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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

音も空気もない場所で

私の嫌いな場所

作者: 葵凪



私は海が嫌いだ。

虫が鬱陶しい山よりも、人が多く空気の汚い都会よりも、痛いほど凍える雪原よりも、私はこの海が嫌いだ。

そして、それと同じくらい海を愛おしいと思っている。




確か、彼女と出会ったのも海だった。


当時の私は小さな会社を経営しつつ、夏はダイビングに没頭していた。そうした中でおなじコースをとっていたのが彼女だった。

目の奥にキラキラとした光が印象に残る、可愛らしい女性だったよ。


と言っても、だから何かあったという訳では無い。ただ少々意気投合し、偶然住んでいる地域が近かったり社会に対する価値観だったりが似ていたため、意気投合し連絡先を交換したくらいだ。

まぁ珍しいことには変わりないが、これだけだったらただのダイビング仲間で終わっていただろう。当時の私の中には、彼女に対する特別な感情は皆無に等しかったのだから。




ただ、彼女に運命を感じる出来事があった。


私の会社は、今でこそ中小企業だが当時はまだまだ零細企業で、それでもようやく安定してきたから従業員を増やす、ということになった。

それで私も面接官として参加したんだが、そこで彼女に再開した。

そして彼女を採用したのだ。

別に贔屓したという訳では無いが、彼女の考え方が私とよく似ているのは知っていたし、実際面接でもそれを感じとれたからな。


そうして公私共にパートナーとして長い時間を一緒に過ごした結果、私は少しずつ彼女に惹かれていった。

まるで太陽のように、ただそこにいるだけで人々を明るくする彼女の在り方が、たまらなく愛おしく感じたのだ。

そして私は彼女にプロポーズし、付き合い始め、結婚した訳だが……まぁその辺の詳細はいいだろう。



結婚してしばらくした後、私たちの間に娘が生まれた。

名前は色々と話し合ったが、海の色がいいという話になり、最終的に瑠璃色からとって瑠奈と名付けた。

そうして瑠奈と彼女と私、3人で平和に楽しく過ごしていた頃。彼女に日帰りのダイビングを勧め、そしてそこで唐突に……私の太陽は沈んだ。



彼女の遺体を見、火葬をして彼女だったものを拾っても、私は涙を流さなかった。実感がわかなかったのだ。

彼女が死んだと理解できず、ただただぼうっと他人事のような、夢を見ているような感覚で家に帰った。彼女がおかえりなさい、と出迎えてくれるような気がして。


私は、そんなことは頭ではありえないとはわかっているはずなのに、人間というのは難しいものだ、とどこかぼんやりと考えていた。




私はそれから、仕事とダイビングにかなり傾倒した。

幸い会社は順調に成長し収入もそれなりにある。家政婦の方を雇って瑠奈のお世話を頼むことも出来たから、比較的時間の余裕はあった。


普通ならこうなると親子の関係は離れていくのだろう、とは思っていたが、彼女がいなくなった現実を完全に受け止めきれていなかった私に、瑠奈と向き合う余裕はなかったのだ。

引っ込み思案で人見知りだった瑠奈に習い事を詰め込んだのは、今考えると間違っていたかもしれないが、当時の私にはそれくらいしかさせてやることが出来なかった。


だが、私にとっては幸運なことに、瑠奈との関係は意外なほど簡単に改善して行った。

私は、瑠奈が10歳を超えた時ダイビングに連れていった。当時はもう得意なことの一つになったとはいえ、昔は水を大泣きするほど嫌がっていた瑠奈だ。ダイビングを楽しんでくれるか少し心配だった。


しかし、流石は私と彼女の娘と言うべきか、かなり本格的に気に入ってくれたようだった。

それからある程度纏まった休みが取れる日には、なるべく一緒にダイビングに行くようになった。

ダイビングが、海が、私たち親子を繋いでくれた。まるで彼女の代わりをするかのように。




そうして瑠奈も成長し、大学に入学した。

瑠奈は正直、私の想像以上にダイビングにのめり込んだ。

私はあくまで趣味として軽く嗜む程度、そこまで高い実力を求めていなかったとはいえ、ダイビング歴15年は下らない私の実力を、あっさり抜いてしまうくらいには。


ただ、そうなってくると同代で彼女に匹敵する実力者がぐんと減る。なにせ瑠奈はプロに片足を突っ込んでいるようなものだからな。

まだインストラクターとは言えないとはいえ、プロダイバーとして雇ってもらえガイドもできる。まぁ大学には入ってもらったが。


実の所、瑠奈には直接ダイビングショップに就職することも打診した。必要な実力も資格もあるわけだからな。

だが、瑠奈は自分の夢を見つけたようだった。それはダイビングショップを開くこと。そのために経営を学びたい、などと言われれば、私に文句は言えまい。……まぁ、元々反対意見はあげても、否定するつもりも無かったがな。


それに、その選択は瑠奈にとって思わぬ面でもいい方向に働いたらしい。

どうやら、大学で知り合った女性――水無冬華(みずなしとうか)と、親友と呼べるレベルで仲良くなったようだった。何度か家に来たこともあったが、物静かで落ち着いているようで、心の中に好奇心が隠れているような気配がしたしな。それはどことなく"彼女"に似ていたのかもしれない。


