《沈む階》
エレベーターは音もなく沈んでいった。
階数表示は「B1」から「B2」へ、そして見たことのない表示に変わった。
B3。
地下三階なんて、このビルには存在しない。
少なくとも、設計図の上では。
俺は混乱しながらも、なぜか体が動かなかった。ボタンも押していない。開閉の操作すらしていない。
ただ、閉じた扉の中で、自分が“運ばれていることだけが明確だった**。
やがて、ゆっくりとエレベーターが停止し、金属のこすれる音とともに扉が開いた。
何も、見えなかった。
完全な暗闇。
だが、それでも「何かがいる」気配があった。音はない。風もない。ただ、確かに気配だけがある。
不意に、足元にぬるりとした感触があった。
反射的に足を引くと、靴底が濡れていた。
床に目を凝らすと、うっすらと光る液体が、まるでビルの静脈のように、床を這っている。
水じゃない。もっと重い。ぬるりとしていて、どこか温かい。
俺は、喉の奥に酸っぱいものを感じながら、それが濁った記憶のような質感に思えてならなかった。
床の中央に、何かが置かれているのが見えた。
古びた紙束。手書きのファイル。防水処理もされていない、濡れ切った書類。
近づくと、それは「ビルの事故記録」のようだった。
しかしその表紙には、誰かの手で上書きされたようにこう書かれていた。
『ここから先は降りるな』
そのとき、背後でまた「チン…」という乾いたベルの音が鳴った。
振り返ると、誰もいないはずのエレベーターの中に、人影があった。
明らかにこちらを見ていた。
男か女かもわからない。シルエットだけが、照明のない空間で、静かに首を傾けていた。
俺が一歩下がると、それも一歩前に出た。
まるで、自分の記憶の中から誰かが現れたように。
次の瞬間、照明もついていないはずのフロアに、不自然な光が走った。
濡れた床が反射し、まるで水面のように揺れている。
そこに、もうひとつの扉があった。
エレベーターではない、壁に埋め込まれた鉄の重いドア。
その取っ手に、濡れた手の跡が残っていた。




