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《濡れたボタン》

 そのエレベーターは、動いていないはずだった。


 少なくとも、公式には。


 老朽化が進んだビルだった。築50年を超えているのに取り壊しの予定もなく、管理会社が書類上だけの維持を続けている。出入りは制限されており、使用者はゼロ。にもかかわらず、ビル内部の電源はなぜか完全には落とされていなかった。


 俺は都市再開発の調査員として、その建物の現状確認と内部撮影を担当していた。

 気乗りはしなかったが、報酬が割高だったのと、「昼間に一人で数時間だけ入ればいい」と言われたのが決め手だった。


 曇り空の午後、薄く錆びた自動ドアを押し開けて、俺はビルに入った。


 中は驚くほど静かだった。

 いや、静かすぎたと言ったほうが正確だ。風の通り道もなく、空気の流れすら感じられない。埃っぽさに加えて、どこか生温い湿気が皮膚に張り付いてくる。


 1階のエレベーターホールにたどり着いたとき、俺は一瞬、目を疑った。


 ランプが、点いていた。


「……は?」


 俺は足を止め、携帯を取り出して確認する。電源が切られているはずのエレベーターの階数表示が、赤い「5」を示していた。


 しかも、かすかに機械の動作音が聞こえる。ウィーン……という、古びた昇降音。

 その直後、カツンという金属音と共に、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。


 誰も乗っていない。


 中は暗く、床はうっすら濡れているように見えた。

 いや、それよりも、俺が視線をそらせなかったのは操作盤のボタンが濡れていたことだ。


 まるで、さっきまで誰かが、濡れた指で押していたかのように。

 一つ一つのボタンが、しっとりと曇り、わずかに水滴が光っている。


 俺は咄嗟に後ずさった。


 ビルの中に、他に誰かいる?


 考えたくなかった。だが、背中を汗が伝い落ちていく。空調もないのに、耳の奥で何かがぽたりと落ちた音がした。


 水音?


 見上げると、天井の隅に設置された照明カバーに、わずかに水が溜まっている。しかもその中心から、ぽとり、ぽとりと床に落ちている。


 その下にあったのが、まさしくエレベーターのボタンパネルだった。


 ……偶然か?

 それとも、誰かがそこに水を「落とすように」設計したのか?


 次の瞬間、無人のエレベーターが、カタリと揺れて、俺の目の前で


 勝手に「開」から「閉」へと、扉を閉じた。


 そして階数ランプが「1」から「B1」へと切り替わり、何もしていないのに、地下へと降下を始めた。


 俺は無意識のうちに、濡れたボタンに触れた右手を、そっとズボンで拭っていた。


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