第1話
再臨歴一九六七年、大陸北部
イズラエスト公国コッペリオ領、南部山林
岩場を潜った水溜まりに屈む。
ひねた十四の顔を見る。
頸に掛けた翼章を外し、水に浸して波紋で消した。くすんだ銀色は変わらない。
鬼獣の毒はなさそうだ。
水気を切って掛け直し、水袋を拡げた。
ペレグリンは三つで修道院に拾われた。
だが翼章は信心よりも実利が優る。
御使いの翼を模るこの聖具もペレグリンにとっては鬼獣毒の検知器に過ぎない。
野天の暮らしは鬼獣とその毒が付き纏う。
ペレグリン自身は当たった事などないが、親爺はやたらと神経質だった。
綺麗な湧き水でさえ確かめろと煩い。
高価な翼章なら時間を掛けて浄化もできる。
資質と信心があれば聖職者にもなれる。
浄化師の手はいつも足りない。
本来、鬼獣の狩りは浄化師の随が必須だ。
親爺は彼らを連れて行かない。
ペレグリンだけを連れて行く。
疑似餌としてだ。
コラン・オランドは元は猟夫だった。
家名を持つほど腕は良かったらしい。
公国公認の鬼獣討員になったものの、以前に増して親爺は偏屈になった。
ペレグリンを引き取って以来、家で寝た日の方が少ない。
猟に出る日がほとんどだ。
その際、ペレグリンは餌になる。
鬼獣を引き付け誘導するのが役回りだ。
狩猟の器量が上がらなければ、今でも餌役のままだったに違いない。
今では群を抜いて素早しこい。
おかげで仲間内に隼と呼ばれている。
それまでは「おい」と「ガキ」だった。
親爺からしてそう呼び捨てていた。
名は済し崩しだが、得たものもある。
料理の腕だ。
鬼獣毒には気を遣う癖に、親爺は大の料理下手だった。
食えれば何でもいい気でいる。
小さな頃に喰わされたのは、およそ食事と呼べない代物だ。
思い出したくもない。
ただ腹が減っていたから何でも美味かった。
ペレグリンは膨れた水袋を絞めた。
背負いつ水を辿って岩場を見上げる。
あれが自分のひとつ目の名だ。
三つほどの頃らしい。
勿論何も覚えていない。
コッペリオ南部の深い山林で、公国の討伐隊が壊滅寸前にまで追い込まれた。
相手は小鬼でも喰人鬼でもない。
大狼や雪狼といった類でもいない。
そも、既知の鬼獣ではなかった。
人獣だ。
後の噂に依るならば、異端の魔術師が手掛け人造物らしい。
それが繁殖したと云う。
案内に請われた猟夫も大勢が死んだ。
生き残った一人は片方の眼を失った。
それがコラン・オランドだ。
親爺は血と泥に塗れて人獣に食らい付いた。
その折だ。人獣の抱えた包みが滝に落ちた。
急流を滑り、幾つもの落流を転がった。
解けた布から転び出たのは人の赤子だった。
近隣の集落から攫われたのだろう。
奇跡的に生きていた。
拾われた赤子は修道院に預けられた。
出自に因んで滝の子と呼ばれた。
誰も身内はいなかった。
親爺がその子を引き取る前までは。
コラン・オランドは独り身で、腕こそ良いが評判は悪い。
よくて最悪だ。
こと件の討伐以来、生活は荒れている。
密猟は勿論、異端の取り引きの噂もあった。
教会に入山を禁じられた一帯にさえ幾度となく越境を繰り返して獲物を狩った。
カスケードを引き取ると言い出した際は、当然周囲も反対した。
むしろ正気を疑われた。
それでも当時はまだ信頼もあって、腕を惜しんだ仲間が後ろ盾になったらしい。
更生の切っ掛けになれば、と願ったそうだ。
引き取られた方は堪ったものではない。
人を人とも思わぬクソ親爺の下で生き延びるのが、どれほどの事か。
「跡を見つけた、早く来い」
苛立たし気な声が呼んだ。
ペレグリンは舌打ちで応えた。
眼は片側だけだが耳は現役だ。
聞こえないよう気を付けている。
辺りを気遣い、ペレグリンは足早に戻った。
そも一帯が管理地だ。人の行き来もあるにはあるが、厳格に制限されている。
鬼獣討伐の資格を楯に、親爺は未だ無法を繰り返している。
人獣を諦めていないのだ。
「水などいいから、これを追え」
足許を指してペレグリンに命じる。
まるで猟犬扱いだ。
疑似餌よりかは幾分ましだが。
「親爺、人だぞ」
跡を見るまでもなかった。
猟に用いる類ではないが、これは靴底だ。
それも歩調に気遣いがない。
どうやら近くに居住地がある。
「構わないから行け」
肩を竦めて頷いた。
「気づかれるなよ、ファルカパッド」
それが三つ目に付いた名だ。
隼ほどの事はない。
地べたを逃げ回るのがせいぜいだ。
親爺は彼を歩く隼と呼んだ。




