彼女は『好き』が嫌いだから
小森紗綾には、園田夜海という幼馴染みがいる。
夜海は幼い頃から曲がったことが嫌いな、絵に描いたような優等生だった。
ご飯は一粒も残さないし、スカートで手を拭いたりなんかしないし、門限も破らない。
いつでも背筋はピンと伸びていて、お泊まりの時以外寝癖が立ってるところは見たことがない。
宿題を忘れることもなく、予習も欠かさない。廊下だって走らない。毎朝、教室の花瓶の水を入れ替えているのも彼女だ。
紗綾は夜海を見て、『しっかりしている子』を学んだ。夜海みたいな子がそうなのだ、と。
対し紗綾は、夜海のようにはなれなかった。なろうとしなかったと言う方が正しいかもしれない。
紗綾は幼い頃から『好奇心のお化け』だった。色々なことに興味を持ち、興味を持ったら試さずにはいられない子どもだった。
いたずらも、ちょっとした実験も、思いついたことはなんでもやった。それこそ大人に怒られることも多くて、つど反省しつつもやっぱり衝動には逆らえなくて、またやってしまう。
そんな自分を自分で「子どもっぽい」と自覚できるようになる頃には、紗綾はもう高校生になっていた。
「紗綾、帰らないの?」
教室で、ぼーっと夕日が沈むのを眺めていると、まるでテレビの向こうのアナウンサーのように整然とした声が耳を撫でた。
「夜海。日直終わったの?」
「ええ、まあ」
相変わらず背筋をピンと伸ばし、真っ直ぐ伸びた黒髪をその背に流しつつ、夜海は紗綾の席の前までやってくる。
そして机の上に視線を落とし……端正な顔をわずかに歪めた。
「紗綾……これ、先週締め切りの宿題じゃない」
「うん。いい加減出せって怒られちゃった」
当たり前みたいに言う紗綾だが、彼女にとって、宿題忘れなんてわりと当たり前のことだった。やらなくちゃいけない、という気持ちはありつつ、つい忘れたり後回しにしてしまったりするのだ。
「ちゃんとやらなきゃ駄目よ、紗綾」
「うん。だから今やってるんだ」
夜海もそんな紗綾の悪癖には慣れているが、毎回、口を酸っぱく注意している。
紗綾にどこまで響いているかは定かではないが、それでも夜海が言うことで動くことも少なくない。
今回は手遅れになってしまったことを口惜しく思いつつ、それでも夜海はきちんと注意した。
「でもさ、毎月作文書けなんて変わってるよね。先生はあたしたちを作家にでもしたいんかな?」
「毎回大した文量でもないじゃない」
「えー……400字だよ。400字!」
今、紗綾が向き合っている宿題は『未来の自分に向けた手紙を400字程度で書け』という作文だった。
入学してから今まで、何度も作文を書かされてきた中では、わりとオーソドックスなテーマだ。
「これは長くなるな」と悟った夜海は、わざわざ自席から椅子を持ってくると、紗綾の隣りに並ぶように腰を下ろした。
「普段だったら適当に作り話書いてるじゃない」
「人を嘘つきみたいに言わないでくださる?」
「将来の夢に『宇宙飛行士』って書いた子がどの口で言うのよ」
「えー、言ってみたいじゃん。宇宙」
「でも宇宙飛行士になりたいわけじゃないでしょ」
「まぁねぇ」
なんでも宇宙飛行士になるには色々と過酷な訓練をこなさないといけないらしい。
いっぱしの女子高生である紗綾にとって、それはもう異世界の話だ。そもそも女子高生になるにも、彼女にとってはそこそこ過酷な受験勉強を乗り越えてきたのだから。
これも夜海に尻を叩かれなければ簡単に挫折していただろう。
「でも、紗綾は作家に向いてると思うわよ」
「え。あたし頭良くないよ?」
「頭の良さは関係……ないかどうかは分からないけれど、あたしは紗綾の書くお話、結構好きだもの」
「お話書いてるつもりはないんだけどなー」
紗綾としては、面倒な作文という宿題をどう楽しくこなすかという自身のテーマに従って、思うがままに書いているにすぎない。
それがたまたま上手くいったと自覚できた時だけ、教師に提出する前に夜海に見せていたりする。
(意外と楽しみにしてくれてたのかな)
どこか普段よりも楽しげな夜海の横顔を見て、紗綾は少し頬がにやけるのを感じた。
「それで、どうして書けないの?」
「うーん……なんかさ、未来の自分に向けた手紙なんて、なんか、変じゃない?」
「そう、かしら」
ピンとこない様子で夜海が首を傾げる。
「そうだよ。だってさー……変じゃん!」
「紗綾、説明を面倒くさがらないで」
曖昧に誤魔化す紗綾にツッコむように、ペちんと頭をはたく夜海。
実際、紗綾も何が変なのか、言葉にできるほど具体的に考えられてはいないのだけど。
「じゃあ、夜海は何を書いたのさ」
