無造作に置かれた通帳
昔から仕事は好きではなかった。一年目の五月には仕事を辞めたいと言っていたし、五年経ちたくさんの同期が辞めていった今でもそう思い続けていた。
姉は、お金を貰うことがモチベーションになるから仕事を続けられていると言っていたが、かつてから俺は物欲はあまりない男だった。多少欲しい物が合っても、買うのを躊躇するようなものはあまりなく、たかが知れている値段の物ばかりだった。
だから、貯金は貯まる一方だし、年月が経ったせいで仕事はどんどん責任が重くなっていくし、されど評価はそこまで上がらないし、それでも職を失うのは躊躇われて、怒られ、半ベソを掻き、不満ばかりが募る生活を送っていた。
死にたいと思うことはなかった。
死ぬことで周囲を悲しませることは嫌だった。
だけど、この状況は打破したかった。もっと仕事が出来るようになりたい、と思ったわけじゃない。せめて怒られないよう、仕事をしたいと思ったのだ。
そんなことを考えるようになった頃から、どうすれば仕事を上手く出来るようになるのか、を考えた。
幸い、俺の身近には良きモデルケースがいた。
先輩は、物怖じしない性格をしている人だった。それでいて、どこまでなら相手に仕事を押し付けられるか、塩梅が上手い人だった。
多忙を極め忙殺されていく俺からすれば、本当にモデルケースに相応しい人だった。
だけど、ならば先輩と同じように相手に物怖じせず物事を頼めるかと言えば、俺はそういう人間ではなかった。
むしろ、頼まれたら断れないタイプ。
年中マンパワー不足な我社において、責任を押し付けるには都合の良いタイプの人間だった。
相手がどうして俺に仕事を頼むのか、年月を重ねる内にわかっていった。だけど、結局断ることも出来ずに俺はまた叱られる。
そんな仕事のやり方を続けていた。
このやり方を変えなければならないのだろう。
だけど、どうすれば変えられるのだろう?
再び良きモデルケースになったのは、件の先輩だった。先輩は、妻子持ちだったのだ。
休憩時間、俺はよく先輩から家族絡みの愚痴にも似た微笑ましい話を聞かされていた。そして、気付いた。
先輩が物怖じしないのは、多分家族を食わしていかなきゃいけないからなのだろう。
先輩が職を失えば、先輩の家族は路頭を彷徨う。だから、職を失うわけにはいかないという覚悟を持っているから物怖じしないのだろう。
俺も結婚したい。
少しだけ……いやかなり邪な感情で、俺は結婚への思いを馳せ始めた。
そうして、数ヶ月の時間が経って……。
努力を重ねた俺に、晴れて恋人が出来た。
とても可愛らしい人だった。スタイル抜群。美人。長い黒髪もどこか艶やかで。
非の打ち所がない人だった。
どうして俺なんかに靡いてくれたのだろう、という疑問は尽きなかったが、それでも幸せなこの時間にそんな感情はいつしか消え去っていった。
彼女とお付き合いを始めて、三ヶ月が経った。
今日は、彼女の一人暮らしの部屋にお邪魔していた。一LDKの築五年。綺麗な外観、そして内装の部屋だった。
そこで俺達は色んな話をした。
最近ハマってること。
今度一緒にしたいこと。
互いの好きなことを羅列し合った頃、ロマンチックな空気が流れ始めた。
目尻に涙を蓄えた彼女は、なんだかとても扇情的に見えた。
「お風呂、入ってきます」
「うん」
燃え上がる感情を抑えて、一先ず彼女を見送った。
多分、明日の仕事は寝不足でうたた寝かまして、上司にまた怒られるだろう。
「……ふぅ」
息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
そして、ふと気付いてしまった。
先程彼女の頼みで、家に着く前に一度銀行に寄ったのだが、通帳が不用心にテレビ台に置かれていたのだ。
まったく、本当に不用心だ。
こういうのは、将来的には直してもらわないとな。
……出来心で、俺は彼女の通帳を見た。
「へ?」
とてつもない間抜けな声が出た。
俺も彼これ数年仕事を続けて、貯金はうん百万くらいは貯めたのだが……彼女の貯金の額は、俺とゼロが二つも違っていた。勿論、多い方に。
どうしてかという疑問は晴れなかったが……一先ず俺は、驚きのあまり心臓を高鳴らせた。