後編
その刹那。
「やれ、客が来た」
エチカが年寄りめいた仕草で顔を顰めた。
焚火の外に向かって目を眇める。
「偽界ノ門だ」
オベロンがのそりと身を起こし、鍔広帽子を頭に抑えて立ち上がった。
「遺跡に紛れて置いたのだろうな、鬼獣を山ほど吐いておる」
うへえ、とザビーネが口許を歪めて見せる。
「寝床を毒で汚されるのは嫌」
ぼやく黄金の眼を見遣り、ラピスは焚火の向こうを眺めて肩を竦めて見せた。
「確かに包囲は面倒ね、エチカ、縁を抑えて」
「人使いが荒い」
エチカが口を尖らせる。
「人じゃないでしょう」
応えて笑った口許だけを残し、エチカの姿が目の前から掻き消えた。
「ねえ猿鬼に聴かせるつもりかい?」
オベロンの呆れた声を辿って見るとダリルが六弦琴を背に掛けようとしている。
「鬼獣なら文句を言わずに聴いてくれるかも」
「そうかい、せいぜい頑張りなさい」
オベロンは溜息混じりの言葉を投げた。
二人も闇に駆けて行く。
「クロエ、デボラ、お楽しみはそこまでだ」
ザビーネが腰を上げる。
背にした鉄馬車に声を投げた。
「そうですね、懸架の負荷はもう十分です」
金属質の声が応えた。
鉄の車両のそのものが相乗り調子でそう零す。
「今後も車外で楽しまれては如何です?」
人の溜息を真似て草場に排蒸気を噴いた。
「生意気」
客車を飛び降りクロエは馬車に言い捨てた。
素早くも何処か気怠気に剣を取る。
鎧の絞る艶やかな肢体は、まるで蛇を思わせた。
「私はそこの熊と違って上品なのが好みなの」
露骨な言葉を車両に投げる。
「やっと私の番なのに」
開けた胸元をぐいぐいと窮屈そうに絞りつつデボラが上気した頬を覗かせた。
言葉少なく不満気だ。
ぶ厚い肢体に有色の色香が匂い立っている。
「続きは外でも構わないけれど」
見目より機敏に客車を降りる。
「貴方、もう少し眷属に慎むよう言って」
「あいつら、ラピスの使用人でしょうに」
碧と黄金の眼が互いに呆れた視線を交わす。
ザビーネが息を吐き、肩を竦めた。
頭を振ってクロエとデボラを呼び寄せる。
「あんたらファルカを絞り粕にする気?」
二人は素直に項垂れつつも、目線をザビーネから宙に逸らして唇を尖らせる。
疼く身体を棚に上げたのを見透かされ、ザビーネは苛々と言葉を投げつけた。
「いざって時に役立たずだったらどうすンの」
「それって飯の支度じゃないよな」
陽気な声が問い返した。
車の縁に手を掛け、ひらりと降りる。
無骨な籠手は朱の色をしていた。
長い襟布を頸に巻きつ轅の先を覗き込む。
繋いだ馬は一頭だけだ。
ラピスが手を振り膝の兜を掲げて見せた。
「やれ、我が王は働き者だな」
ファルカが言って破顔する。
鉄馬車の中から似た兜を取った。
頭を収め、顎当てを$5699み合わせる。
「それじゃあ、先に露払いと行くか」
朱い眼に炎が射した。
野天の縁を黒々と縁取る高い樹々の上。
ラピスの半身ほどある鷲が星を割って飛ぶ。
続くのは赤い鬣の白馬が一騎。
馬上の騎士の背中には棚引く襟布がある。
まるで緋色の翼のようだ。
立ち上がり、ラピスが兜を頭上に掲げた。
焚火を跳び越え、風が兜を攫って行った。
馬上の騎士が兜を被る。
髑髏の面を伏せ牙の顎当てを噛み合わせる。
朱い双眸が辺りを見渡した。
原野は鬼獣で溢れていた。
包囲を試みた両翼は既に潰えている。
幽鬼の如く人影が舞う。
朱衣の幼女と鍔広帽子の男だ。
人の眼に見えぬ腕を振るい手繰り寄せた風の津波で鬼獣を嵐のように翻弄する。
傍には少年の姿もあった。
優に身の丈を越える敵を掴まえ、捩じり、投げ捨てる。
正面に三人の剣士が舞う。
目も奪われるばかりに隙がなく、残忍だ。
それぞれ異なる刃を闇に閃かせ、鬼獣の毒の血飛沫を容赦なく空に噴き上げる。
路を拓く朱い拳は眼前の全てを打ち砕いた。
大狼を人鬼を喰人鬼を砕いて地に伏せる。
殴り払った鬼獣の向こうに、駆けて蹴散らす一騎を見遣る。
疾駆に気付いて仮面を上げた。
拳を掲げて行先を示す。
騎士が応えて馬を駆る。
森と遺構の迷庭の先には、切り落とされた断崖があった。
今はまだ色濃い闇の中にある。
その海原に張り出す手前、苔生す遺構の只中に目指す巨大な石碑を見つけた。
装飾の内に闇よりなお濃く黒色が淀む。
偽界ノ門が鬼獣を吐いていた。
白馬が鬼獣を割って駆ける。
敵の頭の上に巨人の腕が生え伸びていた。
勢いのままに騎士が跳んだ。
宙を切り裂く軌跡を捻じる。
回る、回る、なお激しさを増す。
碑の暗がりから突き出た頭に騎士の蹴撃が突き刺さった。
瓜の如く砕けて爆ぜる。
なお血飛沫を突き破る。
圧して石碑を折り砕いた。
宙に転じて舞い散る砂礫に降り立った。
後続を欠いた鬼獣に動揺が走る。
仮面の朱い眼の先に絶望が伝播して行った。
暫しの後に、夜が明けた。
最後の悲鳴が血泥に消えると、陽が射した。
海風の吹く断崖に朽ちた遺構を照らし出し、陽は殺伐の原野を白く染めて行く。
風音、砕ける波の音。
争いの後には静寂にも等しかった。
鬼獣の屍を踏み越えて騎士が行く。
戦いを終えた皆が集まる。
そぞろ並んで陽に目を細くする。
騎士は兜を引き抜いて海風に頬を晒した。
風に髪を弄られながら海原の先を眺め遣る。
「朝飯にするか、もうひと眠りするか」
朱い拳が騎士の肩を抱えた。
「どうする、ラグナス」
ラグナスは神妙な顔をして見せる。
「食事にしよう」
悪戯っぽく目を細めた。
「でも、隠し味はなしだ」
仲間の声を擽った気に、ラグナス・フォルゴーンは笑って応えた。