「え?」
「夜海のことだから、当然もう提出してるもんね」
「まぁ、締め切りは過ぎているのだから、もう出してないのは紗綾だけよ」
「じゃあさじゃあさ! 夜海が何書いたのか教えてよ! そしたらそれを参考にするから!」
実際には殆ど丸パクリするつもりの提案だったが、同時に、紗綾の中に新しい興味が生まれる。
それは「夜海が未来の自分にいったいどんな手紙を書いたのか」という興味だ。
幼い頃から、夜海とは一緒にいる。幼稚園、小学校、中学校、そして今。いつだって二人はお互いにとって一番の友達だった。
自由奔放な紗綾と、真面目な夜海。
一見そりの合わなそうな二人だが、お互いがお互いのことを知った上で、決して離れることなく今までやってきた。
けれど、そんな紗綾にも夜海について分からないことがある――『未来』だ。
夜海がどんな大人になるのか。どんな夢を持っているのか。紗綾は何も知らない。
自分は『将来の夢』についての作文を読ませたけれど、夜海のものは読んでいないから……そう思うと、がぜん興味が強くなる。
「ねぇ、夜海」
「……だめよ。どうせ写すつもりでしょう」
「写さないよ。やっぱり、写さない」
机に乗った白紙の原稿用紙なんてもうどうでもよかった。
今、紗綾の目には夜海しか映っていない。
「あたし、将来の夢の作文見せたでしょ」
「嘘だらけだったじゃない……」
「そうだけどさぁ」
「紗綾には悪いけど、教えられない」
「なんで!」
「……あまり、でき・・が良くなかったから」
気まずげに、逃げるように、夜海は目を逸らす。
それはいつも真っ直ぐな夜海にしては珍しい行動だった。
彼女はめったに嘘を吐かないし、誠実だ。そんな夜海が逃げる感じを見せる内容……紗綾の興味は削がれるどころかもっと勢いを増していた。
けれど、こうなったら夜海は頑固だ。
ただ正面から扉を叩いても、鍵を締めたまま、もしかしたら鍵の数を増やしてしまうかもしれない。
紗綾は一瞬目を閉じ……少し遠回りをすることに決めた。
「そういえばさー、夜海って、手紙苦手なの?」
「え? どうして?」
「どうしてって……なんとなく?」
『未来』から、『手紙』というワードで攻めてみた紗綾だが、自信を持って投げた初球にはあまり手応えがなかった。
「別に手紙は苦手じゃないわよ。むしろ好きなほう」
「えー?」
「だって、紗綾にはよく送ってるじゃない」
「……あー。そうだねぇ。年賀状とか、暑中見舞いとか、バースデーカードとか?」
思い返してみれば夜海の言うとおり。
夜海はまめに手紙を書いては紗綾に送っている。季節が巡るたび、年を一つ重ねるたび……何かの節目節目にわざわざ手書きで、郵便局を経由させて、紗綾に手紙を送るのだ。
対して紗綾は返したり、返さなかったり……たまに思い切って小包を送ってみたりなんてしていたけれど、確かに夜海が手紙二対して苦手意識があるとはならないだろう。
(あれ。じゃあなんであたし、夜海が手紙を苦手に思ってるって思ったんだろ)
紗綾にはなぜか、夜海が手紙を前に嫌そうな顔をしている印象がある。
けれど相手のいないところで、相手を思って書くのが手紙だ。
当然紗綾からは、夜海が手紙を書いているところも、読んでいるところも見えるわけがない。
(……あ)
紗綾の頭の中で、夜海と手紙が苦手で結びつくシーンがあった。
それは朝、彼女と一緒に登校したときに、彼女の下駄箱から手紙が落ちてきたとき。その表情だ。
(ラブレター……)
下駄箱に入った手紙――当然、ラブレターである。
夜海はモテる。性格は堅くとも、外見は文句なく美人だ。
何もしていなくとも男子の視線は集まり、何の接点もない男子から告白されるのはザラにあることだ。
しかし夜海は、人見知りというわけではないが、あまり交友を広げようとしない。
特定の友人といえば紗綾。そして…………少なくとも紗綾は、夜海が自分以外の誰かと、自分と一緒にいるときみたいに楽しそうにしている姿は知らなかった。
そんな夜海に男子がアプローチしようとしても、いきなり直接話しかけるのはハードルが高い。スマホの連絡先も知らない。
だから、少し古典的ではありつつ、下駄箱にラブレターを忍ばせるという手法が最もメジャーになっていた。
夜海はラブレターが苦手――いや、嫌いだ。手紙は好きなのに。
紗綾はそこまで思い至って、しかし次には、「どうしてラブレターが嫌いなのか」という疑問に捕まった。
「ねぇ、夜海は……」
と、真っ正面から聞こうとして、すぐに口を閉じる。
聞くまでもない――ラブレターから手紙を引けば、残るのはラブだ。
(夜海は、『好き』が嫌いなんだ!)
