第九話 呪われた一ノ瀬邸
一ノ瀬恵さんの瞳は、助けを求めるように僕たちを映していた。
その潤んだ瞳には、これまで一人で抱え込んできた恐怖と孤独が、色濃く滲んでいる。
僕と獅童は、彼女を占いの館の奥にある、少し広めの個室へと案内した。ここは、艶華さんが特に込み入った相談事のある客を通すための部屋だ。防音性も高く、プライベートが守られる。
「改めて、詳しく話を聞かせてくれるかな」
ソファに並んで座る僕たちの正面、一人掛けの椅子に彼女を促し、獅童が穏やかな口調で切り出した。彼の声には、不思議と人の心を落ち着かせる響きがある。
「はい……」
一ノ瀬さんは、か細い声で頷くと、ぽつりぽつりと語り始めた。
それは、僕が昨日聞いた内容を、さらに具体的にした、壮絶な体験談だった。
誰もいない二階から聞こえる足音。
毎晩見る悪夢。黒い人影に、家のどこまでも追いかけられる夢。
「最初は、気のせいだって思おうとしたんです。でも……」
彼女は俯き、自分の指先をきつく握りしめた。その手は、小刻みに震えている。
「最近は、昼間でも……。物が、動くんです」
僕はゴクリと唾を飲んだ。ポルターガイスト現象。それも、かなり強力なものだ。
「……わかった。祐介、視てやれ」
獅童が、僕の肩を軽く叩いた。
僕は静かに頷くと、鞄からダークミラーを取り出した。
「一ノ瀬さん。少しだけ、あなたの心の中を視させてもらいます」
「は、はい……」
彼女の前に座り直し、テーブルの上にダークミラーを置く。
深く、深く息を吸い込む。無響室での訓練を思い出せ。あの暗闇と静寂の中で掴んだ、自分の心の中心。
鏡を覗き込むと、吸い込まれそうなほどの闇が広がっている。
しかし、もう恐怖はない。これは、僕自身を映す鏡。僕の心を視覚化する装置だ。
僕は意識を集中させ、目の前の一ノ瀬さんに意識を向けた。彼女の苦しみ、恐怖、そして、その奥にあるもの……。
やがて、漆黒の鏡面に、ゆらりと映像が浮かび上がった。
それは、病室のベッドらしき場所で、穏やかに微笑む老婆の姿だった。皺の刻まれた優しい顔立ち。その瞳は、慈愛に満ちている。彼女は、何かを語りかけているようだった。声は聞こえない。だが、その唇の動きと、瞳から伝わる感情が、僕の心に直接流れ込んでくる。
『あの子を、一人にしないで』
『どうか、あの子を……』
切実な祈り。
僕は、目を開けた。
「……お婆さん、かな。すごく君のことを心配している人が視える。病気か何かで、最近亡くなった?」
僕の言葉に、一ノ瀬さんは「えっ」と息を呑み、その瞳を大きく見開いた。
「……はい。半年前、祖母が……。病院で……」
「やっぱり。その人だ。君に悪いことをしようとしてるんじゃない。ただ、ひたすらに君の身を案じている。……だけど、それだけだ。君の家で起きている怪奇現象は、このお婆さんが原因じゃない」
断言すると、獅童がすかさず言葉を継いだ。
「なるほどな。つまり、あんた自身に悪霊の類が憑りついているわけじゃねえってことだ。そいつは朗報だな」
「え……? じゃあ、あの現象は一体……」
「考えられる可能性は二つ。一つは、あんたの強いストレスや不安が、無意識に超能力……サイコキネシスとして発現し、ポルターガイストを引き起こしている可能性」
獅童は、まるで大学教授のような落ち着き払った口調で説明する。
「そして、もう一つは……」
彼はそこで一度言葉を切り、僕と一ノ瀬さんの顔を交互に見た。
「その『場所』に、何かがいる」
場所。
つまり、一ノ瀬さんの住む家そのものに、原因があるということだ。
「場所に憑くタイプの霊は、その土地や建物に縛られていることが多い。だから、祐介がここで君を霊視しても、何も視えなかったんだ。原因は君自身じゃなく、家の方にあるから」
「そんな……」
一ノ瀬さんの顔が、再び絶望に曇る。
自分に原因がないということは、つまり、あの恐怖の家に帰らなければ、解決の糸口すら掴めないということだからだ。
「心配すんな」
獅童は、不敵な笑みを浮かべた。
「俺たちが、その家に一緒に行ってやる。そして、原因を突き止めて、あんたを解放してやるよ。なあ、祐介」
「……うん。もちろんだよ」
僕たちの力強い返事に、一ノ瀬さんの瞳に、ようやく微かな希望の光が宿ったような気がした。
◇
一ノ瀬さんの家は、都心から少し離れた、閑静な高級住宅街にあった。
モダンなデザインの、大きな一軒家。手入れの行き届いた庭には、季節の花が咲いている。傍から見れば、誰もが羨むような豪邸だ。
しかし、その門をくぐった瞬間から、僕は強烈な違和感に襲われた。
――肌が、泡立った。
「……祐介? どうした、顔色が悪いぜ」
「……いや、なんでもない」
獅童に心配をかけたくなくて、僕は首を振った。
だが、玄関のドアが開き、一歩足を踏み入れた瞬間、僕の虚勢は脆くも崩れ去った。
「うっ……!」
ザザッ、と。
視界が歪んだ。
