9
最近、詩葉さんから呼び出しが、増えたような気がした。特に夜。僕は彼女に呼び出され、ピアノを弾くことが増えたのだ。
「ねぇ、まこちゃん。敵に塩を送るようなことは言いたくはないのだけれど、詩葉さんって最近上手く行ってないんじゃない? どうも気持ちが不安定になっている気がするよ」
小夜の分析は、僕の分析と一致していた。僕は詩葉さんが好きなのに、小夜と体の関係があって、だけどその小夜が僕の恋愛に対し冷静な分析をする、という奇妙な状況。少し前の僕には本当に想像のできないことだ。
「まこちゃん、もしかしてチャンスあるかも、とか思っている?」
「お、思っていないよ」
「どうかなぁ」
小夜とそんな会話があったが、正直なところ、僕はやはり詩葉さんを諦めたわけではないのだ。彼女の心を癒すなんてことは、建前でしかない。いつか、何かが起これば、チャンスがあるかもしれない、と思い続けているだけだ。それは認めるしかないが、実際そのチャンスが訪れようとしているではないか。
しかし、どうしても解決しなければならない問題はあった。小夜だ。万が一、僕が詩葉さんと上手く行ったとしよう。そしたら、小夜のことを何と説明すれば良いのだ。理解するような人はいないだろうし、理解されてしまったら、それはそれで、どこか別の問題があるような気がした。
だから、僕は小夜との関係を断ち切らなくてはならない。そのため、僕は最近大学の図書館に足しげく通い、様々な文献やネットで情報を収集した。
今日もパソコンの前に座り、小夜を人間に戻してやる方法はないか、と調べる。かつて、彼女は人間だったのだ。だとしたら、人間に戻れる可能性はある。そしたら、僕の中にある苗床だって消えるに違いないはずだ。それに、彼女がもともと人間だとしたら、悪魔に変化したと言うよりは、彼女自身が悪魔に憑かれている、とも考えられるのではないか。だとしたら、彼女を人間に戻す手段として考えられる方法は一つだ…。
「悪魔祓い?」
突然、背後から声をかけられ、僕は座ったまま飛び上がりそうになる。弾かれるように振り返り、その声の主を確認すると、やはり詩葉さんだった。僕が操作するパソコンの画面を見て、首を傾げている。
「う、詩葉さん…どうして」
「どうして、って…私も調べものがあって図書館にきただけだよ。また、オカルト系のレポート? そっち系に詳しい先生って、うちの大学にいたっけ?」
「えーっと、いや…何て言うか。その授業、テーマが自由なので、僕が勝手にそっち系に進んでいるだけです」
「へぇー、白川くんってそっちの方に興味があったんだ」
「そういうわけでは、ないんですけどね…」
僕は苦笑いを受けべながら、何となく詩葉さんの顔を見た。色白の彼女だが、今日は一段と白く、むしろ青に近かった。さらに、目の下にクマができていて、疲労が溜まっているのが一目瞭然だった。
「詩葉さん、大丈夫ですか? なんか、疲れているように見えますけど」
「え? あー、うん。ちょっと…睡眠不足」
「そうですか。あまり、無理をしないでくださいね」
「ありがとう」と笑顔を見せる詩葉さんだが、やはり影がある。
詩葉さんって最近上手く行ってないんじゃない? 小夜の言葉が頭の中を巡る。だとしたら、何としてでも僕は悪魔と縁を切り、彼女を迎え入れるべく、全力で準備するべきなのではないか。
「で、どうして悪魔祓いなの?」
図書館を出てから、詩葉さんが改めて聞いてきた。
「いや…ちょっと映画の影響を受けただけです。日本にも、悪魔祓いのスペシャリストって、いるのかなー、と思って調べてたんです」
「うーん。外国と日本では、霊的な存在に対して、かなり違った価値観を持っているイメージがあるからねぇ。日本人からしてみると、あまり十字架とか聖水でお化けを祓う、ってことを商売にしている人はいないんじゃないかなぁ」
「やっぱりそうですよねぇ」
「あ、でも日本でそれに近い存在だったら、陰陽師じゃない?」
「ああ、それも映画で見たことがあります。でも、陰陽師って悪魔を祓えますかね?」
「どうしてそこまで悪魔にこだわるかは分からないけど、霊とか悪魔って、憑り付かれてしまった人の精神的な異常が脳内で具現化されたものだと思うから、たぶんその人の文化的な価値観に合致した方法が、効果的だとは思うよ」
「やっぱり、高額な依頼料が必要なのでしょうか?」
「さぁ、どうだろう。そう言えば実家の近くに、お祓いを請け負うって書いた神社があったかな。それほど高い値段ではなかったと思うよ。評判も良かったと思う。都内だし、良かったら場所教えようか?」
「あれ、詩葉さんの実家って東京なんですか?」
「うん。そうだよ。私、中学のときに何回か転校しているんだよ」
「そうだったんですか。ご両親の都合ですか?」
「うーん、聞かないで」
「あ、すみません」
「いやいや。ごめんね、変なことを言って」
