獣狩
再臨歴一九七七年、大陸北部
イズラエスト公国クレチアン領、南部大森林
遠目に冬鹿を目で見送って、深い山林の向こうを見遣る。
物欲しげな顔を改めつつ、ファルカは合流場所に脚を向けた。
人里近いこの場所で余計な狩りをする訳にはいかない。
跡を残すのも厳禁だ。
この先を猟夫に気取られてはならない。
ファルカと人獣が山野を渡って一年近くが経っていた。
安住はまだ望むべくもないが、新たな集落の目途はある。
ファルカがこうして人里との距離を測っているのはその為だ。
人里の猟場や拓き方は人語を解さねば調べようがない。
仲間内ではファルカの専業だ。
拠点を捨てた一団はカルマンカードを北に抜けイズラエストの南に入った。
エピーヌ連峰も東端に近く、道を選べば山越えも難しくない。
勿論、辺りは鬼獣の巣窟だ。人には到底、無理だろう。
ならばこそ、国家教会は追い切れない。
そも大森林が国境線だ。
各領国の境目は、こうした鬼獣の巣で分かたれる。
討伐と維持は釣り合いだ。国力に応じて国土は決まる。
辺境域にも人里はあるが、せいぜい鬼獣の縄張り外れに寄っている。
討伐隊の派兵がなければ人獣たちも十分に身を隠せた。
ただ、逃げ延びた実感はない。
問題は、人獣を支配し研究材料にしていた異端の魔術師たちだ。
俗世に見知らぬ技術からして異様な集団であるのは間違いない。
何より彼らの財力と組織力は想像もできない。
あれこそが人獣の敵、そしてラグナスの敵だ。
ファルカは延々山路を渡り、僅かに開けた高台を目指した。
白い毛並みの弟分が待っている筈だ。
ファルカはギギと呼んでいる。
人とは発声が異なるため、名は一方的なファルカの呼称だ。
思えば言葉も碌に通じない中、それなりに上手くはやれている。
ただし料理の振る舞い甲斐がない。味覚が素朴で生食が多いからだ。
その点はラグナスの無邪気な賞賛が懐かしくもあった。
さり気に辺りに目を配りつつ、ファルカは高台の斜面を登る。
合流位置は見晴らしで選んだ。ギギはファルカに気付いている筈だ。
匂いはある。気配もある。だが、この焦りは何だ。
脚を止めることなくファルカは自問した。
「ギギ、何処だ」
届く範囲に入って呼び遣る。
体臭こそが人獣の言語だ。そう思い出すも、伝えるものが分からない。
不意に背筋に怖気が走った。
辺りを見渡し、毛を逆立てる。
下生えに白い獣毛を見つけて駆けた。
「ギギ」
草場に突っ伏した人獣が白目を剥いて喘いでいる。
手を伸ばそうとした刹那、ファルカは呻いて仰け反った。
身体に氷柱を突き込まれたような衝撃に振り返る。
凡そで歪な人影が水母のように景色を撓めていた。
幽鬼だ。
よもやこんな昼日中、陽光に霊子が散りもせず障る幽鬼がある筈が。
呻いてファルカが頽れる。
揺らぐ半端な影の向こうに下生えを踏み分ける音を聞いた。
気づけばファルカは囲まれていた。
筒を幾つも向けられている。
繋いだ消音の包みの奥から蒸気釜の音と熱を感じる。
「なるほど人は抵抗も強い、改良の余地はあるようだ」
術者と思しき者を従え、痩せた鷲鼻の男がファルカを覗き込む。
「おまえ」
唸るファルカを男は制した。
「抗わぬよう、いま死なれてはヴォークト卿の依頼に反する」
ファルカは男の顔を見上げ、その無色に近い薄灰の眼を睨んだ。
クスト・ルフォール。
シュタインバルトでラグナスを聴取した異端審問官だ。
ラグナスと再会して以降、当時の記憶を反芻することも多かった。
この男の乗った馬車はファルカの眼前で渓谷に墜ちた筈だ。
ラグナスと一緒に。
男もそれに気づいたのか、眇めるように目を細くした。
「奇縁だな、君も私もどうやらシュタインバルトに魅入られたようだ」
クスト・ルフォールは配下に手を振り、ファルカとギギの拘束を促した。




