困らないようにって、食事の席順とか、誰にどう挨拶すればいいかとか、神殿へ行く日の服まで書いてくださって……私、うれしくて!」


 リナは胸元を探り、小さく折りたたまれた紙を取り出した。


 見覚えがあった。


 アメリアが二か月前に送った手紙だった。


 何度も開いたのか、折り目が少し白くなっている。


「持ち歩いていらしたのですか?」


「お守りです!」


「お守り」


「はい!」


 アメリアは言葉を失った。


「それで、お返事を書こうと思ったんです。でも何を書いても失礼な気がして、三日悩んで……ようやく書いたのに、殿下が『僕から渡しておく』って」


 アメリアはゆっくりセドリックを見る。


「そのようなお手紙は、いただいておりません」


 リナも見る。


「えっ」


 二人の視線を受けたセドリックが、明らかに目をそらした。


「……忙しかったんだ」


「殿下?」


「あとで渡そうと思っていた」


「二か月も?」


「王太子にはいろいろあるんだ!」


 苦しすぎる言い訳だった。


 リナの顔から涙が引いていく。


 代わりに、別の感情が浮かんだ。


「では、アメリア様からお茶に誘われたという話は?」


「私は三度、お誘いしました」


「私、全部『アメリアは王妃教育で忙しい。気を使わせるから断っておいた』って聞きました」


「……一度も、そのようなお願いはしておりません」


 二人は、再びセドリックを見る。


「殿下?」


「いや、それは……」


「私が聖女様を嫌っていると、なぜおっしゃったのですか?」


「それは君が、リナの話をするといつも難しい顔をするからだ!」


 アメリアは考えた。


「聖女様の警護が二人では少なすぎる、と申し上げた時でしょうか」


「……」


「神殿から王宮まで歩かせるのは危険だ、と申し上げた時?」


「……」


「聖女様の部屋が北棟では寒すぎるので、南棟へ移すべきだと申し上げた時ですか?」


「……もういい!」


 セドリックが叫んだ。


 よくはないだろう、と広間中が思ったに違いない。


 アメリアもそう思った。


「と、とにかくだ!」


 セドリックは無理やり話を戻した。


「僕はアメリアとの婚約を破棄する! そしてリナと結婚する!」


「しません!」


「なぜだ!」


「だから好きじゃないって言ってるじゃないですか!」


「今は混乱しているだけだ!」


「混乱してるのは殿下です!」


 聖女は強かった。


 少なくとも、今のセドリックよりはずっと強い。


 そしてアメリアは、もう泣く気を完全になくしていた。


 代わりに、別の疑問が浮かぶ。


「聖女様には、どなたか想う方がいらっしゃるのですか?」


「えっ」


 リナがぴたりと固まった。


 耳まで赤くなる。


 わかりやすかった。


「いらっしゃるのですね」


「そ、それは……その……」


 リナの視線が広間の端へ向く。


 そこには神殿から派遣された護衛騎士たちが並んでいた。


 そのうち一人、若い騎士がぎょっとした顔をしている。


「あら」


「アメリア様!」


「なるほど」


「声に出さないでください!」


 アメリアは少しだけ笑った。


 今日初めて、自然に笑えた気がした。


「リナ!」


 セドリックの悲鳴に近い声が飛ぶ。


「まさか、あんな下級騎士を――」


「セドリック」


 その声は、大広間の入口から聞こえた。


 低く、よく通る声だった。


 人々が一斉に道を開ける。


 国王だった。


 その隣には王妃もいる。


 セドリックの顔が引きつった。


「父上……」


「ずいぶん楽しそうなことをしているな」


「これは、その……」


「王太子の婚約は、卒業夜会の余興ではない」


 国王の声は静かだった。


 静かなぶん、怖かった。


「しかも聖女本人の意思も確かめず、勝手に次の婚約まで宣言したそうだな」


「ですが、僕は真実の愛を――」


「まず相手に好かれてから言え」


 短い一言だった。


 広間のあちこちで、何人かが顔を伏せた。


 笑うのをこらえているらしい。


 王妃はアメリアの前まで来ると、申し訳なさそうに頭を下げた。


「アメリア。あなたには、こちらから改めて謝罪します」


「王妃様、お顔を上げてください」


「婚約については、あなたが望むなら白紙に戻します。こんな騒ぎのあとで、セドリックと結婚しろとは言えません」


 アメリアは少しだけ考えた。


 八年間。


 長い時間だった。


 今日まで積み上げた勉強も努力も、全部が無駄になったような気がしていた。


 けれど、そうではないのかもしれない。


 学んだことは自分の中に残る。


 セドリックの隣に立たなくても、アメリア・ローデンとして生きることはできる。


「では、白紙に戻してくださいませ」


 はっきり言うと、胸の奥が驚くほど軽くなった。


「アメリア!」


 セドリックが声を上げる。


「君まで何を言うんだ。少し待てば――」


「殿下」


 アメリアは元婚約者を見る。


「私、今まであなたに嫌われないよう、ずいぶん我慢していたようです」


「……え?」


「言いたいことを飲み込んで、あなたの失敗を先回りして直して、怒らせないように笑って。王太子妃になるのだから当然だと思っておりました」


 そこで一度、息をつく。


「でも、もう必要ありませんのね」


 そう思うと、不思議だった。


