第3話
石の廻廊を辿ればじきに冷えた広間に行き着いた。
側溝に湧水の流れがあり、広間の縁に落ちている。
先の石床そのものが、湧水を湛えた集水場の上に建っているらしい。
とはいえ冷気の抜け具合、靴の音の響きからしても先はそれなりに広そうだ。
燈火の灯りも届き切らない。
勿論、採掘場ではない。
禁足の遺構に間違いなかった。
当初の予想は大蜘蛛の巣だった。だが辺りは至って静穏だ。
一匹たりとも姿がなく、鬼獣の立ち入った痕跡もない。
蜘蛛が水辺を避けている。性質としてはなくもない。
鬼や獣の類と異なり水気は獲物で摂る鬼獣だ。
進もうとするザビーネを制し、ラグナスは腰の燈を手で覆った。
促す闇に、淡く微かな光の帯が幾筋も漂っている。
「霊光だ」
精気を吸う亡霊の類だ。
「枯れてそれほど害はないと思うが、幽鬼もいるようだ」
水辺であるという他に、こうした棲み分けもあったのだろう。
「あたしそっちの勘所がないんだ、司祭を連れて出直そうか」
祓魔師ではないからな、とラグナスが苦笑する。
そも、これほど明確な禁足の遺構をエクトル司祭が踏む筈もない。
ザビーネは出立前の司祭とラグナスとの会話を思い出した。
例え水路を見つけたとしても、禁足地に踏み入れた咎は受けねばならない。
顔を曇らせるエクトル司祭に、あっけらかんとラグナスは言った。
そんな咎など鬼獣の毒より浄化は容易い。
魂を導くのが御使いの務めなら、生者を導くのが貴方の務めだ。
どうか、皆とご自身の身を護って戴きたい。
畏れ多くも聖職者に対し、あの言外には信仰と生存の取り引きがあった。
エクトル司祭の性根を見抜いての事だろう。
形骸の信心より民の命だ。
「数は多いが霊障はそこまで酷くない、気をしっかり持てば大丈夫だろう」
ラグナスが再びの灯りを向ける。
ザビーネは頷いて隣を歩いた。
「まるで騎士さまだな」
つい口に出して呟いた。
振り向く気配にザビーネが口を尖らせる。
「その、いちいち言う事が気取ってるから」
ラグナスは困ったように笑うと何処か遠い目をした。
「実家を追い出された、ただの放蕩者だ」
現れた水場は底深く、石床の足場は相当に高い。
そう見えるのは水位が低いせいだろうか。
遺跡の出自は再臨歴以前だ。
禁足とされた時期でさえ、古地図に載るほど相当古い。
当時の水も出尽くして、枯れた水脈もあるのだろう。
だがこの近辺の湧水処理はいずれも古い浄化水路に合流している。
外に通じる、よい兆しだ。
広い床面の先ほどに高低差のある石組みが見えた。
幾本もの石柱に囲われた其処には、大きな石の板、石の壇があった。
ザビーネの項が逆立った。
ふとラグナスが灯りの方向を変える。
床の向こうに掠れた黒い跡があった。
同じ方向を目指しているが、違う向きから続いている。
どうやら別の廻廊もあるらしい。
しかも積もった砂礫の上に筋を残すほどの最近の跡だ。
「血だ」
ラグナスが囁いた。
「人の血だ」
その筋は眼前の石組みに続いている。
進むラグナスをザビーネは追うも、無意識に脚が拒んでいる。
先に在るのが石碑だからだ。
二つに欠けて落ちてはいるが、あの日に見た黒い板に酷似している。
それを仰ぐ石壇に、黒い跡は続いていた。
ザビーネが呻く。
その上には幾つもの塊が載っていた。
千切れて歪んだ三人ほどの遺体だ。
部位を数えてそう分かる。
一人は見知った顔だった。
ラザール隊長だ。
身体は大蜘蛛の損傷が激い。だが頸は捻れて傾いでいる。
「誰が」
ザビーネが呟く。
そう、誰がだ。猿鬼ならば兎も角も、蜘蛛に人真似の習性はない。
まるで風に吹かれるように髪が細波を立てていた。
辺りを彷徨う無数の亡霊が身体を求めて抉入ろうとしているせいだ。
とまれラグナスは跪き送魂の祈詞を呟いた。
腐鬼に堕とすには忍びない。
申し訳程度の祝詞であっても、凌ぐ助けにはなるだろう。
せめて周囲の警戒を、とザビーネが燈を掲げて辺りを照らした。
辺りを見渡し無意識に首を縮める。
石碑を見上げて息を詰めた。
