第一話『禁じられた丘
この世界で、昼と夜が交わることはない。
太陽が空を支配する間、夜の民は深い眠りに落ちる。
星々が瞬く頃、光の民はその瞳を閉じる。
それは、世界の均衡を保つために与えられた掟。
決して、破ってはならない古の約束。
けれど。
少年は、今日も丘に立っていた。
陽が沈みかけた空の下、まだ残る名残の光を背に受けながら、ソルは高台の草を踏みしめてゆっくりと歩く。
風が揺らす草の音と、心臓の音だけが静かに響いていた。
(もうすぐだ……)
彼が目指しているのは、村の外れにある“境界の丘”。
かつて昼と夜が交わりかけ、世界が崩れかけたという伝承が残る場所。
本来なら誰も近づいてはならない禁じられた土地だった。
だが、ソルは知っている。
年に数回、この丘の上に――
星を数える少女が現れることを。
彼女の名は、知らない。
声も、触れたことも、ない。
けれど、その夜色の髪と、星のように揺れる瞳を、彼は何度も夢に見た。
「……今日も、来てくれるかな」
誰に聞かせるでもないその言葉が、冷たい風にさらわれていった。
⸻
――そして。
風の向こうから、かすかな気配が届いた。
ソルは息を呑み、草の陰に身を伏せる。
丘の頂に、ふわりと“夜”が舞い降りたようだった。
淡い月明かりに浮かび上がる、小さな背中。
長い髪が風にそよぎ、揺れる袖が星のようにきらめく。
彼女だった。
何度も夢に見た、あの少女――夜空。
彼女は静かに空を見上げ、ひとつ、またひとつと指を折って星を数え始めた。
その動きには、どこか祈るような優しさがあった。
ソルは思わず、踏み出していた。
「……こんばんは」
その声に、少女の肩がぴくりと震えた。
しばしの沈黙。
やがて、彼女はゆっくりと振り返る。
月明かりの中で、その瞳が揺れた。驚きと……懐かしさのような、何かが。
「……あなた、昼の民……?」
「うん。名前は、ソル。太陽のソルだよ」
少女は、小さく瞬きをした。
まるで、星がひとつ落ちたような、そんな静かな瞬間。
「わたしは……ヨゾラ。夜空の、ヨゾラ」
ふたりの名前が、静かに交わった。
昼と夜、交わらぬはずの光と闇。
それでも、確かにここに“出会い”は生まれてしまった。
「……本当はね。来ちゃいけないんだ。昼の人は、夜の丘に」
「知ってる。でも……会いたかったんだ。君に、もう一度」
夜の風が、そっと吹いた。
その一瞬、ふたりの間にあった境界線が、少しだけ揺らいだ気がした。