第三話 陽だまりの花、夜露の歌
ソルは、小さな黄色い花をそっと摘んだ。
それは、昼の森にしか咲かない――“サリアの花”。
陽の光を好み、夜には閉じてしまう儚い草花だった。
「これなら……きっと、ヨゾラに似合う」
そう思った瞬間、胸の奥があたたかくなった。
彼女に何かを渡したい、喜んでほしい――それは、ソルにとって初めての感情だった。
けれど、ヨゾラの世界に“昼の花”を持ち込むことは、本来禁じられている。
それでも、構わないと彼は思った。
この小さな想いが、彼女の夜を少しでも照らせるなら。
夕暮れが訪れるのを、ソルは丘の下で待った。
空がオレンジに染まり、太陽が遠くの山の端へと沈んでゆく。
(もうすぐだ)
風が変わる。
夜の匂いが少しずつ混ざりはじめるその瞬間、彼の胸は、自然と高鳴っていた。
そして、今夜も――
「……こんばんは」
ヨゾラは、昨日と同じように現れた。
けれど、その表情には、ほんのすこし驚きが浮かんでいた。
「……ほんとに、来たんだね」
「約束、したから」
ソルは、にこっと笑って、手のひらをそっと差し出す。
そこには、あの小さな黄色い花が乗っていた。
「これ、昼間に見つけた。サリアの花。
太陽の下でしか咲かないけど……きれいだったから、君に渡したくて」
ヨゾラは、少し戸惑ったように花を見つめた。
それから、両手でそっと受け取る。
「……ありがとう。サリア……わたし、見たことなかった」
彼女が花を抱きしめた瞬間、夜の空に一筋の流れ星が落ちた。
「この花ね……なんだか、あたたかい匂いがする」
ヨゾラが頬を寄せるようにして、サリアの花を胸に抱きしめた。
夜に咲かぬその花は、どこか不安げに、けれど確かに彼女の手の中で生きていた。
「太陽の光を溜めてるんだって。だから、夜になってもほんのり暖かい」
「……ふふ、それって、あなたみたい」
ソルの顔が、ふと赤く染まった。
照れ隠しのように俯いた彼の横で、ヨゾラは夜空を見上げる。
そして、静かに目を閉じると――そっと唇を開いた。
♪ ひとつ、ふたつ、夜に灯るは ひかりのこえ
ささやく夢は、空のむこうへ とどけ、とどけと揺れていく
それは、星の歌。
昼の民には聞こえない、夜の空にだけ響く祈りの調べ。
静かで、やさしくて、悲しみに満ちた歌だった。
ソルは黙って聞いていた。
言葉はすべて届いたわけじゃない。
けれど、その旋律は確かに彼の胸を震わせた。
(……この声を、誰かに伝えられたらいいのに)
歌い終わったヨゾラは、少し照れたように笑う。
「夜の民はね、こうして星に歌を捧げるの。
でも、昼の人にはこの歌、聞こえないはずなのに……あなた、ちゃんと感じてくれたんだね」
ソルは力強く頷いた。
「言葉じゃなくても、ちゃんと伝わったよ。
君の気持ちも、星の声も。……すごく、きれいだった」
ヨゾラの目が潤んだ気がしたのは、気のせいだろうか。
――けれど、その静かな時間も、長くは続かなかった。
星の配置が変わり、風向きがわずかに変わる。
“夜の終わり”を告げる兆し。
「……今日は、もう行かないと」
「そっか……また、明日も来るよ」
「ううん……明日は、たぶん来られない」
「……え?」
ヨゾラは、視線を落としたまま、小さく首を振った。
「巫女としての儀式があるの。数日は外に出られないの。
だから、……今日のこと、忘れないでね」
ソルは言葉を飲み込んだ。
言いたいことは山ほどあるのに、ただ小さく頷くことしかできなかった。
やがて、ヨゾラの姿は夜に溶けて消えた。
彼女が手にしていたサリアの花だけが、風の中でそっと揺れていた。