同じものではないにせよ、こんな所でこれを見るとは。
無垢な時代の最後のあの日にザビーネはアデリーヌとそれを見上げた。
あの石板にそっくりだ。
「知っているのか」
ラグナスが声を掛ける。
ザビーネの強張った頬を眺め遣り、ふむと唸って石碑を振り返る。
「僕の郷にも似たのがあった、根まで割れていて確証はないが」
残っていたのは、と言葉を切る。石碑の壇に目を遣った。
呟いたきりのラグナスに問おうとして、ふと石柱に佇む影に気付いた。
ザビーネが灯りを向ける。
その大柄な体躯に見覚えがあった。
「タンカン」
よく生きていた、その言葉の途中でザビーネは姿を見失った。
不意に間近に現れる。
割り込もうとしたラグナスをタンカンは無造作に払い飛ばした。
小枝の様に身体が撥ねた。
外れた燈火が床を転がり、逸れてラグナスを見失う。
肌が粟立つその気配に、ザビーネは反射的に身を庇った。
タンカンが腕を掴む。
骨が砕けるほど強い。岩に挟まれたかと思うほど無機質な力だ。
ザビーネの身体を腕一本で吊り上げる。
間近に見るタンカンの目は虚だ。頬は色が抜けたように青白い。
「生きた贄だ」
そう呟いた。
「ギルークの仲間か」
痛みを堪えつ、ザビーネが名を投げる。
郷の元領主、あの夜の魔宴の首謀者だ。
ぬるりとタンカンが目を向けた。何故その名を知るか、と問い返している。
腰の燈火を手探りで抜いて、ザビーネは横殴りにタンカンの頭に叩き付けた。
燈が壺ごとに割れ散った。長燃性の汎用油を勢いよく撒き散らす。
顔の半面を炎に包まれ、タンカンはザビーネを放り出した。
石床に散った油の染みが思い出したように焔を立てる。
辺りを下から照らし上げた。
「おまえ、何処でこれを知った」
タンカンが問う。
まるで汚れを拭うかのように炎の纏わり付いた頬を無造作に擦り上げる。
腕を振って払い捨てるも、頬に手に粘性燃えさしは残ったままだ。
剥けた頬の下に肉はなく、骨とも違う異様な硬質が覗いている。
「この冥界ノ門は俺のものだ、他所に行け」
「ナントカなんざ要るか、馬鹿」
タンカンを睨め付け、ザビーネが怒鳴り付ける。
痺れた腕を庇いつつ柄に手を掛け鞘を弾いた。
「あたしが知りたいのはギルーク・メッサーラの居所だけだ」
地を這うように駆け込んで真下に脚を斬り上げる。
刃が半ばまで食い込んだ。そのままびく、とも動かない。
掴み掛かるタンカンの腕を避け、思い切りよく柄から手を離して飛び退る。
宙で深靴の短剣を抜き、転がる内に投擲した。
燃えさしに照らされた大男の眼は剥き出しだ。
だが、短剣はタンカンの翳した掌に突き立つ。
巨躯に似合わぬ反応に舌打ちし、ザビーネはもう一投を喉に投げた。
院長に仕込まれた両利きだ。手に痺れはあっても外しはしない。
硬い音に弾かれた。
皮の下にある異物のせいだ。
タンカンの眼には表情もない。
ザビーネの前に影が立った。
「なるほど君も同郷か」
ラグナスがタンカンに問う。声が不自然に嗄れている。
怪我をしたのかとザビーネが目を凝らす。
ラグナスは顔を隠した。その半身が、足許に散る油の薄明かりに翳る。
微かに覗いたその容貌に、ザビーネは悲鳴を呑み込んだ。
「おまえ」
タンカンが首を傾げる。
ザビーネの前に布嚢が落ちた。ラグナスの背にあった頭陀袋だ。
黒鉄の塊がラグナスの手にあった。
翳した兜を頭を伏せる。
面を下げ、顎当てを引き上げ、牙のように噛み合わせた。
「三四号」
タンカンの声に初めて感情が生じた。
恐怖だ。
その巨躯が子供のように怯えて後退る。
だが、逃げられる筈もないと悟るや、遮二無二ラグナスに打ち掛かった。
タンカンの腕が弾かれ、あらぬ方に折れた。
ラグナスの拳がタンカンの肩を背に曲げる。胸を腹を突き抜けた。
タンカンが堪らず膝を折る。
その半分の身の丈をラグナスの蹴りが薙ぎ刈った。
頭が跳ぶ。薄暗がりの中に弧を描き、石床の外れに水音を立てた。
崩れ落ちる巨躯を宙に蹴り飛ばすや、それは内側から破裂した。