目の前の光景が、まるでブラウン管テレビの映像が乱れるように、激しいノイズに覆われる。
砂嵐が叩きつけられるような、空間そのものがミキサーでぐちゃぐちゃに掻き回されるような、凄まじい感覚の暴力。
立っていることすらできず、僕はその場に膝をついた。
「おい、祐介!?」
獅童の焦った声が、遠くで聞こえる。
一ノ瀬さんの悲鳴も。
「だ、大丈夫……。ちょっと、眩暈がしただけだから……」
壁に手をつき、なんとか立ち上がる。
視界のノイズは少しずつ収まってきたが、頭の芯がジンジンと痺れるような感覚は消えない。
なんだ、これは。
今まで、どんなに強力な霊が相手でも、こんな感覚に陥ったことはなかった。
これは、霊的なものとは、何かが違う。もっと……物理的で、直接的な、脳への攻撃。
「……無理すんな。一度外に出るか?」
「いや、平気だ。……慣れてきた」
僕は深呼吸を繰り返し、乱れた感覚を必死に整える。
改めて、家の中を見渡した。
吹き抜けになった開放的なリビング。高価そうな調度品の数々。しかし、そのどれもが、どこか冷たく、生活感が感じられなかった。
一ノ瀬さんの話では、両親は仕事で海外を飛び回っており、ほとんど家にいないらしい。時々、家事代行のヘルパーが来るくらいで、この広い家に、普段は彼女が一人きりで暮らしているという。
その、瞬間だった。
ガシャン、と。割れる音がした。
見ると、テーブルに置かれていたガラスコップが床に落ちたのだ。
もちろん、誰も触ってはいない。
静まり返った部屋に、破片の飛び散る音だけが、やけに大きく響いた。
「……」
獅童は、黙って床に散らばったガラス片を見つめていた。
彼の表情は、いつもの不敵な笑みも、人を食ったような軽薄さも消え、見たことのないほど険しいものに変わっていた。
「……一ノ瀬さん」
ややあって、彼が口を開いた。
「今夜は、友達の家に泊めてもらってくれ。いや、しばらくだな。絶対に、この家には戻っちゃいけない」
「で、でも……」
「いいから。言うことを聞け。これは、あんたが一人でどうこうできる問題じゃねえ。俺たちが、必ずなんとかする。
だから、今はここを離れるんだ」
有無を言わせぬ、強い口調。
その気迫に押され、一ノ瀬さんは小さく頷くことしかできなかった。
◇
一ノ瀬さんが友人に連絡を取り、家を出ていくのを見届けた後、僕と獅童は、再びあの家に戻っていた。
もちろん、彼女には「今夜は俺たちで調査をするから、明日の朝まで連絡を待て」と伝えてある。
「……さて、と」
リビングのソファにどっかりと腰を下ろし、獅童が大きく息を吐いた。
彼の顔には、疲労の色が浮かんでいる。霊感のない彼でさえ、この家の異常な雰囲気は、精神を消耗させるらしい。
「祐介。お前この家をどう思う?」
真正面から、真剣な眼差しで僕を見つめてくる。
僕は、まだ残る頭痛に耐えながら、自分の感じた違和感を懸命に言葉にしようと試みた。
「……すごく、やばかった。今までで、一番……。だけど……」
「だけど?」
「たぶん、あれは霊じゃない」
僕の言葉に、獅童は意外そうな顔をせず、ただ黙って続きを促した。
「今まで僕が視てきた霊には、どんなに朧げでも、意志の残滓……みたいなものがあったんだ。
怒りとか、悲しみとか、誰かに何かを伝えたいっていう、感情の塊。でも、この家で感じるのは、そういうものじゃなかった」
「だとしたら、何だよ」
「わからない。わからないけど……もっと、こう……自然で、無機質な……」
上手く言葉が出てこない。
あの感覚を、どう表現すればいいのか。
だが、獅童は、僕の拙い言葉を、真剣な表情で聞いていた。
「無機質な、自然……か」
彼は何かを考えるように、顎に手を当てて、しばらく黙り込んだ。
部屋の沈黙を、壁に掛かった時計の秒針の音だけが、やけに大きく刻んでいく。
「俺も、お前と概ね同意見だ。ここにいる……いや、ここにあるのは、一般的な幽霊や悪霊の類じゃねえ」
「え……じゃあ、やっぱり……」
「ああ。だが、正体はまだ掴めん。……今日はもう解散しよう。俺も、少し頭を整理して、調べる時間が欲しい」
獅童はそう言うと、立ち上がった。
僕も、彼の言葉に頷くしかなかった。
これ以上、この家にいても、僕の体力がもたないだろう。
僕たちは、無言で一ノ瀬さんの家を後にした。
振り返ると、夕闇に沈む豪邸が、まるで巨大な生き物のように、静かに佇んでいるのが見えた。
◇
翌日。
学校の昼休み。
僕は、獅童に連れられて、いつもの屋上に来ていた。
「体調は、どうだ?」
焼きそばパンを齧りながら、獅童が尋ねる。
「まあ、大丈夫。彼女の家を出たら治ったよ」
「そうか。まあ、霊障じゃないしな」
そして獅童が続けた。
「お前が昨日言った、『無機質なシステム』って言葉。あれが、デカいヒントになった」
「え?」
「昨日の夜、俺なりに色々と調べてみたんだ」
彼は、ニヤリと口の端を吊り上げた。
いつもの、不敵な笑みだ。
「おそらく、あの霊の正体がわかったぜ」




