第1話
再臨歴一九七七年、大陸南東
ヨービン公国アゼマ領、湾岸都市バダンテール
裏路地に少年が佇んでいる。
軒の縁から差し込む陽光が、導くように少年を照らしている。
陽射しの下のその両手は、濡れて朱い手袋のようだ。
「ダリル、ダリル」
マリエル・ルミナフの呼ぶ声に、少年は途方に暮れた無垢な目を向けた。
ダリル・カデットの足許に、男がひとり蹲っている。
俯き翳って顔は見えない。
垂れた髪から雫が垂れて、石敷きの路地に黒い水溜りを作っていた。
悲鳴が喉を競り上がる。マリエルは無意識に口許を覆った。
いつかこうなる予感はあった。
ダリルには未だ善悪の機微がない。子供のような社会性の中にいる。
それも、巨大な力を持った無垢な子供だ。
まるで断罪の御使いのように。
人に見えても人ではない。
なのに、見目に甘えて人として接して来た。御せなかったのは自分のせいだ。
ダリルがマリエルに答えを求める。縋るように手を伸ばす。
差し出されたその朱い手を、マリエルは反射的に避けた。
動揺する自身の映るダリルの瞳から身を逸らした。
不意に喧騒が押し寄せた。
無意識に閉ざしていた聴覚の反動だろうか。雑踏が怖いほど耳を弄する。
あの目の数に見られては、ダリルとマリエルに先はない。
「行って」
マリエルは短く叫ぶ。
「早く」
「何処へ」
ダリルが問い掛ける。
「何処でもいいから、此処から逃げて」
問い返す気配を頑なに拒む。
背を向けたまま声を殺し、マリエルはダリルに命じた。
駆けて行く靴音を背中に聞いた。
マリエルは素早く通りを見回した。
幸い死体は路地の裏手だ。通りからは直接見えない。
このまま何気に立ち去って、建屋の裏手でダリルと合流しよう。
算段しつつ通の人混みに踏み出した。
走らないよう、目立たないよう、焦りは致命的だ。
表通りは大来が多い。この先にある港湾事務所は今なお人集りだ。
マリエルも其処を訪れたばかりだった。
バダンテールの港はヨービンでも有数の交易路だ。
内海を横切るその航路には今、問題が生じている。
湾内の往来が叶わない。全ての船便が入港を見合わせている。
マリエルとダリルは最滑り込んだものの、荷の後送りで便が逸れた。
その船には乗り分けた連れがいる。
寄港を待つ便、港を移る便、渡航を見合わせ引き返す便。
運行の通常化はまだ目途が立たない。
連れの乗ったエルサルドールの便は情報そのものが遅延している。
逐一港湾管理に問い合わせる他なく、それも三日目になった。
今日の外出もその要件だ。
混み合う港湾事務所を訪れる際、マリエルは彼を人けの薄い場所に残した。
ダリルの容姿が目を惹くからだ。
隣に居ると視線の余波が痛い。
化粧気のない地味な娘は不釣り合いにも程がある。
勿論、当人はお構いなしだ。子供のように無邪気なまま。
事実、彼の中身は子供だ。その分余計にたちが悪い。
せめてもう少し、叔母の手を借りてから出発すべきだった。
霊子工学は専攻ではない。
ましてや罪深きものなど。
そんな訳の分からないものは、教会に認められた公用魔術の中にない。
ダリルは余りに人に似て、そして余りに違い過ぎた。
こと日常生活は致命的で、いちいち範囲と順位に指示が要る。
「しまった」
思い返して失念に気づき、マリエルは思わず立ち止まった。
ダリルは何処まで逃げる気だろう。明らかに指示が曖昧過ぎた。
せめて宿での合流に思い至ってくれるだろうか。
蒼褪めて振り返るなり、マリエルは声を掛けられた。
「少しよろしいですか」
不意打ちに飛び上がる。
焦りながらも、道を塞いでしまったかと相手の顔も見ず頭を下げ、脇に逸れる。
だが、男はマリエルの目の前に立った。
商人風の襟付き衣装だ。見知った顔では決してない。
「すみません、急いでいますので」
俯きながら首を強張らせ、こっそり背の方に目を寄せる。
どうか裏通りに目が行きませんように。死体に気付かれませんように。
だが、微かに覗くはずの蹲った影がない。
思わず目の前の商人を無視して裏路地を振り返った。
目を眇めるも路面には黒い水溜まりが残っているだけだ。
不意に視界が遮られた。別の男が割り込んだからだ。
首を竦めて視線を戻すも不穏な気配に胃が痛む。
振り返る際にもう一人、マリエルを囲む男に気が付いた。
後の二人は喋り掛けてこそ来なかったが、正面の男と似た雰囲気だ。
商人にせよ妙に身綺麗でお仕着せ感がある。
「一緒に来ていただけますか」
男が言う。
「用があるので」
すみません、とマリエルが繰り返す。彼らの眼を見て怖気が走った。
まるで稚拙な情動関数。人形の眼だ。
「安心してください、あなたに危険はありません、マリエル・ルミナフ」
名を呼ばれて竦む。男がマリエルに手を伸ばす。
横からその手をさり気に払い、ふわりと芳香が割り込んだ。
「ねえ兄さんたち、他所に行ってよ」
茫然とするマリエルを風のように攫う。
束ねた長い黒髪が目の前で揺れた。
「この娘、あたしの連れなんだ」