水無さんは瑠奈と同じくらい……いや、それ以上にダイビングというスポーツを気に入ってくれたようで、瑠奈以上の速度で成長して行った。と言っても、水無さんは水泳を高校まで続けていて水に適性があったのだろうが。




大学卒業後、瑠奈と水無さんは一緒にダイビングショップを作った。

小さな頃からダイビングに親しみを持ち、多くのダイバーに可愛がられていた瑠奈と、その瑠奈の親友が作ったダイビングショップ。多くの人の助けもあり、それなりに上手くいっているようだった。


私は仕事が忙しくダイビングに行く機会は減ったが、それなりに充実した日々を過ごすことが出来ていた。親子共に上手く行き、平和で順調だと思えたある冬の日…………瑠奈が行方不明になった。




瑠奈と水無さんが休暇で行った海外で、地震に見舞われた。水無さんら幸いホテルに居たらしいが、瑠奈はその時海の中におり、陸に帰ったことは確認されていないという。


私は取り乱すことは無かった。

いや、実際のところ、思考の整理がつかずただただ逃避していただけで、かなり混乱はしていたのだろう。

結果的に、私は表面上は酷く冷淡な反応をしていたと思う。


私は暗く広い劇場で、決して舞台に上がることは無い。常に観客席で、何も出来ずただただ座っているだけだ。しかし、時に観客は望む望まぬにかかわらず、舞台に無理やり引き上げられる。



瑠奈が行方不明になってから5年がたち、どこか空虚な日々を、ただただ惰性で日々を送っていた私の元に、瑠奈の失踪から疎遠になっていた水無さんから1本の連絡が入った。



瑠奈が生きていた、と。



私は当面の予定を何とかキャンセルし、瑠奈に会いに行った。

そして、否が応でも現実を受け入れざるを得なくなった。

瑠奈は、記憶を失っただけでなく、記憶する能力すら失っていたのだ。


瑠奈の状態を聞いた時、私は絶望に近い感情でいた。幸い私が誰かはわかってくれたし、生きていくことは問題ない。

しかし、この状態ではまともな社会生活は先ず不可能だ。私自身の稼ぎがそれなりにあるから私が生きているうちは問題ないが、それでも生きていくことがかなり難しい状態なのは間違いない。


だが、そこまで考えが及んだところで、初めて私は瑠奈が生きているのだと実感できた。どんなに難しくとも、"彼女"のように生を失ってはいない。


私は4年前に死亡していたことになっていた瑠奈の戸籍を訂正し、日本に連れて帰った。

家で暮らさせることも考えたが、今の状態で1人にするのは少々危険だ。知人のツテで施設を紹介してもらい、瑠奈をそこに預け、なるべく多く会いに行くようにした。


水無さんは、最初の頃こそ足繁く通ってきてくれていたが、ある日一切連絡が取れなくなった。

水無さんが瑠奈と共に経営していたダイビングショップに連絡を取ると、どうやらそこを手放し世界にダイビングの旅に出たそうだ。


薄情だな、と一瞬思ったものの、"彼女"が亡くなった際私もダイビングに逃避を求めていたことを思い出し、きっと私と似たような心情なのだろうと納得した。しかし、それは私の価値観で物事を見た考えであり、大きな間違いであったことを私は知ることになる。




水無さんが旅に出てから2年、私は平日は仕事に邁進し、休日は瑠奈の元へ足を向けるという行動がだいぶ習慣として身についてきていた。


瑠奈と会い、挨拶をし、何が起きたのかを説明し、短い話をいくつかする。瑠奈は記憶するという行為が出来なくなり変わったように見えたが、その根本的な在り方は変わっていなかった。


小さな頃のように、少々人見知りでぼんやりとしているが、その目の中に子供のようにきらきらしたものを持っている。これまで瑠奈はその輝きを主にダイビングに向けていたが、それを――記憶も含め――失ったことで逆に色々なことに向けるようになったようだ。


何も知らず、知ることがないが故に、小さな出来事や少しの不思議に目を輝かせる。その様は、まるで外の世界を知ったばかりの幼子のようで、たまらなく愛おしかった。




そんなある日、水無さんが久々に訪問してきた。彼女は20冊以上のノートを見せながら、瑠奈にダイビングについて話して見せた。瑠奈は、最初は戸惑っていたものの、とても楽しそうにその話を聞き、ノートを見ていた。


水無さんが帰ったあと、私はノートの中身を見てみた。

そこには、世界中のダイビングスポットの良さや特徴、危険さ、そしてそれらの写真がかなり丁寧に纏められていた。水無さんは、現実逃避の為ではなく瑠奈のために、世界を旅していたのだろう。

それは、私にはできなかったことだった。


ノートの最後には、「今までありがとう、瑠奈」と書かれていた。それから水無さんがどうなったのか、私は知らない。ただ、そのノートは瑠奈の宝物なり、死ぬまで何度も読み返されることだけは間違いないだろう。



私は海が嫌いだ。"彼女"を奪い、瑠奈の記憶と当たり前の人生を奪った海が嫌いだ。もし私が瑠奈にダイビングを教えていなければこんな結末にならなかったのではないか、と考えたことは、1度や2度では無い。


だが、それと同じくらい愛おしいと思っている。私には"彼女"を、瑠奈には水無さんを与え、私たち家族の絆をつむぎ、常に私たちの人生を動かしてきた、この海を。

これは一応三部作の1つです。もし他の視点がみたいなと思ったら是非ほかの二作品も読んでみてください。

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