3-8 男性中心主義の母 VS 現代的な自由主義の妹
地区のゴミステーションまでは徒歩一分、走ったら三十秒。
両手に持った燃えるゴミの袋をステーションにぶち込んだ後、さすがに帰りは歩いて家に戻った。
いつもの癖で玄関から家に入ろうとし、鍵がかかっていることに気が付く。早朝なのでまだ誰も鍵を開けてないのだ。ということで自転車小屋へと回り、例の扉を開ける。
半分内半分外の空間。
細い通路。ごちゃごちゃした家の備品、アルミの棚、外用の洗面台、干してある洗濯物を避けながら進む。
その先に、母親はいた。母親はさっきの俺と同じように、勝手口の戸の前の踏み段に座っていた。
……女性らしからぬ、結構な大股で、ドカーンと座っていた。
「股よ、その股」
近寄って膝あたりを叩く。もちろん「ちょっとその大股をお閉じになったら」という意味。母親は怪訝な目を返してくる。関西の親子の会話が始まる。
「ええねん。ココは外ちゃうから」
「舛奈が座り方で怒られたって、ぐちぐち言うとったで」
「アレは家の中で股開いとってん。ソファーで、ぐっでーして、パンツの筋浮き出るくらい、ぐっでーして。アイツその体勢で牛乳ラッパ飲みしとるし。女らしさの欠片もねえ」
「いやいやお母さん。今は『女らしさ』とか言ったらアカンらしいよ。ジェンダーフリーな社会やから」
「あ。せやねんソレ、アイツめっちゃ言いよんねん。ジェンダー。男も女も関係ねえみたいな」
「うん。俺もこの前舛奈からめっちゃ聞かされたもん」
「え? ジェンダーを? どんなん?」
「うん、ジェンダーを。いつやろ。忘れたけど最近。なんか知らんけど怒っとった時あったやん? その夜、永遠の愚痴を聞かせていただきました。タイトル『世の女性に対する圧迫と私の母親について』、大長編二時間、途中泣きアリ、悪口アリ、母死ねアリ」
「うっそーーーんっ! また母死ね言われてるー! 世間の敵扱いされてるー!」
「授業で習ったんやって。そういう女の子と男の子で、決めつけたりしてはいけませんって。女やからどうこうって言ったらあかんって」
「ええん? ヤバイ? ほなお母さん訴えられる?」
「いや訴えられるとかはないやろ」
「娘勝訴? お母さん敗訴?」
「ふふっ、勝ち負けの問題なんこれ」
話題は絶賛反抗期中の妹、舛奈について。最近の舛奈はとかく母親を世間の敵扱いするので、いつも俺がその愚痴を聞いている。
そして俺と母親が話す時は、母親にそれとなーく舛奈の思いを伝えてあげている。俺は母と娘の仲介役って感じである。
でも、今日は母側にも主張したいことがあるようで、相変わらず大股を開いて踏み段に座る母親は、俺に指をつきつけて言ってくる。ノンストップ関西弁ショーが始まる。
「いやだから例えば、アンタが女の子とデート行ったとするやろ?」
「始まったよ、母理論と書いて屁理屈が」
「屁理屈ちゃうて。ききーや」
「うん」
「オシャレな喫茶店に二人で入って、注文した後、アンタがトイレ行って戻ってきた時、ふと見たら彼女がぐっでー座っとったらどうする?」
「その、ぐっでーって何なん。想像つかんねけど」
「だからこうよ。女の黄金デルタ地帯を強調するかのように、ぐっでーって背もたれに倒れ込んで股を開ける姿勢のことよ。ふと見た瞬間に彼女がこういう姿勢を取ってるのよ」
「ふふっ、そらちょっと嫌やけどさ、その一面だけで全てを決めるもんじゃないから」
「いやいや女の子は、その一面に全てが出るもんやって」
「そうなん?」
「そうよー。いい? アンタとデートできるような可愛い女の子はな――まあブスの子はまた違うんやけど――かわいっこちゃんが成長する時って二パターンしかないの」
「なに? 成長の二パターンって」
「親に怒られる、もしくは彼氏と喧嘩する」
「親と彼氏だけっ。友達は?」
「無理無理、友達は無理。よっぽどいい友達おらん限り、かわいっこちゃんは友達には注意してもらえへん。可愛い子は大体ボスやしみんな気使う。姿勢悪いレベルで、かわいっこちゃんを注意できるのは、その子の親か彼氏だけ」
「まあそういわれたら確かに」
「だから、ぐっでー座っとるかわいっこちゃんは、まず親に注意されてないってこと。なにやっても許してもらえる環境で育ってはるから、そういう姿勢になっちゃうの。でもね、親は仕方ない。子供は自分で親を選べへんから、私も親については、どうのこうのと言いません。ただ彼氏は違います。どんな男が好きか、どんな男に居心地の良さを感じるか、それはその女の子次第」
「うん」
「つまり、その子は今まで自分の姿勢を注意してこないような男を選んできたわけ。お前人前でその恰好すんの止めろやって。そういうことを彼氏に言われて、喧嘩をして、身のフリを直そうと思ったことがない。そういう女の子なのよ。さあここで問題、つまりそれってどういうこと? 姿勢の悪いかわいっこちゃんが付き合ってる男ってどんな人?」
「うーん。注意せんってことは、優男?」
「アホ、ちゃうわい。かわいっこちゃんは優男なんて好きにならへんの。優男を好きになるのは、それなりのフラれ方をして痛い思いしてきた女だけ」
「舛奈だってフラれるかもしれんやん」
「アイツは自分がフラれたとは絶対思わへんもん。二十代後半になってようやく自分が捨てられてきたことに気が付く。優男好きになんのはそっからや」
「母と一緒で?」
