第1話
再臨歴一九六八年、大陸中央
カルマンカード公国オージェ領
霊光程度は墓地で見た。
よもや自分が幽鬼とは。
肩を竦めてオベロンは笑った。
まるで他人事のようだった。
死という区切りを踏み越えてしまったせいか、妙に時間の感覚が緩い。
ただ、彼の場合は生来だ。
呑気が既に度を越している。
だが知性と適応力には秀でていた。
この身でも集中すれば物を動かせた。壁も炎も移動するのに支障がない。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。
食事も摂らないのに味覚まで残っている。
亡霊も便利だ。
便利なのだが、根無し草だ。
人は死ねば魂が星辰界を彷徨う。
やがては天界の門に至り御柱に選別を受けるのが聖典の通例だ。
だがオベロンは未だ地上にいる。
天界の門の道筋も分からない。
亡霊には違いないが、幽鬼と呼ぶにもオベロンは異なっている様子だ。
人に憑く事も、そうした欲求もない。
星辰態。
地上と星辰界を跨ぐものをそう呼ぶらしい。
そうした事にガスパールは妙に博識だった。
ただ、今が自由であるとも言い難い。
このままオベロンが動ける範囲は三〇町ほど。
小都市ほどの範囲に限られていた。
どうやら身体が楔になっている。
それは疾うに変質していた。
乾いた松脂のように硬くなり、ガスパールの鑿でも傷ひとつ付けられない。
何の病か原因は不明だ。
牢で盛られた毒のせいかも知れない。
他に思い当たるとするならば。
まるでユミナの囁いた蛹のようだ。
とまれガスパールとは筆談ができた。
鉄でできたような愛想のない爺だが当初はようやく彼の動揺を見て胸が空いた。
それで亡霊の元は取れた気がする。
我ながら安いが。
最初はそれも愉快だったがガスパールの職人魂はじき生来の好奇心に囚われた。
動力も制御もオベロン自身がが賄えるのを幸いに、勝手に身体を誂え始めた。
人と遜色なく動く精密な全身鎧だ。
伽藍洞の鎧の中には、空気を震わせ声を出す仕組みまで入れる凝りようだった。
遂にはオベロンの死面まで作り始める。
完全に面白がっている。
とは云え、このままの状態ではオベロンに約束の地など望むべくもない。
漸く向かい合おうと腰を上げた。
オベロンは公式には獄中死している。
だが脱獄の噂もあるらしい。
司祭の娘を惨殺した男が今も森を彷徨っているそうだ。
いずれこの身では無実の証は難しい。
立てたところで祓魔師を呼ばれるのがせいぜいだろう。何せ相手が司祭だ。
出来るのは、ただ真実を知る事だけだ。
それでもいいか、とオベロンは思う。
どうせ今では眠る事も儘ならない。
秘所を覗き見る時間はたっぷりあった。
意識を薄く平らにすれば、オベロンも辛うじて夢に似た幻を見る事ができる。
ユミルのそれは残酷で甘美だ。
あの狂態。
オベロン自身がこうして在る事も、何らかが彼女と糸を結べそうな気がする。
そもユミル・クラウザとは何者か。
深窓に飾られた司祭の娘は出自が曖昧だ。
二年も世話したオベロンでさえ、彼女について知り得た履歴はほとんどない。
辿るならば父親だ。
シルベルト・クラウザは、十年ほど前に赴任して来た中央大聖堂の司祭だ。
オージェ領の大聖堂は、カルマンカードでも有数の規模の教区を統べている。
司祭にはそれだけの経歴があった。
自身が典位に届くほどの魔術師で、聖都に顔の利く有力者との噂だった。
だが、狂乱の夜に司祭は顔を失った。
今では傷跡を隠す面を着けている。
その鉄面もガスパールの作だ。
使いを命じていたオベロンがこうなって司祭が自ら工房に足を運ぶ事もあった。
ただ、それも幾度かの事。
今では大聖堂の奥に引き籠っている。
司祭の私室はオベロンも入った事がない。
恐らく誰もだ。
今なら侵入は容易いが、問題があった。
オベロンには距離が足りない。
ガスパールの工房に身体を隠していては、大聖堂まで三〇町を越えてしまう。
活動範囲を拡げる為、いよいよオベロンは外に出ねばならなくなった。
二重底の馬車を誂えた。
内からしか開かぬ棺桶を隠して街に移動し、それを拠点に方々に出掛けた。
鎧を操る訓練。
発声の練習。
どうにか酔っ払いには見えるようになった。
亡霊は盗み見に便利だが、対話ができない。
話を聞くなり誘導するなりに身体が必要だ。
オベロンは街の酒場に紛れ込み、練習がてらにその姿で情報収集を続けた。
会話の糸口に仕入れたネタを使ううち、何故か失せもの探しで名が売れた。
人の会話はすれ違いだ。
こっそり拾って渡せば驚かれる。
そうして気も熟した頃合いを見て、オベロンは漸くに大聖堂を目指した。
ガスパールにいつもの調子で出発を告げた。
気負いはなかった。
今生の別れなど、思いもしなかった。




