第4話
だが、遅かった。
屋敷の中だと油断もあった。
フェルクスの言った通りだ。
鬱々と曇った白壁を眺めてラグナスは溜息を吐いた。館の者は責められない。
忠誠と信心を秤に置いても、御柱に傾くのは当然だ。
自分だってそうするだろう。
連行されて三日が過ぎた。
聖堂の敷地に急拵えの部屋を空け、王太子のの聴取と寝泊りに供されている。
城下の街は丘の麓だ。聖堂もそう遠くない。
だが今は越えようのない距離がある。
昨夜はとうとう守衛も付いた。
逃げやしないと声を掛けたが、中にいるのが次期領主と知っていただろうか。
一応公には秘された筈だが、街の気配が異様に重い。壁の内まで伝わって来る。
連行の間際も大荒れだった。
思い出しても身が縮む。
タチアナは静かに怒った。
メルシアは思い切り怒った。
共に教会の使者よりも、ラグナスの方をきつく強く叱り付けた。
異端審問より遥かに怖い。
路の敷き石を踏み割るほどに馬車の際まで付いて来て窓の外からも噛み付いた。
片やフェルクスは消沈し、見送りにさえ来なかった。
自責の念がラグナスに押し寄せる。
二人の鉾先が次に向くのは、きっと彼だ。
「これは殿下の筆跡ですか?」
問う声にラグナスは頷いた。
クスト・ルフォールは取り調べの司祭だ。
専任ではないが中央大聖堂の教理省に所属し、その権限があるらしい。
即ち、異端審問官だ。
ラグナスにとっては運悪く、司教のシュタインバルト来訪はたまたまだだった。
ジェラード・グラル司祭とは赴任前からの知己らしい。
幾度かこの国を訪れてもいる。
「記述がその、専門的だ」
司祭は革を張り絞めたように痩せている。
薄灰の瞳は無色に近く、特長的だ。
「それは聖都で、その、少し」
言葉の禁忌に気を遣い、ラグナスの返答は妙に胡乱な言い回しになった。
書き付けはラグナスの覚え書きだ。
拙い描画の対象は、幾つも幾つも木箱を重ね、布ごと封をされていた。
曲がりなりにも教会内だ。仕方がない。
とは云え書類の扱いは思いの外に丁寧だ。
ラグナスについても同様だった。
扱いを計りかねている。
それがラグナスの印象だ。
像を手にした経緯も含め、ラグナスは嘘偽りなく関係者に全てを話した。
像が祠から盗掘されたのは明白だ。
シュタインバルトの封印物は慣例に異なる。
領主に管理の権限があった。
勿論、ラグナスの行為は冒涜に近しい。
とはいえ異端の境界は、魔術の探求に明確な線を引けない。異端審判は水物だ。
そもこうしたラグナスの知識を辿れば、その起源は色位の大魔術師に行き着く。
その点はタチアナの抗弁にも期待ができた。
故にラグナスに不安はなかった。
当初のクスト・ルフォールは、神像の回収こそが目的だった。他は余録だ。
ジェラード・グラルがまた死体を寄越した折は、今度こそ更迭を考えていた。
使者の死因は呪詛に他ならない。
もう幾人も失敗している。
〈教授〉も痺れを切らしていた。
とは云えシュタインバルトの神像は、およそ人には触れ得ない代物だ。
ラグナス・フォルゴーン生存は、その血が成し得た偶然の産物だろう。
だが、押収した資料を前にルフォールは別の関心を抱いた。
ラグナス自身への興味だ。
リリウム・ファリアに師事などと、その皮肉には笑う外ない。
否、むしろ因縁だ。
「おそらく、問題はないでしょう」
ルフォールは嘯いた。
「ですが、封印は必要だ」
そう告げ、ラグナスに引き渡しを迫る。
「中央大聖堂は送致を求めるでしょう」
だがラグナスは臆することなく応えた。
「管理はフォルゴーンの神勅です」
無垢に思えて芯が強い。
「再びこの地に返すと確約は得られますか」
「手続きは大司教猊下に及ぶと思いますが」
「猊下も御柱にお仕えする身では?」
ルフォールは内心で舌を巻いた。
地位と血筋を勘案しても、この少年と縁を残すに越したことはない。
無理強いは悪手だ。
とは云え、余り猶予はなかった。
カルマンカードの事後処理の以降、掃き消した足跡を辿る者がいる。
今は自身の身の回りが不穏だ。
物理的にも長居はできない。
ルフォールは木箱に意識を向けた。
溢れた夥しい星辰態が無数の黒い蛇の如く木箱の縁に蠢いている。
神像の呪詛が強すぎる。
彼でさえ霊障は免れない。
移送にどれほど使い捨てを用立てられるか。
不意にルフォールは目を細くした。
平然と佇むラグナスを見遣る。
ここに至り、彼は自らの決断を撤回した。
「殿下の同行は叶いますか? 管理者として」
虚を突かれ、ラグナスは目を丸くした。
逡巡する少年にルフォールは勝ち色を見た。
「殿下が自ら抗弁されるのであれば」
歴史が軌道を変えるのは、そうした小さな思い付きに他ならない。
「ですが、中央大聖堂はバルチスタンでは」
「ランズクレストの北ですから、かなりの遠方になります」
あっけらかんとラグナスに応える。
「ですが、教理省の許諾が今日中に取れれば、先に段取りも叶うでしょう」
ルフォールが伝信器の所在を問う。城下には商工会の管理が一基のみだ。
「今から急げば間に合うか」
思案顔を見せ、ラグナスに一筆を促した。
「殿下の証言が必要だ、各所への詫びも草案があった方がよい、直筆で是非」
確約さえ叶えば改めて旅程の調整ができる。
話が纏まれば、後は形式の手続きだ。
予定の戴冠も婚姻も滞りなく行えるだろう。
ルフォールはラグナスにそう囁いた。
「私は馬の手配を」
一礼してルフォールが部屋を出る。
控える部下に指示を告げ、煩わしい気配に探りを入れた。
撒く段取りはできている。
喜びなさい、〈教授〉。
クスト・ルフォールは静かに笑った。
望むもの全て、この私がお届けしよう。