8
「ふーん、なんだかなぁ」
ベッドの中で、僕が話した事の顛末を聞き、小夜は目を細めた。
「言わなくて良いことかもしれないけどさぁ、詩葉さんは別の男の予定に振り回されているだけでしょ? そんな詩葉さんに振り回されるまこちゃんって、どうなのかなぁ。可哀想だなぁ」
「男とは…決まってない」
「決まっているよ。絶対に決まっている。本命の男にドタキャンされて、寂しかったから、二番手のまこちゃんを利用したんでしょ? しかも、用済みになったら、体調の悪いまこちゃんを残して、帰るとか…どうかと思うよ」
「僕が体調悪いことに、気付いてなかっただけだよ、詩葉さんは」
「だから、そこだよ」
小夜は少しだけ声を大きくした。珍しく攻撃的な気がした。
「私だったら、まこちゃんの様子がおかしかったら気付くよ。目の前にいる人が具合悪いのに気付かないなんて、何も見えてない証拠だと思うよ」
「いや…この前は気付いてくれたよ。わざわざ栄養ドリンクまで買ってくれてさ。今回はたまたまだよ」
「そのときは、男と上手く行ってたから余裕があったの。昨日はそうじゃなくて、余裕がなかったんだって。それくらい、詩葉さんはその男に首ったけってことだよ。きっと、今ごろも交わり合っている最中だよ」
「そ、そんなわけ…」
「なんでまこちゃんが否定できるのかなぁー? 自分がさっきまで何してたか、覚えているのかなぁ」
「ぐぅ…」
僕は返す言葉がなく、押し黙ってしまう。
「男と女って、そんなものだよ。特にあの子は、その傾向が強いと思うよ。割と色恋沙汰に敏感で、頭の中はそればっかり」
「なんで小夜はそこまで詩葉さんに対して、否定的なんだよ」
「否定的にもなるよ、聞いているだけで嫌な女なんだしさ。それにね」
小夜の手が僕の背中に触れ、肌の上を這うと、体の中で妙な感覚が動き回った。
「まこちゃんが詩葉さんより、私を選んでくれたらなぁー、って…ずっと思っているからなんだよ。だから、恋敵は徹底的に悪く言いたいの。まこちゃんが私のものになるまで、私は詩葉さんを否定し続けるよー」
「な、何を…」
「あ、でも…体の関係を結んでしまったから、もう私のものか。えへへへっ、今日からよろしくお願いします」
そうなのだ。僕はついさっき、この悪魔に初めてを奪われてしまったのだ。頭を抱える僕に、悪魔は誘惑を囁くように言う。
「大好きな詩葉さんに捧げるはずの童貞が、私に奪われてしまったねぇ。でも、大丈夫だよ。私がすぐに詩葉さんのことなんて忘れさせてあげるんだからね。それとも、もう観念しているのかな」
「ち、ちがう。僕は…!」と否定する。
「何が違うの?」
「こ、心までは…奪われていない」
小夜は僕の言葉に、少しだけ目を大きくした後、口を押えて笑い出す。それは、彼女が悪魔であることを忘れてしまうくらい、純真な子供のような笑顔だった。
「本気でそんなこと言っているの?」
「本気だよ」
「凄い気持ちよさそうだったけどね、まこちゃん」
「……」
またも返す言葉がなかった。どうすれば良いのだろうか。これは、もう悪魔と結婚するしか、僕には道がないのか。今まで一途に想い続けていた、詩葉さんへの気持ちは、どうすれば良いのだろうか。あの胸が焦がれるような気持ちを、僕は一生解消することはできないのかもしれない。そんな呪われ続けた人生、まさに悪魔の仕業だ。絶望の連続を死ぬまで続ける。なんて悲劇なのだろうか。
頭を抱える僕に、小夜はもう一度笑った。
「大丈夫だよ、まこちゃん。詩葉さんはね、まこちゃんがどこの誰で童貞を卒業したかなんて、どうでも良いことだし、興味のないことだよ。だから、まこちゃんも気にしなくて良いことなんだよん。今まで通り、詩葉さんを好きでいても、私を好きなようにしても、誰からも責められることはないんだから」
「僕は僕を責める」
「じゃあ、仕方ないね。そう言う風に考えるなら、まこちゃんは私と結婚するしかないね」
「そんなことより」
「あ、話を逸らした」
「どうして、僕はあれだけの高熱にうなされたの? 今は何ともないみたいだけど」
小夜に一晩中、体を弄られた後、僕の体調は若干の頭痛があったものの、熱は下がり、何の異常もなくなっていた。あれだけの高熱が、薬も飲んでいないのに、なぜ一晩で退いたのだろうか。
「そうだね。ちゃんと、それを話さないといけないよね。まぁ、びっくりしないで聞いてね。これから話すのは、全部本当のことなんだから」
いつも僕をからかって笑う小夜だが、たまにこんな風に真剣な顔を見せる。それをやられると、僕も真剣に耳を傾けなければならない。一切、笑うことなく、冗談を交えることなく、僕の身に何が起こっていたのか、小夜は説明した。
小夜は獲物に決めた相手と初めて口付けをするとき、唾液を通して、男性の体内に寄生植物を植え付けるそうだ。その寄生植物は、常に男性の体内で菌をまき散らし、宿主の体内を蝕む。現代医療では、発見できないような、特殊な菌らしい。
そして、その菌が増えれば増えるほど、男性は体温が上昇し、放ってしまうと死に至ってしまうそうだ。その植物を除外することはできないが、それがまき散らす菌については、ある方法で体内から排出できる。
