第1話
臨歴一九七五年、大陸中央
バルチスタン公国東山岳地帯、某所
「三四号、頭具の整備が終わったぞ」
透けた指先が小窓を差した。
亡霊めいたラピスの影には備えた隔壁も意味はない。
単なる無線霊信器の投影だ。
頷き部屋を横切る彼も、今では恐らく意味がない。
三四号には藁の小屋も同じだ。
対してラピスの妖精眼は手渡す膂力もない。
星辰界を介する触肢は繊細だ。
彼の手に、頬に触れても目には見えない。
微細な神経索の一筋だけだ。
「いい加減、名前で呼んでくれないか」
彼は頭具を手に取って、向かい合わせに朱い眼の覆いを覗き込んだ。
かの神像にも似た過剰な意匠は技師のガスパールに依るものだ。
「自分でも誰だか忘れてしまいそうだ」
「できればそうしろ」
ラピスは零した。
三四号の再生は今この瞬間の記憶に及ぶ。
投薬暗示は言うに及ばず、記憶領域の物理切除も全く意味を為さない。
彼は永遠に苦痛を手放せない。
忘却さえも許されなかった。
今の三四号は制御下にない。
それを知られる訳にはいかなかった。
こと父とラピスの失墜を窺うガフ・ヴォークトの挙動が鬱陶しい。
故に三四号の術式記録には、ほんの少しだけ誤謬が残されていた。
記憶の復元は削除され、表層の暗示で事足りる旨が記述されている。
「何処が変わった?」
三四号が訊ねる。
彼は律儀にラピスに向かい合う。
何処を向いても認識できる、なのに何度言っても眼を合わせようとする。
実年齢はもう十二だ。
ラピスの見目はそれより幼い。
子供の姿に惑わされているに違いない。
「安定剤の補充と拡張肢の追加」
ラピスは務めて淡々と告げた。
「あと安全装置、頭の中で弾ける小さな爆弾」
「誰にとっての安全装置だ」
呆れたようにラピスに問う。
「『お披露目』にはそれが必要だとガフ・ヴォークトが推したからな」
三四号の最終検証は〈黒司教〉と〈修道女〉も照覧の予定だ。
二人揃った名を見ただけで施設内に針を呑んだような緊張が可視化した。
大物だ。
「手続きのようなものだ」
ラピスは応えた。
「と、〈教授〉は言っている」
父は全てを彼に注いだ。この先はない。神像の代替品もない。
故に神化生物三五号は下賜される予定だ。
だが、あのガフ・ヴォークトが二番煎じを有難がる筈もないだろう。
皆、知らないのだ。
〈教授〉の技術が無二なのではない。
この被験体こそ無二だ。
三四号が頭具を着ける。
面を下ろして顎当てを嚙み合わせる。
接続のたび神経棘が皮膚を貫く。首筋に血が零れる仕様は変わらない。
本来は情報接続のための専用装備だ。
兜としてはそれほどの意味もない。
だがその意匠、牙を剥く朱い眼の髑髏は今や悪夢の象徴だった。
鬼獣の処理、不良個体の破壊、もはやそれでは訓練にさえならない。
彼は全てに忌まれている。
「まだ薬は使わないで」
勿体ない、とラピスは制した。
過酷な任務は薬で凌いでいる。目的条項だけを残して一種の譫妄状態を作る。
それも耐性がついていた。
彼が血塗れの手を硬く握る時は、既に意識が醒めている証左だ。
いっそ狂気に堕ちたなら。
彼にはそれも許されない。
「『お披露目』が終われば少しは落ち着く、試験も機能拡張が主になる」
気休めだ。
「生殖機能の実証とかな」
三四号が仮面の下を顰めたのが分かる。
「増殖も仕様だ、そのうち人と同様に生殖衝動は抑えられなくなる」
思わず頭具を引き抜いて彼はラピスの影の前に身を屈めた。
「冗談だろう?」
驚異的な自己再生で見る間に人の顔が蘇る。
途方に暮れた困り顔だ。
知らずラピスは気をよくした。
「まずは雌の喰人鬼だな、人だと中毒で死んでしまうからな」
三四号が馬鹿げた理由で反乱を決意する寸前、ラピスは肩を竦めた。
「でも、まあ先に外部の拡張を試すか」
胸を撫で下ろす彼を横目に、何故かラピスの鼓動が上を向いた。
壁に図式を映して見せる。
機動、攪乱、索敵を担う三体の生体兵装だ。
星辰態を介して同調し、個体ではあるが手足に等しい。
同等の再生能力と強靭さ、戦闘時の拡張。
頭具に備えた拡張肢を通じ、並列して五感を共有する事も可能だ。
三四号の細胞は意識不在の培養ができない。ラピスでさえ移植には苦心した。
まず星辰態の接続を維持した神経索を。
彼の表情に気付いて喉を詰め、ラピスはそのまま口を噤んだ。
「〈教授〉の講義を聞いているようだ」
その感想が無意識なら、少し複雑だ。彼は俗世の関係性を知らない。
「馬と狼、それに鷹か」
三四号はふむ、と微笑んだ。
「じゃあ名前を付けよう」
「やめろ」
情動の揺らぐラピスに気をよくしたのか、彼は調子に乗っている。
「馬はサイク、狼はベナレス、鷹はファーンなんてどうかな」
「やめろって言ったのに」
ラピスは口を尖らせた。
繕うラピスの表情は子供のように不機嫌だ。
それが余計に悔しくもある。
ただ、そうしたひと時の片隅に、破滅の予感は確かにあった。