 悲しいはずなのに、少しうれしい。


「ですから今、一つだけ言わせてください」


「な、なんだ」


「人のお手紙を勝手に止めるのは、最低ですわ」


「うっ」


「それと、女性が笑いかけたからといって、全員があなたを好きだと思わない方がよろしいかと」


「ぐっ」


「あと、『真実の愛』という言葉は、相手の同意を確認してからお使いくださいませ」


「もうやめてくれ!」


 セドリックが頭を抱えた。


 今度こそ広間に笑い声が広がった。


 王妃まで扇子で口元を隠している。


「アメリア様……」


 リナが、おそるおそる声をかけた。


「私、本当にごめんなさい。もっと早く自分でお話ししに行けばよかったです」


「私も、殿下の言葉だけを信じてしまいました。お互いさまです」


「嫌いじゃないですか?」


「もちろん」


「怖くないですか?」


「それはこちらの台詞です。先ほどの泣き声、かなり驚きましたわ」


「う……」


 リナが恥ずかしそうに顔を覆う。


「でも、おかげで私が泣く暇がなくなりました」


「すみません……」


「ですから、責任を取ってくださいませ」


「えっ」


「今度こそ、一緒にお茶を」


 リナがゆっくり顔を上げる。


 それから、花が咲いたように笑った。


「はい!」


 その後、セドリックはしばらく王太子としての仕事から外されることになった。


 国王いわく、「他人の気持ちを勝手に決めつける者に、国民の声は聞けない」とのことだった。


 王太子の座を失ったわけではない。


 ただし、半年間は地方の役所を回り、実際に人の話を聞く仕事をすることになったらしい。


 本人にとっては、廃嫡よりつらい罰だったかもしれない。


 一方、アメリアとリナは、本当にお茶をした。


 最初の十分ほど、リナは緊張でほとんどしゃべれなかった。


 けれどアメリアが焼き菓子を勧めると、少しずつ話し始めた。


 田舎の村で育ったこと。


 突然聖女だと言われて王都へ連れてこられたこと。


 礼儀を間違えて笑われるのが怖かったこと。


 そして、アメリアの手紙にどれほど助けられたか。


「私、アメリア様みたいになりたいと思ってたんです」


「おすすめはしませんわ」


「えっ」


「我慢しすぎる癖がありますから」


 アメリアが笑うと、リナも笑った。


 それから二人は、ずいぶん仲良くなった。


 リナが想いを寄せていた護衛騎士ノエルとの仲も、ゆっくりだが進んでいる。


 ノエルはセドリックとは違い、リナが笑いかけても「自分のことが好きだ」とは決めつけなかった。


 むしろ何度好意を向けられても、


「聖女様はお優しい方ですから」


 と受け流していたので、最後にはリナが怒った。


「好きって言ってるんです!」


 神殿の廊下に響くほど大きな声だったという。


 その話を聞いたアメリアは、珍しく声を上げて笑った。


 そしてアメリアにも、やがて新しい縁談が来た。


 相手は隣国への留学から戻った侯爵家の次男、ユリウス。


 幼いころから顔見知りではあったが、特に親しいわけではなかった。


 だからこそアメリアは、最初にはっきり言った。


「私は、一度婚約に失敗しております」


「知っています」


「王太子妃になるつもりで育ってきたので、少し堅いところもあります」


「それも知っています」


「それでもよろしいのですか?」


 ユリウスは少し考えてから答えた。


「では、私も先に欠点を三つほど申告しましょうか」


「三つ?」


「朝に弱い。甘いものが好きすぎる。それから、緊張すると話が長くなる」


「最後のものは、今のところ確認できませんけれど」


「今、ものすごく緊張しています」


 アメリアは笑った。


 そして、こういう人となら最初から話し合えるかもしれないと思った。


 一年後。


 アメリアとユリウスは、小さな教会で結婚式を挙げた。


 大げさな式にはしなかった。


 家族と近しい友人だけを招いた、あたたかな式だった。


 誓いの言葉を終え、アメリアが少しだけ目を潤ませた、その時。


「うえええええええん!」


 参列席から聞き覚えのある泣き声が響いた。


 アメリアは目を丸くする。


 リナだった。


 隣では婚約者になったノエルが、困った顔で何枚目かわからないハンカチを渡している。


「アメリア様ぁ……お幸せにぃ……!」


「リナ様」


「はいぃ……」


「私、まだ泣いていませんわ」


「すみませぇん……!」


 教会中に笑い声が広がった。


 アメリアもとうとう我慢できず、涙を浮かべたまま笑った。


 婚約を破棄された夜、泣こうとしても泣けなかった。


 けれど今は、不思議なくらい素直に涙が出る。


 悲しい涙ではない。


 大切な友人と、隣にいてくれる人と、これから始まる人生がうれしくて流れる涙だった。


「また先に泣かれてしまいましたわね」


「ごめんなさい!」


 そう言って、二人は顔を見合わせた。


 そして今度は、一緒に笑った。

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― 新着の感想 ―
聖女の気持ちを蔑ろにして真実の愛なんて……馬鹿なのか
たった半年が一生ものの廃嫡より辛いことはないでしょう。
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