詩葉さんは笑顔を見せるが、どこか表情が乾いていた。彼女が見せる、その表情の裏に、今まで見せたものとはまた違う、暗くて深い影の気配があった。
「聞かないで、とか言っておいて私は聞いちゃうけど、誰かがお化けにでも憑り付かれたの?」
「そんなことありませんよ。あくまでレポート作成のネタですから」と僕は手を仰いだが、あからさまに動揺していたかもしれない。
「ふーん。まぁ、良いけど」
彼女は冗談を受け流すように肩をすくめたが、突然その体が揺らいだ。バランスを崩したように、たたらを踏んだのだ。僕はとっさに手が伸びて、彼女を支えた。
「詩葉さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。ごめん」
そう言って、僕から離れて、歩き出す彼女だったが、やはり顔が青い。これでは、彼女も悪魔に憑り付かれているのではないか。彼女はやはり眩暈があるらしく、近くにあったベンチに腰を掛けた。僕たちは、彼女の体調が落ち着くまで、飲み物を片手に休むことにした。
時間はもう夕方だった。大学は山の上にあるため、夕日が良く見えた。詩葉さんもその夕日を見つめている。沈む夕日を惜しむような、遠い目をしていた。
「白川くんは…私が助けて欲しいって言ったら、助けてくれるよね」
「もちろん、助けますよ」
そう答えてから、僕は誰かと比較されているのだろうか、と考えた。そんな僕の思考を遮るように、彼女は言う。
「白川くんといると、凄く安心する」
「それは…何よりです」
「安心させてくれる存在がいるって、本当に凄いことだよね。私、白川くんがいなければ…今ごろ死んでいたかもしれない」
「え?」
それって、どういうことだろうか。ただ、一つ言えるのは、彼女がどうしようもなく追い詰められた精神状態である、ということだ。
「……ピアノ、聴きたいな」
僕の疑問を遮るように、彼女は呟いた。
「今、聴かせてくれないかな」
「わかりました」
僕たちは、いつも人気がない、あの音楽室へと移動した。歩きながら、僕は考えた。どうして、彼女がこれ程までに苦しむ状況に追いやられてしまったのだろうか。僕はまた、名前も顔も知らない男のことを想像する。あいつが、彼女を苦しめている。僕は彼女を救わなければならない。例え、それで僕の心が傷付くことになっても。
そう思ってピアノの前に座ると、今ならいつも以上に特別な演奏ができる気がした。詩葉さんのためなら、彼女を救うためなら、今までにないような演奏を、きっとできる。鍵盤に触れると、いつものように別の宇宙が、僕と鍵盤が触れる僅かな面の間に広がった。そして、僕はピアノを弾き始める。
僕の予感は的中していた。やはり、いつもと違う。僕はピアノに広がる宇宙を感じることだけではなく、その意思が感じられる気がしたのだ。そうすると、その宇宙を通して、誰かの意識に触れたような気がした。
それは、錆びついた光のようだった。美しいはずなのに、鈍く劣化している。これは何だろう。詩葉さんの意識だろうか。直感だが、そんな気がした。僕はどうすれば、この錆びた光に輝きを取り戻せるのだろうか、と考える。たぶん、光は蘇ることがない。だとしたら、新しい光を作り出そう。僕はピアノの宇宙に、光を作り出す方法を聞いてみた。
すると、抽象的な応答があり、僕はそれを何となく理解した。僕が鍵盤を叩けば、その光は作られて行く。そして、詩葉さんの中にあるだろう、錆びた光に、それを近付けた。新たな光は、錆びた光を押し退けようとする。しかし、それはとても重くて簡単には行かなかった。でも大丈夫。僕はピアノの宇宙から、どうすればそれを取り除けるか、聞くことができるのだから。
宇宙の意思に従って、演奏を変える。すると、錆びた光は力を失って行った。完全に、とは言えないが、かなりサイズが小さくなったようだ。いつだか、父が言っていた。ピアノに従って音を調節する。そうすれば思いのまま。これが、それなのかもしれない。あと少しで、錆びた光を消せるかもしれない。そう思ったが、いくらやってもダメだった。
僕はピアノの演奏を終えて、詩葉さんの姿を確認した。彼女は僕に背を向け、窓の外を見ている。しかし、僕は彼女がどんな表情をしているのか、分かってしまった。なぜなら、外はもう暗くて、窓は鏡のように彼女の顔を映していたのである。詩葉さんはそれを知ってか知らずにか、静かに涙を流したまま、言うのだった。
「私ね、フラれてしまったんだ」
何も言わない僕に、彼女は続けた。
「だから、もう少しだけお願い。ピアノを弾いて。今は優しくされたいの、白川くんに」
僕は彼女に言われるがまま、ピアノを弾いた。しかし、僕は先程のように、ピアノの意思らしきものを汲み取ることができなかった。それでも、演奏を終えた僕に、詩葉さんは言うのだった。
「ありがとう。とても良い演奏だったよ」