それが、肌による小夜との接触、口付け、生殖行為というわけだ。これは小夜の食事と同じで、肌による接触では菌を排出させる量は僅かで、口付けであればある程度は吸い出せるが負担が大きい。そして、生殖行為であれば多く排出して負担も少ないのだとか。
小夜が言った「私なしでは生きられない体」とは、そういうことらしい。つまり、僕は小夜に餌を供給し続けるための、苗床になったようではないか。彼女に食料の供給を怠れば、僕は死ぬ。これは簡単に解決できるような問題ではないような……。
下手をすれば一生付き纏う問題かもしれない。そう考えると、僕はこれから先、どのように生きて行くべきか、本気で考えるべきじゃないのか。
一言も喋らない僕がどんな気持ちなのか、小夜は気付いたらしく、彼女も黙ってしまった。暫く、二人で黙ったままだったが、やがて小夜が口を開いた。
「まこちゃん、怒ってる?」
「……怒ってはないけど、ちょっと心の整理が」
「……そっか。まこちゃんって、本当に不思議だね」
意味が分からないので返事をせずにいると、小夜は勝手に続けた。
「私は何人もの人間をこうして食べてきたけど、私との生活を喜ぶ人が多かったよ。私の悪魔としての性質がそうさせていたのだろうけど、こんな体になったばかりのときは、男の人って本当に頭の中はスケベなことでいっぱいなんだ、って幻滅してたなぁ。でも、まこちゃんは私との関係は、とても煩わしいみたいだね。それだけ、詩葉さんのことが好きなのかなぁ」
「こんな体になったばかり、って……?」
「なに? 私、何か変なこと言った?」
「小夜は最初から悪魔だったわけではない、ってこと?」
「ああ、うん。そうだよ。最初は人間だったよ。あまりに昔のことだから、その頃の記憶なんて、ないけどね」
小夜はいつから悪魔になったか、その前はどんな人間で、どんな生活をしていたのかも、よく覚えていないらしい。人間の脳にとって限界を超えた時間を生きているため、容量的に記憶が消えてしまったのかもしれない、とのことだ。
「私だって、好きで男の人を餌にしているわけではないんだよ。死にたくないから、そうしているだけだし、勢い余って殺してしまうのも、気持ちとしては本当に嫌なことなんだよ」
小夜が言うには、何人もの男性を殺してきたそうだ。悪魔である彼女は、男の精さえ吸うことができれば不老不死で、いくつもの時代を生きて、その分だけ男を食らってきた。良い人もいれば、最低な男もいたらしいが、殺したいほど憎んだ人は誰一人としていなかったらしい。
でも、酷い空腹のあとは、相手からエネルギーを吸い尽くしてしまい、ミイラみたいに干からびて死んでしまった人もいたそうだ。小夜は自分のせいで、死んでしまった人、いや殺すことになってしまった人を、何人も見てきたのだ。
「だから、まこちゃんを巻き込んだことは、本当に悪いって思っているし、感謝もしているよ。私だって、お腹が空いたからって、無差別に人を殺しても良いなんて思っているわけじゃないんだ。だから、まこちゃん。簡単なお願いとは、決して言えないことだけど、可能な限り、私と一緒に暮らしてほしいな」
僕は自分が悪魔に憑り付かれた被害者なのかと思っていたが、小夜も何年も悪魔として生きる、という呪いに悩まされる被害者なのであった。
「どうして、小夜は悪魔になってしまったのだろう…」
「さぁ、覚えてないよ。私のことだから、誰かのこと、怒らせて恨まれたんじゃないのかなー」
「戻れないのかな、人間に」
「うーん。治そうと色々頑張ってくれた人もいたよ。でも、何をしてもダメだったね。その人は……優しかったな。その人は殺すことなく、ちゃんと人生を全うしてくれたから、良かったよ」
小夜は遠い日のことを思い出しているのか、寂しそうな目で遠くを見て、癖なのか右手を胸元に置いた。そのとき、僕は彼女の表情に得体の知れない違和感を抱く。それが何なのか、つかめそうでつかめない、変な気分があったが、すぐに煙のように消えてしまう。一人頭を傾げる僕に、小夜は言う。
「それよりさ、まこちゃん」
割と深刻な話だったにも関わらず、どうでも良かったかのように、小夜の声は明るい。
「話は戻るけど、やっぱり詩葉さんは諦めようよ。私はまこちゃんに尽くすよー。何でも言うこと聞くし、どんな要望にも応えるからね。昼も夜も、まこちゃんの好きなように、していいからね」
「や、やめてください!」
「あはははっ、真面目だね。でも、本当に詩葉さんはやめておきなよ。まこちゃんは、あの子を追いかけ続けても、絶対に幸せになれないよ」
「詩葉さんのこと悪く言わないでよ。良い人だよ」
「あれは男をダメにするタイプだと思うなー。それに、他に男もいる。匂いで分かるよ、私にはね」
「……知っているよ」
「え、そうなの? それなら、もう諦めなよ。私も毎日、気兼ねなく美味しいご飯を食べたいしさ!」
少し小夜に対し、同情的な気持ちになってはいたが、この一言で、やはりこいつは悪魔なのだ、と思い知る。どんなに体を好きなようにされても、この女には心を許すまい、と思うのだった。
少し長くなってしまったが、僕はこんな風にして、小夜との同棲生活を始めたのだった。