第4話
樹々を縫い、オベロンは身体を滑らせた。
月は雲って朧気だ。
木陰は闇と変わりがない。
延々と続く塀に至ると、オベロンは手頃な枝振りの樹に身体を隠した。
いつもの調子で鍔広帽子を頭に伏せる。
壁の向こうはルミナフの館だ。
憑代を抜け、自由になって擦り抜けた。
衛士の巡回はあるものの、霊の障壁はない。
シュタインバルトで経験した吸われるような暗闇は後にも先にもあれだけだ。
とは云え物理的な罠がある。
塀を内から探ってみるに、酷く剣呑な警備装置が仕込まれている様子だ。
侵入者の生死を問う気がまるでない。
もしくは、脱走者の生死か。
意識を芝に踏み出して、辺りを見渡した。
憑代を焦点にしていたせいか、意識もまだ人型に縛られている。
その分、力は集め易い。
だが索敵範囲は人並みだ。
敷地は広く建屋も大きい。
個別の工房と思しき別棟もあった。
幸い、シルベルト・クラウザが設けたような地下の石堂はなさそうだ。
勿論棟や炉の数は、此方の方が格段に上だが。
流石は大魔術師の工房だ。
ルミナフや息子は其方だろうか。
ダリル・カデットは何処にいる。
意識を伸ばすも工房の建屋はまだ遠い。
しかも気配が妙に紛れて判別が難しい。
辺りに舞うのは霊光か。
あるいはそれに似たものだ。
身体を失くした魂は、無為に想いを反芻して蠢く。それが揺らめく灯に見える。
その霊光には似ていても、在るのは人めく濁りを欠いた靄だ。
まるで規格の燈火を見るように、個性のない灯が点在している。
ダリル・カデットを捜すのは面倒だろう。
予めそう覚悟はしていた。
オベロンの『眼』には不都合もある。
人は人、物は物とだけ映る。
当たり前にも思えるが、捉えているのは星辰態だ。俗に魂が見えている。
生きた肢体は星辰態の袋だ。
その輪郭は地上の見目にほぼ等しい。
だが、ダリル・カデットは恐らく人外だ。
それも絡繰りの類だろう。
人の匂いがしなかった。そんなファルカの見立ては正しい。
彼の感覚は信用に足る。
むしろ獣の知覚があって、オベロンの認識は補完されているほどだ。
少年はライン・ルミナフの手による何かだ。
事実、大魔術師の専科は多岐に渡る。
魔導工学を筆頭に、霊子工学、錬金化学。
表の顔は最先端だが、異端を問わずに領域を疑えば様相が変わる。
魔導機や人造生命。それは人智の外にある。
精緻な技巧も問われるだろう。
故郷で消えた職人にも繋がる。
発端となった少年の顔は、ガスパール・サンクが関係している筈だ。
そうした類推に足る素材があればオベロンは常識を考慮しなかった。
奇異でも答えと仮定する。
自身がそうした存在だからだ。
悠然と庭園を横切りながら、オベロンは屋敷に向かって意識を拡げた。
時刻としては就寝の間際だ。
魔術師の類には僅少だが、彼らにも規則正しい生活習慣は在り得るだろうか。
階下に使用人と思しき人影があった。
個室に居るのは娘のマリエルか。
離れの茶室にも二人いる。
アデル夫人と女性がもうひとり。
歳は違うが似通っている。
血縁、恐らく姉妹だろう。
妙にざわつく違和感は、いずれも毛並みが歪なせいだ。混じっている。
ファルカほどではないにせよ。
オベロンは何気に脚を向けた。
異端といえばもうひとつ、大魔術師には噂があった。古代工学の探求だ。
所謂、異端の間際の学問だ。
権威を嫉んだ醜聞かも知れない。
リリウム・ファリア伯に聞く創世史学信奉のような与太話だろう。
それでも疑うには十分だった。
建屋の二階に吸い上がり、壁を透り越す。
オベロンは二人が籠る茶室を覗き見た。
「なぜダリルにだけ服従条理なんてものを」
夫人の妹が荒れている。
机上にあるのは酒瓶だ。
「あれじゃただの人形だ」
普段見掛けぬ高い酒を水のように空ける。
「最後の罪深きものだもの人格制御は必要よ」
それは夫人も同様だった。酒杯が軽い。
「十二体目の基幹は奉神条理だ、矛盾を起こすのは目に見えてる」
酒席はオベロンの慣れたネタ元だ。人の思考が緩く、言葉の不整合が捉え易い。
とは云えオベロンも頭の奥は覗き込めない。
ましてや二人の共通言語は意味不明だ。
霊子工学かと思いきや神代聖典も窺える。
カルマンカードの聖堂地下以来、多少の知識は蓄えたつもりでいた。
その筈だったが、どうやらそれはオベロンの思い上がりだったようだ。
「要は人に近付いたって事でしょ」
杯を掲げたアデル夫人が溜息を吐く。
「いい機会だから貴方も子育てをしてみたら? きっと似たようなものだから」
オベロンは辺りを見渡した。
ただの茶室だ。二人の会話を補完する資料が何もない。
罪深きものとは一体何だ。
「姉さんマリエルを育てた自覚があったんだ」
「何なら貴方も私が育てたのよ、ミリア」
ざわりと撫でる怖気に凍る。
オベロンは慌てて辺りを探った。
視線は感じるが発する意識が見当たらない。
「いずれにしても服従条理はディオの発案、逆らえない」
「ちゃんと会うのは事故以来だけれど、あの子、あんなだった?」
光学の視覚は茶室の壁を抜けない。
オベロンは知覚を替え拡げる。
音にようやくそれを捉えた。
何かがこちらを目指している。
人でもない何かがオベロンを視ている。
扉の錠が割れ跳んだ。
折れた把手を手に少年が茶室を覗き込む。
「ダリル」
二人が揃って声を上げた。
「そこにいるのは誰?」
ダリル・カデットが宙に問う。
眼は真っ直ぐにオベロンを見つめていた。




