第5話
「僕は、君まで喪ったのか」
仮面の下に血を流し、ラグナスの首は地に垂れた。
知らず痛みも怒りも失せたが、四肢は力を喪って行く。
身を裂くように背を遡るのは血か嘔吐か。もう、それさえも分からない。
一度は全てを喪った。
信じる友と最愛の人、そして自分自身の過去だ。
それでも死を喰み生き存えたのは、ただ救いたい人の為だった。
なのに、未だに叶わない。
縋る思い出も抉って消えた。
愛した人さえ守れなかった。
友の人生を奪ってしまった。
自分のせいだ。全て自身の身の呪いだ。
身体の傷も魂の餓えも、この情動ほどには痛くはなかった。
絶望に神像が呼応した。冥界が魂を喰むのが分かった。
いつかの声がラグナスを呼ぶ。
ラグナスは慟哭に身を震わせた。
否。
説く声に囁く。
再び歯を食い縛る。
御使いよ。御柱よ。冥界の王よ。
例え至高の声であれ、自分にそれは許されない。
独りでも。独りであっても、棄てては行けない。
両足を踏み締める。焼けた鉄串が折れて血を噴いた。
膝を堪えて背を立てる。
顔を上げ、鏡のような仮面の男を正面に見据えた。
友ならば。友であった者ならば、僕はこの手で止めねばならない。
ラグナスは拳に力を込めた。
二人に生前の接点はない。あったところで数日だ。まるで考慮に値しない。
そもガフ・ヴォークトには関心がなかった。
人の繋がりなど知れたものだ。
ギルーク・メッサーラの失態が明かされ、残った頭部に三四号の記録を見た。
ただその事実だけにガフ・ヴォークトは狂喜した。
待ち望んだ最高の舞台だ。
クスト・ルフォールの仕立ては高いが、こうして存分に効果を発揮した。
削り尽くした三四号を三五号が手ずから滅し、計画完遂を知らしめる。
二人の関係など小さな余禄だ。
だが、絶望は華になる。
妖精眼を介して見守る無数の目の清涼剤となるもよし。
こと若者の慟哭は〈修道女〉の好みに合うだろう。
馬上に置いた眼が告げる。
『斃せ、三五号』
三五号の朱く厚い籠手がラグナスの拳を受け止めた。
退って手を振り顔を顰める。
砂上に落とした兜を拾い、ラグナスに向かって突き出して見せた。
「さあ、勝負といこうフォルゴーン」
変わらぬ声、皮肉めいた口調、かつて見た顔でそう告げる。
「どちらが先に潰れるか」
ファルカは肩を竦めて笑って見せた。
「おっと、この身体じゃもう酔えないか」
『三五号、何をしている』
ガフ・ヴォークトの割れた声が困惑を押し隠す。
三五号に意思こそあるが、それは制御の内にある。
無駄口を叩く筈がない。
「アンタとはもう沢山だ、とっくに酔いは覚めちまった」
背中の烏に一瞥を投げてファルカが詰った。
「兄弟の血でな」
馬鹿な、と烏は動かない。
「最後の試験はきつ過ぎた、お前の洗脳はとんだ手抜きだよ」
配した彼の眼の先でガフ・ヴォークトは茫然と竦んでいた。
なおも震える拳を掲げるラグナスを見遣り、ファルカは静かに歩み寄る。
「すまなかったな、フォルゴーン」
ラグナスの肩に手を置き、震える手を取り強く握る。
「勝手にアンタの痛みを知った気になっていたんだ、オレは」
声が出ない。
血にごろごろと鳴る音にラグナスは辛うじて言葉を乗せた。
「ファルカ、僕は」
「約束を覚えているか、ラグナス」
言葉を遮り、ファルカは自身の兜に目を落とした。
「共に戦おう、ラグナス・フォルゴーン」
子供のように照れた笑み。
それを押し隠すように兜を被った。
顎当てを噛み合わせ、面を伏せる。
「オマエの隣に、オレが立つ」
『聞け、ヴォークト』
残った最後の眼を見上げ、三五号は声を上げた。
背中を合わせた三四号がガフ・ヴォークトに向かって朱い眼の一瞥を投げる。
『必ずオマエを、オマエらを冥界の底に送ってやる』
鉄弓の騎馬は残らず伏した。
その屍の只中に立ち、三五号はガフ・ヴォークトに矢を放った。
途絶えた画面を呆然と見つめ、ガフ・ヴォークトは立ち尽くした。
周囲に拡げた回線が失笑と共に閉じて行く。
『結果はどうあれ経費の処理をお願いしますよ、ヴォークト卿』
クスト・ルフォールの声だけが残った。
『私自身はよい成果を得た、その点だけは感謝します』
そして全てが途絶えて消えた。
何故だ。どうして、こうなった。
三五号は制御下にあった。自我が残っている筈がない。
術式通りの施術を成した。その工程に瑕疵はなかった。
施術に、瑕疵はなかった。
不意に焦って記録を辿る。
汗に霞んで記述が追えず、ひと声呻いて投げ捨てた。
妖精眼を霊導繊維に向ける。
放置していた監視網を手繰り、ファリアの屋敷を意識下に置いた。
接続の間を長々と堪え、苛立ちに机上を幾度も払った。
『久しいな、ガフ・ヴォークト』
ラピス・ファリアの容姿は、まだ幼かった。
実年齢は十七、八の筈だが記憶と大差のない見目だ。
目には黒布を巻いている。
「思考抑制の術式は確かなのか」
まるで前後のない問いにラピスが鼻白む。
『いきなり無粋な事だ』
「術式に瑕疵はないのだろうな」
叫びを辛うじて呑み下し、ガフ・ヴォークトは苛々と言い換える。
『三五号の処置についてか』
頷き、違和感に眉根を寄せる。
『勿論、瑕疵などない』
ラピスは小馬鹿にしたように告げた。
『但し暗示薬の受容体を拡張するだけの事だ、何せ三四号の仕様だからな』
思考の止まったガフ・ヴォークトに向けて、ラピスは初めて微笑んだ。
『暗示を解くほどの刺激だなんて、酷い仕打ちをしたものだ』
気付いてガフ・ヴォークトが息を呑む。
ファリアは子細を知らない筈だ。
件の〈教授〉の失脚以来、不干渉案件として情報は隔絶されている。
『師を越えるなどと大口を吐いて、施す術は真似事ばかり』
ラピスが嗤う。
あまりの怒りが喉を詰め声が出ない。
しかも何故、この状況を知り得たのか。
『見ていたからだよ、ガフ・ヴォークト』
ラピスが言って手を伸ばし、顔を覆った布を解く。
蒼い双眸がガフ・ヴォークトを見つめ返した。
『おまえが持って行ったのは、ただの私の眼のひとつに過ぎない』
不意にガフ・ヴォークトの視界が闇に落ちた。
巨大なラピスの蒼い眼が、ひとつ、ふたつと増えて行く。
眼だ。妖精眼がラピスに制御されている。恐らく、今までもずっと。
ガフ・ヴォークトの周囲を碧い眼が埋め尽くした。
悲鳴に喉を膨らませ、ガフ・ヴォークトは眼窩に指を捻じ込んだ。
魔女の笑い声を聞きながら水晶体を抉り出す。
掠れた悲鳴を上げながらガフ・ヴォークトは助けを求めて部屋這い出た。




