第6話
轟、と風が鳴った。
天蓋に届かんばかりの風鳴りが、黒い獣の半身を宙に引き剥がした。
隙にザビーネが身を捩り、獣の腹を薙ぎつつ転がる。
黒い獣が宙で身悶える。
肩を掴んで掲げ持つ人影が、その両の手で獣を引き裂いた。
黒い血肉の尾を引きながら割れた塊が転がり跳ねる。
ラグナスが立っていた。
仮面を着け、頸に巻いた緋色の布を翼のように靡かせて。
見上げるザビーネに笑みが溢れた。
髑髏の面の兜の内は想像を絶する異相がある。
幾筋もの串が絶えず苛み、兜の縁から血が溢れる。
せめてそれを包むよう、ザビーネが手ずから巻いたのが緋色の布だ。
距離を取ろうとしたメッサーラが困惑に足を止めた。
あれはヴォークトの被検体か。師をも越えたと息巻くあれが何故ここに居る。
否、違う。
不意にメッサーラの顔色が抜け落ちた。
「三四号」
〈黒司教〉さえ恐れた最悪の亡霊だ。
濁った少女の絶叫が石室を震わせた。
悲鳴は二つに響きが割れて、個々に応じて呼び合っている。
黒い塊がのたうち回る。猛禽の腕が身体を合わせようと身悶える。
それが叶わぬと気付くや、自らを二つに引き裂いた。
発したその声は太く醜く音を下げ、泡の爆ぜる音になる。
黒い血飛沫が身体を噴き割り、遂には二つの塊になった。
二体の黒い獣の影だ。
蛭のような質感はそのまま、物質としては透けるほど薄い。
割れた二つの獣から、爆風にも似た瘴気が噴いた。
波紋のように宙を横切る。
ラグナスが咄嗟にザビーネを庇った。
物理の衝撃を孕んではいるが、実際は微風の程度だろう。
本体は星辰界に爆ぜた海嘯だ。
ザビーネに斬られた階下の兵士が黒く膿んで膨れ上がった。
肉が互いを引き合って四肢が異様に圧し曲がる。
変貌も一瞬、腐鬼に堕ちた。
死者は勿論、微かに息のあった者さえ次々に姿を変えて行く。
ラグナスの肩越しに有様を見てザビーネは震えた。
彼の顰めた表情に気付き傷を負ったかと身体を探る。
辺りを埋める黒い霧がラグナスの腹部に吸われていた。
「大丈夫だ」
そんな筈がない。ザビーネの責める目にラグナスは苦笑した。
「僕の中のが喰っている、力にはなるが正気を奪う」
「だったら早く」
「このまま放っては置けない」
残った兵士が悲鳴を上げながら我先にと石室を駆け出して行く。
側の暗がりから伸びた手が兵士たちに絡み付く。
山と積まれた人体が軒並み腐鬼と化していた。
知性も理性も溶け落ちて兵士たちが絶叫する。
呻く叫びを上げながら、じきに自身も変容し石室の縁に蠢く者に成り果てた。
原因は、二つに割れたあの獣だ。
あれの噴き撒く黒い瘴気が人も遺体も腐鬼に堕す。
ふとザビーネは眉根を寄せた。
辺りを埋める黒い霧が分かる。
黒い獣に組み敷かれたせいか星辰界の瘴気が見えている。
むしろあまりに物質めいて、肌に感触さえ残るほどだ。
「兎に角あいつらを何とかしなきゃだ」
もしくは黒い石碑の方を。
ラグナスの力なら、あれを割り砕く事もできるだろう。
否、駄目だ。黒い獣は『外』にいる。
このまま石碑を壊したならば、黒い獣は野に放たれたままだ。
ラグナスもそう思い至ったのだろう、頷いて見せる。
剣の柄を握り直しザビーネは飛び出した。
ラグナスが傍を駆けている。
黒い獣が先にいる。構えて撓める二対の向こうは腐鬼の群れだ。
舞台の縁に身を避け逃げるメッサーラの姿が伺えた。
だが今は。意識を眼前に絞り込み、ザビーネが獣に刃を払う。
獣が跳ねて身を躱した。
黒い肉片が僅かに散って、瘴気に気化して霧散した。
片やラグナスの突き出す拳は、もう一方を突き抜ける。
悲鳴のような音を鳴らして避けるように跳び退った。
何故か二人の手応えが違う。
ザビーネの手には粘性の、ラグナスの手には霧の感触がある。
どうやらラグナスには触れ得ない姿に変容している。
しかも獣はラグナスを避け、ザビーネだけに執着していた。
「ラグナス」
隣に目を遣り腐鬼を指した。
円形舞台の全周に、それらは溢れ出している。
このまま外に出す訳にはいかない。近隣の里を滅ぼしかねない。
苦渋の憂いを一瞬に残し、ラグナスは頷いて駆け出した。




