第9話
歩き、這い寄る腐鬼を潰し、ラグナスは思わず膝を突く。
辺りを舞う黒い霧、輪郭のない人の形、それらを喰らえと身体が戦慄く。
「ラグナス」
叫ぶ声に振り返る。
ザビーネは黒い二体と対峙していた。
身体の多くを斬り削られた獣は、今や歪な女頭の蛭の如き姿をしている。
だが滅するには至らない。
今も周囲に漂う魂、霊子を糧に身を再生している。
放って置けばじき元に戻る。この円蓋は餌だらけだ。
「ラグナス、立って」
声を上げ、ザビーネは剣を収めた。
冥界ノ門を背に両手を拡げ、飛び掛かる黒い獣を抱え込んだ。
捩り喰らい付く獣を押さえ込み、後退る。
意図を知り、ラグナスが駆けた。脚が縺れ、這い転びながら必死に走る。
ザビーネの身体が冥界ノ門に沈む。
辿り着いたラグナスが手を伸ばすも、指先は石面に弾かれて滑った。
ザビーネは顔だけを辛うじて浮かせ、ラグナスに囁く。
「壊して、このまま、抑えるので一杯」
ラグナスが首を振る。髑髏の仮面の朱い眼が揺れる。
「早く」
「だめだ、僕を」
独りにしないでくれ。
呑み込んだ言葉がザビーネには分かる。
怪物になっても、髑髏の面に伏せてはいても、ザビーネには透けて見える。
愛おしい。
ザビーネは自身に抗った。
それは呪いだ。言ってはならない。
「迎えに来て、ラグナス」
言ってしまった後悔に喉を詰める。
「あたしを冥界から攫って」
なのに嬉しさが込み上げる。
ラピス、メルシア、様あ見ろ。これであたしも、あんたたちに負けはしない。
ラグナスが捜すあの娘、平和な時代のあの女。
ずっと羨ましかった。嫉妬していた。
この昂りは石碑のせいか、それとも自身の本性だろうか。
最早ザビーネにも分からない。
この身を奪わずにおれなかったアデリーヌと同じだ。
「必ず」
ラグナスは呻いた。
「必ず、方法を見つける」
「真面目か、馬鹿」
ザビーネが笑う。
もう平気、もう大丈夫、ごめんなさい、愛してる。
眩しい水面を見上げるように視界が揺れる。
ザビーネの意識は夢に墜ちた。
その地響きは遠くまで届いた。
大型蒸気炉の連鎖爆発は山稜が形を変えるほどだった。
クラヴリーの遺跡は跡形もなく崩落した。
その少し前の事、禁足地の縁に怪異が噴いた。
付近に棲息する鬼獣は元より、雇兵と思しき警護の一団が悉くが触れた。
生きたままで腐鬼に成り果て、人を求めて彷徨い出た。
地響きと噴煙に床を出たクラヴリーの人々は、押し寄せる腐鬼に恐怖した。
元より里の守備は少ない。
昨夜逃げ帰った者たちが、雇兵の本性を知って追い返した折りだ。
クラヴリーまで彼らを先導し雇兵を蹴散らした馬はいつの間にか消えていた。
皆、身を寄せて閉じ籠った。
幼い者まで獲物を取って、震えながら身構えた。
何の希望もないままに、ただ夜明けが何かを変える事を祈った。
一騎、ただ一騎が駆けて来た。
朱い鬣、白銀の毛並みの馬が疾駆する。
咽び泣くような風音を立て、朱い眼をした仮面の騎士が駆け付けた。
頸に緋色を靡かせ、腐鬼を見る間に打ち倒して行く。
気が付けば、魔宴の如き夜は嵐のように吹き払われていた。
白む空に、ただ柔らかな風がある。
夥しい骸の先に佇んだいた騎士は、誰にも名も告げず立ち去った。
世はまだ知らず、だが伝説は既に始まっていた。