そう気付くと同時に、紗綾の中で何かがうずっと動いた。
夜海はいつだって『嫌い』をひた隠す。
たとえば茹でたニンジンが嫌いなこと。ホラー映画が嫌いなこと。人が死んでしまう物語が嫌いなこと。
たくさん『嫌い』があるのに、絶対に認めようとしない。特に紗綾には。
しかし厄介なことに紗綾は、そんな『嫌い』に直面する夜海が大好きなのだ。
渋面を浮かべながら、目尻に涙を溜めながら、「き、嫌いじゃないわよ。むしろ大好きよ!」と下手くそな見栄を張る夜海。
そんな彼女が可愛らしくて、いじらしくて――紗綾はついイジってしまう。
例えば、手作りのスペシャルにんじん弁当を作ってみたり。
例えば、お泊まり会でオールナイトホラー映画観賞を実施してみたり。
例えば、カバーだけすりかえて主人公たちが死別する物語をプレゼントしてみたり。
そのたびに夜海は可愛い反応をしてくれる。本人からしてみれば溜まったものじゃないと思うが。
けれど、紗綾からすれば、意地を張る夜海も悪いのだ。
嫌なら嫌とはっきり言ってくれれば、きっぱりやめるのに。
(……うん、そしたらやめる。たぶん。きっと)
と、思うことにしている。
とにかく、そんな紗綾が新しく見つけた夜海の『嫌い』だ。
イジらないなんて選択肢は彼女に無い。
(でもどうしよっかなー。直接聞くのは面白くないし)
「紗綾、手が止まってるわよ」
「んー……あっ! これだっ!!」
「え?」
「夜海、ちょーっとあっち向いてて!」
「え、なんでよ」
「いいからいいから!」
紗綾は夜海を振り向かせて、一気に作文を書き始める。
テーマの『未来の自分への手紙』。書き始めは――
(未来のあたしへ。未来のあたしは、今も大好きな夜海と一緒にいますか?……かな)
そんな少しベタに思える書き出しに、紗綾の頬が緩む。
そこからは今の自分が思う夜海の好きなところを書きだしていく。
髪がさらさらなところ。姿勢が綺麗なところ。美人なところ。ふと緩んだ顔が可愛いところ。
真面目なところ。少し天然なところ。案外泣き虫なところ。頑固なところ。
考えれば考えるほど、書けば書くほど、夜海の好きなところが無限に湧き上がる。
先ほどまではとてつもない壁に思っていた400字ではとても足りない。
最後の方は何度も書き直して……なんとかギリギリ400字丁度に収める。
「よし、できた! ねーねー夜海ー」
「もう、なによ……?」
「へへへっ、今回は中々の傑作ができたからさー夜海にも読ませてあげてもいいよ?」
「傑作も何もないテーマだと思うけど……また嘘書いてるんじゃないでしょうね」
「今回に限っては嘘はピタ一文ございませんっ!」
そう、嘘は書いていない。若干誇張しているかもしれないが。
「ていうか自分への手紙よね……? 私が読んでもいいのかしら」
「読みたくない? じゃあ読まなくてもいいけど」
「……読む」
少し餌を動かすだけですぐさま食いつく夜海。
紗綾はにやにやと口元が緩みそうになるのを必死に堪えつつ、原稿用紙を差し出した。
さぁどんな反応をするだろうと紗綾が期待する中、夜海は原稿に目を落とし……その一行目から目を見開く。
「え、ちょ……こ、これ」
「……」
変にニヤけるとしょうもない冗談と思われてしまうかもしれない。
そう思い顔を引き締める紗綾。
そんな少し強ばった表情が、夜海からは真剣に、緊張によるものに見えて……手紙に書かれた紗綾の想いの信憑性を強くする。
夜海は、じっくり、ゆっくり、紗綾の作文を読んでいく。
度々息を飲み、動揺した瞳に紗綾を映し、逸らし――全てを読み終わる頃には、夜海は首まで真っ赤にし、全身を震わせていた。
(お、怒った……!?)
