少年は次第に成長しゆく④
母親の背を支えながら水を少しずつ飲ませると、母親は病人とは思えないような力強さで長林の腕を掴んだ。
「!?母さん、まさか」
「ち...長林...」
もしかすると自分のことを覚えているのではないかと期待をしていた長林は母親に名前を呼ばれハッと息を呑む。
「俺を、覚えていてくれてたの...?」
長林の問いに激しく咳き込んだ母親は長林を焦点の合わない目で見つめながら答える。
「長林に、伝えてください...璋月は、軍の人間に...汚されて自殺したのだと...あの子は、知る権利がある...わ、わたしはっ...自分のことばかりで、あの子のことを何も気にかけてあげられなかったけど...それでも、母親として、あの子にこれだけは伝えなきゃ、」
最後に一際激しく咳き込んで母親は脱力し、長林にもたれかかった。あまりに軽い母親の体に驚く余裕もなく。長林は目を見開いて母親の最期の言葉を理解するのを拒んでいた。
璋月の自殺の原因に対する驚きと怒り、母親が最期の最後まで自分を長林であると認識していなかった悲しみは長林から思考を奪い、涙を流す気力をも奪うには十分すぎた。
「母さん、俺が長林だよ。ねえ、母さん…俺は…長林じゃないの…?璋月でも、長林でもない俺は、誰なの?」
乾いた唇を震わせて母親の背に手を回し、消えていく体温に縋りつき、錆びたような匂いがする肩に顔を埋めた。
その後、長林から電話を受けた楊はその日のうちに飛び出て次の日に長林の自宅へついた。
長林に出迎えられた楊は言葉を失った。やつれた様子と何処までも昏く虚ろな目の長林は染み付いた璋月の笑い方で機械的に楊を迎えた。
「久しぶり、10年ぶりだね。楊おばさん元気にしてた?」
「長林、あんた」
「あ、ごめんごめん母さんに会いに来たんだったよね。入って母さんに会ってあげて」
楊の言葉を遮り有無を言わさず、強引に楊を招き入れ、母親が横たわる寝室へ連れて行く。
おかしいほど荷物がないがらんとした部屋の中央に、白い清潔な布団の上に母親は寝かされており、やせ細り土気色になっていた。腹部あたりで組まれた手を見ると枯れ枝のような指と、はっきりと見える血管。
病人が死んだあとの独特な匂いに混じって石鹸のような柔らかい匂いもある。母親が亡くなったあと、長林が軽く体を拭ったのであろう。身なりはしっかりと整えられていた。
楊はそんな妹の姿を見て、妹の死を突きつけられ、大粒の涙を流し始めた。
床に崩れ落ち、長林に背を撫でられながらひとしきり泣いたあと、楊は鼻を大きく啜り上げ長林の手を取る。
「長林、ここに来たのはあんたの母さんを迎えに来たのもあるけど、あんたを引き取るためでもあるの。今までほったらかしにしておいて今更かと思うかも知れない。でもあんたは妹の忘れ形見なの、だから」
「おばさん」
長林は懐から1枚の紙を取り出して楊に見せた。
「徴兵通知…あんたそれに行くの!?」
「うん。もうおばさんや孫先生に迷惑を掛ける訳にはいかないでしょ?だから俺は軍に入るよ。その後は…心理療法士か村に戻って畑仕事でもしようかな」
「あんた軍には!」
「軍には何があるの?なんでそこまで止めるの?」
笑顔を消し、静かに楊を見つめる。その長林の目からそっと視線を外し、楊は俯いた。
「あんたの母さんの前で話す気はないわ。場所を変えましょう」
「おばさんは知ってたんだね。璋月が、軍のクソ野郎に何をされたのか」
「長林、あたしは」
「璋月が苦しんでいたことも知っていたのに、母さんが璋月の死に心が壊れたのも知っていたのに知らなかった振りをしていたんでしょう。ねえ、おばさん、私がどんな気持ちで首を輪っかに通したと思う?どれだけ苦しかったかわかる?ねえ、おばさん」
「長林!もうやめて…!ごめんなさい、あたしは璋月が死んだあとに知ったの…でも、薄々勘づいていたのに、確信が持てなくて…!…ごめんなさい璋月、蓮美…!」
璋月が生き返ったような笑顔と仕草で自分の喉元に片手をやり、楊を壁際へと追い詰めていくうちに、楊は膝から崩れ落ち顔を覆って泣き出した。
「…なーんてね。俺はおばさんのことはちっとも責めてないよ。ただ、あのときおばさんが居てくれたら、母さんとおばさんが居てくれたら璋月の悩みはもう少し和らいだのかも知れないと思っただけだよ…男の俺が居るよりよっぽどね」
長林は一歩後ろに下がり目を伏せる。そのまま踵を返し、部屋を出ようとする長林は直前で足を止めた。
「怖がらせてごめんね。お詫びにこの家はおばさんにあげる。借屋だけど契約期間はまだ残ってるし、私はもう使わないからね。だったらおばさんの子どもが使ったほうがいいよ」
「まって!この家は私が買いとってあんたが返ってくるためにこのままにしておく!だから、だから帰ってきなさい…!」
涙に濡れた強い目で長林を見つめる楊は涙を拭って立ち上がる。
「村の方にある家の中であんたの荷物はここに置いておく、それと璋月の遺品と写真も持ってくるわ。ここはあんたの家になったんだからちゃんと帰ってきなさい。だから軍で一生を終えるだなんて絶対に思わないでちょうだい」
一考したあと、長林は頷いて家を出ていった。
当初楊は長林によそよそしい、少し遠慮した態度を取っていたのですが長林が辞めてくれと言った為、本編の楊になっています。
ひとまずこのエピソードで「少年は次第に成長しゆく」は完結となります。次はH862の話に移ります。




