(記憶濾過装置)
目が覚めた時、俺はまだあのビルの中にいた。
時間の感覚が曖昧だった。スマホの画面は濡れて曇っていて、タッチも反応しない。
何より、あの地下三階にいたはずなのに、気づけば別の場所に立っていた。
見覚えのない廊下。まっすぐに伸びるその先には、いくつもの扉が並んでいた。
どれも、少しずつ開いている。まるで、俺が来るのを待っていたように。
床はまだ濡れていた。歩くたびに水音がする。
水の上に立っているような感覚。
不自然なのは、足元を濡らす液体が、一滴も広がらず、その場にとどまっていることだった。
俺は廊下の右手、最も開きかけた扉を選んだ。
引き戸のように横にずれた扉の向こうは、完全に密室だった。
そして、そこには古い映写機と、一脚の椅子が置かれていた。
部屋に入った瞬間、映写機が勝手に動き出した。
誰もいないのに、テープもないのに、壁には光が映る。
再生されたのは、俺の知らない風景だった。
小さな部屋。ベッドに誰かが眠っている。
その横で、もうひとりがずっと、こちらに背を向けたまま立っている。
声が聞こえる。耳元で誰かが囁くように。
おぼえてる
おぼえてるんでしょ
映像の中で、立っていた人物が振り向いた。
俺だった。
見たことのない服を着て、泣いていた。
映写機が止まる。光も、音も消える。
扉が再び開き、廊下に戻るよう促される。
出ようとすると、足元の水が冷たくなった。
冷たい、というより、痛い。
もう一つの扉が、音もなく開いていた。
その部屋からは、水ではなく、土の匂いが漂っていた。