そんな夜海を紗綾は固唾を呑んで見守る。
久々に怒った夜海が見れるかもというドキドキ感と、少しの不安に包まれながら。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………夜海?」
あまりの沈黙の長さに、段々不安が勝りだす。
紗綾はついに自分から声を掛けるが、夜海はじっと作文に目を落としたまま答えない。
「ど、どうかなぁ? あたしの作文……」
言葉にできないほど、嫌だったのだろうか。
紗綾が書いた作文は、それはもう動機こそ不純ではあるが、嘘は無い。
夜海の好きなポイントを抜粋し、文字制限ギリギリまで詰めに詰めて――
(も、もしかして、小学生の時あたしが配膳こぼしちゃって隣のクラスに分けてもらわなきゃいけなくなったとき、夜海が一緒に謝ってくれたっていう、あの超感動エピソード入れたのが駄目だったのかな!? なんか、主役あたし感あるし……!!)
「あ、えーと……なんか、ご、ごめんね。お口に合わなかったようで~……」
「……す」
「へ?」
夜海の手から作文を引き取ろうと手を伸ばした紗綾は、夜海がなにか呟くのを聞いた。
「私…………なおす」
「なおす?」
「私、作文書き直す!!」
「へ」
「私、嘘書いてた! いっぱい、いっぱい……私の方が、いっぱい書けるのに!!」
「よ、夜海?」
「紗綾待ってて! 先生に原稿用紙貰ってくる!!」
「夜海!?」
どたどたと急いで教室から駆け出していく夜海に、紗綾はただただ目を丸くする。
いつも生真面目な夜海が、廊下を走る姿なんて紗綾でさえ見るのは初めてだった。
「あ、あたしの好きで、夜海が壊れた……!」
その後、ものすごい勢いで『未来の自分への手紙』をしたためた夜海は、実に満足した表情で担任に提出し直す。
当然、紗綾の作文と一緒に。
「えっ、アレ出しちゃったの!?」
「ええ。別にいいじゃない。傑作だったんでしょう?」
「いや、まぁ……うーん……?」
からかった意趣返しだろうか、と紗綾は訝しみつつ……まぁ、宿題を提出するというノルマは達成できたので良しとすることにした。
夜海が怒るどころか、機嫌よさげに鼻歌を唄っているのも気になってはいたが……開放感から、「まぁ、いっか」と自己完結してしまう。
「さっ、帰りましょ」
「うん……そだね」
「あ、そうだ紗綾」
「なに、夜海」
「この後さ、うち来ない? 親、今日帰ってこないから」
「……? いってもいいけど」
なぜ親が帰ってこないことをわざわざ言ったのか分からず首を傾げる紗綾。
そんな紗綾の手を、夜海はぎゅっと強く握る。
「ちゃんとおじさんおばさんに、泊まりって言っておいてね」
「あ、うん。おっけー」
お互いの家に泊まるのは結構当たり前に行っていた。
今回もそれだろうと、紗綾は特に気にせず頷く――そのお泊まりが『当たり前』とは違うお泊まりだと知るのは、ほんの少し先になるのだけど。
そんなこんなで、お互いの勘違いを始めに幼馴染みが別の名前の関係に変わったその日、
「感情……重……」
日の暮れた職員室で、遅れて提出された作文を読んだ担任教師は、突然降って湧いた思わぬ秘密を押しつけられ、頭を抱え込むのであった。