1話
私は今日もパソコンの前に座っている。
大学生になった今、はやり病で大学での授業がなくなった今。
私は自分がただの引きこもりであることを享受していた。
地元に住んでいた時は足繫く本屋通いをしていたものだが、それも最近では人類の叡智『インターネット』によってそれもなくなった。まあ、新居周辺には本屋すらないのだが。
私はずいぶんと落ちぶれてしまった。
やる気も、集中力も、体力も、精神力も、削がれていった。
高校の時はどうだったか、今思うと大して変わらないように思える。
違うことと言えば、自覚していることぐらいか。自分が『焦りに支配されている』ことを。
今だからこそ思えること、地元という一種の檻から距離を保てているからこそ自覚できる。
小学生の時、中学生の時、高校生の時、自分が成長した環境には自分よりも優秀な人が沢山いた。
才能があって、努力が出来て、かっこよくて、面白さも持ち合わせていて、憧れてしまった。
最初は、憧れだけだった。そこで止まればどれだけ幸福だったことか。
年を経るにつれ、後輩が出来ていった。
自分よりも出来のいい後輩たちが。
そんな後輩たちが私の自尊心をすり潰していった。
高校生になる頃には、私の自尊心はただの塵と化していた。
日々の生活の中で、自分のことを肯定することもなくなった。
「優しいね」と言われても、なにも響かなかった。
もっと上手くできたのではないかという後悔だけが胸中に鉛のように溜まっていった。
私は、心の底からの笑顔を失った。
そんな私に、友人が「ウチの部活に来ないか」と誘ってくれた。
当時、ただの帰宅部と化した私はその誘いを受けた。
そういう経緯で入った放送部はとても刺激的で新鮮だった。
なにより部活にはかわいい女生徒もいたのだ。しかも、1、2年含めて男子生徒は私を含めたった二人。
男子諸君ならば、この時の私の気持ちを分かってくれるであろう。
単純な私は、そのような要因も相まって部活にのめり込んでいった。
時が流れて、12月頃。
私はすっかり部活の仲間と打ち解けていた。それは、私が仲間に嫌われないように、部活の雰囲気を壊さないように、好意をひた隠して細心の注意を払って接していたからかもしれない。
だからこそ、気付いた。
部活の仲間が一つ上の先輩に好意を抱いていることに。
その中に、当時私が好きだった人も含まれていた。
気付く前にはもう戻れない。恋心という麻薬に侵されていた私の脳内は、一瞬にしてその物質の供給が止まってしまった。
後に残るのは、愛を渇望する醜い依存患者だけだった。
どうにか先輩には無い魅力を見つけようと、自分を分析した時もあった。
しかし、すでに歪んでいた自分を見つめる眼は、私に闇よりも暗い絶望を運んできただけだった。
私の心には、行き場のない渇望を糧として憎悪が芽吹いた。
あの時の私は、確かに先輩を怨んでいたと思う。先輩には理不尽な話だが。
だが私は、先輩を怨み続けることができなかった。楽で最低な方向へと進むことができなかった。
ある感情が私を止めたのだ。
それは、人への優しさだった。
その優しさだけが私を支えてくれた。心が闇に染まっていく私にとって、それはたった一つの光明。自分を信じ続けることができる最後のエビデンスであった。
私は、自分の優しさに気付き、それを分析してしまった。
希望の光源に見えたそれは、自分の心の弱さであることを理解してしまった。
今まで行ってきた優しさが、すべて自分を守るための、人に嫌われたくないという自己防衛ともいうべき欲望からの行動であったと理解してしまった。
その日から、私は自分がひどく醜く滑稽なモノだと認識するようになった。
自分を軽じて信じられなくなった私は、負の感情をすべて自分に向けるようになった。
その最たるものが、先輩への憎悪と絶望と欲にまみれた自分への吐き気であった。
その時点で誰かに相談すれば、まだ引き返すことができたのかもしれない。
誰かに当たり散らせば、収まったかもしれない。
しかし、それを私の弱さが阻んだ。
人に弱さを見せることを躊躇してしまう。誰でも一度はあるだろう。
人はそれを乗り越えて、希望へと進んでいく。
自分の弱さと向き合い、積み重ねてきた自信で克服する成長プロセス。
だが、乗り越える原動力とも言うべき自信がないのならば、どうなるか。
私は身をもって体験した。
その結果得たのは、弱さの成長と排他的な嘘という面の皮だけだった。
皮をかぶって嘘で飾りつけした私の日常は、次第に馴染んでいき新しい日常となった。
自分も皆も嘘で騙されて、それなりに生活を送っていた。
騙されている間は、どんどん肥大する自分の負の感情を見ることはなかった。
その頃の部活は、先輩の恋騒動も収束を見せ和気藹々とした雰囲気になっていた。
ある日、部活内で自己診断サイトが流行った。
君もやってみなよと先輩に誘われるがままに、サイト内の質問に答えていった。
その結果分かったことと言えば、自分が人間不信に陥っていることだった。
その頃の自分にとって、学校生活というのはまるで終わらない戦場のようなものであった。
学校だけではない。家での安寧すらももはや感じることはできないのだと、遅まきながらに気が付いてしまった。
それまで、ボロボロになりながらも学校という戦いの場において頑張ることができたのは、ひとえに親からの期待があったからだ。
期待に応えることが、私の心の支えになっていた。
しかし、その思いは時間が経つにつれてどうも醜く歪曲していったらしい。
期待に応えようとする思いは、期待に応えなければという強迫観念に変わっていた。
期待に応えられなかったらという、恐怖が私を支配するようになった。
クラスメイト、友人、教師、両親、果てには見知らぬ誰かにすらその恐怖を感じるようになった。
今思えば、全員から嫌われたくないという甘言は考慮するまでもなく一蹴することだろう。いくらそれが平和に生きる最善だとしても、だ。
しかし、恐怖に支配された私にはその思考に至ることがついにできなかった。
勘違いしてほしくないのだが、私は両親を嫌いになったことは一度もないのだ。
人間不信であった当時も、家族を、他人を愛してはいたのだ。
ただ、私が行動をして誰かの逆鱗に触り、その関係ごと崩壊してしまうという妄想に取り憑かれていたのだ。
そうして、私は常に最悪を想定して行動するようになった。最悪を起こさないよう、対処できるよう神経をすり減らして生活するようになった。
さながら、終わらない爆弾解除をするようなものだった。
当然のように、それらは私の精神的負担へと変わり体を蝕んでいった。