「そうそうそうそう。母と一緒でね、若い頃は顔でしか男を選んでなくてね、って何言わすねん」
「ふふっ、じゃあどうゆうことなんよ?」
「もう。よく聞いときや。アンタも関係ある話なんやから」
「うん」
「姿勢の悪いかわいっこちゃんは、自分とおんなじように姿勢の悪い男の子と付き合ってはるってこと」
「え?」
「だからね。自分がぐっでー座っとっても、何も言わん男が好きなわけやろ? そういう男の人っていうのは結局、自分もぐっでー股開いて座らはる人なの。電車の中でもファミレスの中でもそう、股開いて座らはる。優しいんじゃなくて、自分もやってる普通のことやから、彼女がやってても気にならへんだけ。かわいっこちゃんの姿勢の悪さは、そういう男の人と付き合ってきたっていう証拠なの」
「あー、そういうこと」
「母理論、解ってきた?」
「まあ、うん。俺も一回、ファミレスで立膝ついた女の子がいて、その子と遊ぶのやめようと思った。ガラ悪かったし」
「やろ? そういう子って、やっぱりうちとは何かちゃうやろ? 人としてレベルが違う。若い頃はそれでも、見た目見た目でモテるんやろうけど、大人になって、ある程度将来を見据えるような恋愛をするようになったらさ、もう恋愛の対象にすらならんのよ。そういうちょっとお行儀の悪い女の子は。男も女も、年齢上がるにつれて、自分と同じくらいのレベルの人としか付き合えんくなっていく」
「うん」
「だからお母さんは舛奈に注意してあげるの。舛奈が将来いい男の人と付き合えるように。いい人と付き合って、いい喧嘩をして、舛奈がいい方向に変わっていけるように。もしも、実際舛奈が誰かと付き合って、自分の姿勢注意されて喧嘩になった時に、そういえばオカンにも同じことで怒られたなぁって思い出せるように」
「思い出せたら、いい方向に変わるん?」
「うん変わる。怒られるけどやっちゃうのと、怒られたことないのとでは、感じ方が全然違う。単に彼氏と喧嘩しただけなら、自分は悪くないって意地張って、自分を甘やかしてくれる味方の方に流れていかはる。そやけど、母にも同じことで怒られてたら、ちょっとは反省しはる。母と彼氏の両方に同じこと言われたら、女の子は自然とそれ治そうって思わはる」
「ふーん」
「つまり、かわいっこちゃんが人間的に成長する一番の方法は、母と彼氏のダブルパンチを食らうことなのです。母が舛奈に口やかましく注意するのは、舛奈を思ってのコトなのです。納得した?」
「まあ」
「ハイお母さんの勝訴。家の中でも外でも、ぐっでー股開いて、パンツの筋を見せつけるのはやめてくださーい」
母は大股のまま両手を広げて勝利を喜ぶ。
……どこか言いくるめられたような気がしないでもない。
実際、妹の舛奈がムキになって反抗するのは、姿勢云々ではなく、牛乳ラッパ飲み云々でもなく、この母親の実に男性主権的な、女は男にフラれないと成長しねえ的な考え方そのものにあるのだと思う。
つまり、女性は女性らしく上品にしていないと素敵な男性から恋愛対象として見られませんよっていう考えに基づいた教育。字面だけで考えるなら、俺もあまりいい印象は受けない。
舛奈だって自分で色々考えてるし、親の思わぬところで思わぬ経験を積んでいる。俺も兄貴として、アイツの並外れた行動力や普通の女の子にない面白みがあることを知っている。
それを単に男性の番としての女性の在り方だけを教えるのはどうかと思う。まして女が成長する一番の方法は親と彼氏からダブルパンチを食らうことだなんて言われると、舛奈は激おこだろう。
舛奈の反抗の根源は、そうした母親の男性中心的な考え方そのものにあるのだ。
一方で母親の言い分も解る。実際舛奈は可愛くて、クラスではいつもボスを張ってる。先生や部活の顧問の前ではいい子ちゃんしてるから、舛奈を注意できる人はいない。友達はみんな舛奈の味方。どんな態度でどんな言葉を吐いていてもアイツの自由。
もしも舛奈を叱れるとしたら、家族か、舛奈と真剣に交際した男だけだ。
母理論の通り、誰からも怒られたことがないというのでは、彼氏の注意なんて受け入れるはずもない。喧嘩になれば、すぐに味方の中に逃げ込んで、自分は悪くないと言い張るだろう。母言うところの、レベルの低い恋愛に流れ込んでいく。
しかし、その彼氏の言い分の中に、母親の言葉と重なる部分があるのなら、アイツも立ち止まるかもしれない。思いとどまって思考の方向を変えるのかもしれない。それはまごうことなき成長の一歩であると思う。
じゃあやっぱり、男性主権的な母親の方が正しいのかな。それとも現代的な自由主義の妹が正しいのかな。解らない。どっちの気持ちも解るのに、どっちが正しいのかと言われれば解らない。折衷して新たな論を作り出す力も、今の俺にはない。
言葉は曖昧に流れてく。中間的な思いのまま風景をぼんやりと見ている。
薄茶色い屋根、半透明の波板の壁。洗濯機、物干し竿。外用の洗面台、思い出の詰まったアルミのラック。
一つだけ確かに納得がいったのは、母親にとってもこの空間は、家の内側でも外側でもないということである。家の内でも外でも許されないはずの大股が、相変わらずおおっぴろげに投げ出されている。
見ている俺も不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「まあ座りや」
大股で座る母親は自分の隣をポンポンと叩いた。