第五話 月蝕の夜
月が欠けはじめた夜。
空は静かに、けれど確かに“何か”を孕んでいた。
ソルは、小さな窓の外を見つめていた。
昼の民の屋敷、その奥深くに閉じ込められて三日目。
壁も床も、窓も、すべてが冷たく感じた。
外に出ることも許されず、誰の声も聞こえない。
けれど彼は知っていた。
――この夜は、年に一度の“月蝕”だ。
月がすべてを隠すそのときだけ、昼と夜の境目があいまいになる。
その瞬間なら、掟の目を逃れて、もう一度ヨゾラに会えるかもしれない。
それは、彼がこの世界に生まれて初めて願った“奇跡”だった。
一方、その夜。ノクティアの聖域では、ヨゾラもまた月を見上げていた。
「……月が、欠けてゆく」
儀式の合間、星を祀る祭壇の裏にある静かな庭。
彼女はひとり、星の声を聴いていた。
“光が、闇に近づいている”
“掟が、揺らいでいる”
そんな風に、星たちがささやく。
(もしかして……)
彼女の胸が騒ぐ。
ソルの名が、風に混じって呼んでいるような気がした。
「ソル……」
小さくつぶやく。
次の瞬間、足元の草がふわりと揺れた。
夜の風――境界から、誰かが呼んでいる気がする。
ヨゾラは、星の杖を胸に抱き、そっと立ち上がった。
禁を犯すことになるとわかっていても、心はもう止められなかった。
――その頃、昼の屋敷では。
「……よし」
ソルは窓の鍵をこじ開け、身を細くして外へと身を滑らせた。
空には月蝕。
光も影も曖昧になったこの瞬間だけが、唯一の“自由”だった。
そしてふたりは――再び、“あの丘”を目指していた。
月が完全に欠けたとき、空は深い藍色に包まれた。
星たちはいつもより強く瞬き、
丘の上には、ほのかに光る道が浮かび上がっていた。
それは、まるで空そのものがふたりを導いているかのようだった。
そして。
その道の先に、ヨゾラが立っていた。
「……ソル」
「ヨゾラ……!」
声が重なった瞬間、ふたりは駆け寄った。
ためらいも、戸惑いもなかった。
この夜、この一瞬だけは、昼も夜も関係なかった。
「無事で……よかった」
ソルが、息を震わせて言う。
ヨゾラは、黙って小さく頷いた。
ふたりの間に、ひときわ大きな星が流れる。
それは、まるで祝福のような光だった。
「触れても、いい……?」
ソルの問いに、ヨゾラはそっと手を差し出した。
「……今日は、月が隠してくれてるから」
そっと指先が触れ合う。
その瞬間、胸の奥に灯るようなぬくもりが生まれた。
それは言葉では説明できない――でも確かに存在する、心のつながり。
「ずっと……君のこと、考えてた」
「わたしも……あなたの声、ずっと聴こえてた気がするの」
「次は、いつ会えるの?」
「……もう、わからない。
でも――この夜のことだけは、絶対に忘れない」
ソルは、ヨゾラの手をそっと握りしめた。
その手は細くて、かすかに冷たかった。
けれど、そこには確かに、命の鼓動があった。
「……また、絶対会おう。どんな掟があっても、
この世界が僕たちを引き離しても――」
「うん。わたしも、そう願う」
けれどそのとき――
月が、雲間から顔を覗かせた。
夜の闇が、ゆっくりと引いてゆく。
ふたりの足元から、光が地を裂くように差し込み始める。
「もう……行かなきゃ」
ヨゾラが、苦しそうに目を伏せた。
「いやだ……! まだ、一緒にいたい!」
「わたしも。でも……」
ふたりの手が、ゆっくりとほどけていく。
夜が終わる。
奇跡の時間が、静かに閉じていく。
ヨゾラは最後に微笑んだ。
「ソル。あなたのこと、ずっと星に祈ってる。
たとえ遠くても……空は、つながってるから」
そして彼女は、月の光に溶けるように、姿を消した。
――丘の上には、夜露の残るサリアの花がひとつだけ咲いていた。