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都内のある駅のホーム。リスト、愛の夢第三番が、どこからか流れている。
ぼんやりした顔で立っていた、一人の女がその曲を耳にして、顔を上げた。きっと、過去の記憶が唐突に再生されてしまったのだろう。私もそんな経験があったから、よく分かる。
そんな女の背後に別の女が、ゆっくりと近付くのを私は見た。その女の手には銀色に光る包丁が握られている。私はすぐに包丁を持った女へ駆け寄った。彼女の背中に手を置くと、肩を振るわせた後、怯えた表情で振り返る。私は首を横に振った。
「思い直して。周りの大切な人や、自分自身ともう一度、話し合ってみると良いよ」
「わ、私は…何も」
「うん。だから、今なら間に合うよ。それをしまって、家に帰ろう」
女はそそくさと包丁をバッグに入れて、その場を立ち去った。それと殆ど同時にホームで立ち尽くしていた女も踵を返して、走り出す。その背中を見つめ、自分のこととは言え、本当にうんざりしてしまった。記憶を封じ込められていたとは言え、大事なことを忘れて何をしていたのか……。
私は手の平を見つめてみる。これで、私は矛盾した存在になってしまったのではないか。タイムパラドックス、というやつだ。本来、ここにいる私は、今立ち去った彼女が駅のホームに落ちて、過去に移動したからこそ存在する。その事実は今消えてしまった。だとしたら、私も消えてしまっても、おかしくはない。映画の主人公のように、私は指先から少しずつ体が薄くなって、消えてしまうのかも、と少し怖かった。それでも、私は消えなかった。
「終わった?」
後ろから声をかけてきたのは、白川くんだ。
「うん。終わった」
私は彼に笑顔で答えた。彼も笑顔を返してくれたので、少しだけ安心した。
「小夜。もう消えるのは勘弁してくれよ」と彼は私に心情を知ってか知らずにか、そんなことを言った。
「……そうだね。うん、たぶん、大丈夫。心配だったけど、大丈夫そう。消えることはないよ、大丈夫」
私は、自分がまだこの人と一緒に生きていられるかもしれない、という喜びに興奮し、何度も「大丈夫」という言葉を繰り返した。もし、私が消えてしまったら、ということも考える。そのときはきっと、ついさっき駅を飛び出した私が、この人を見付けて、幸せにするよう努力するだろう。でも、私は消えない。昔の自分なんかに、この人を奪われたりはしない。過去の私はどうするだろう。もしかしたら、畑山にでも泣きつくだろうか。それとも……いや、そこまでは馬鹿じゃないだろう。まぁ、良いさ。私は私の幸せだけを考えることにしよう。
駅を出て、二人で歩く。季節は春だ。私たちの歩く道を桜が見下ろしている。昔の私はなかなか良い時期に旅立ちを決意したものだ、と思った。
「ねぇ、まこちゃん。今更なんだけどさ」と私は彼に言う。
「なに?」
「実は私、小夜って名前じゃないんだ」
「はぁ?」
「もう二百年前にもなるけど、色々あってね。仮でこの名前を使ったら、定着してしまったんだよ。それでさ、せっかくまこちゃんに名前を呼んでもらえるのに、嘘の名前なんて悲しいじゃない。別の名前で呼んで欲しいんだよね」
「え、別って…本名じゃダメなの?」
私は曖昧な表情で首を傾げた。すると、彼は私が自分の本名を忘れてしまったのだ、と解釈したらしく「じゃあ、例えばどんな名前が良いの?」と聞いてきた。
「詩葉…とかは、駄目?」
そう言うと彼は顔をしかめる。少し怒ったかのもしれない。
「いくらなんでも、悪い冗談だよ。なしなし」
彼はまだ気付いていない。永遠に気付かないだろう。それはそれで、彼が今の私自身を愛してくれているのだと自覚できるから、悪い気持ちはしないのだけれど。
桜の下を歩くと、あの男のことを思い出した。あの男は桜が好きで、春になると缶ビールを片手に必ず散歩をしたがった。
「ねぇ、小夜。あそこにお団子が売っているよ」と彼が言う。
彼が指をさした方を見ると、和菓子屋さんがあった。
「桜を見ながら三色団子を食べる、っていうのはどうかな?」
彼がすぐに団子を買ってきたので、二人で座れるベンチを探してから、一緒に食べる。最近、普通の食べ物が喉を通るようになった。彼の腹部にある、毒を撒き散らす植物も徐々に小さくなっている。たぶん、私は少しずつ人間に戻り、彼の中にある呪いも消え始めているのだろう。
「美味しいね。これ、僕たちの春の定番にしよう」と彼が言った。
「うん、美味しい。そうだね、これからは春と言えば、桜と三色団子だ」
私にとって、桜を見ると連想されるのは、あの男が片手にビールを持って、一緒に歩く景色だった。でも、これからは彼と並んで三色団子を食べる季節になるだろう。こうして、少しずつ想い出は上書きされて行く。
風が吹くと、地に落ちていた桜の花弁が舞い上がった。私は目を細め、その様子を見つめる。すると、桜の花弁が舞い落ちる景色の向こうに、人形の黒い塊があることに気付いた。目と思われる、二つの青い光が、こちらに向けられている。
幼い頃、あれが声をかけてきたのを覚えている。きっと、私はあの頃から、彼に呪われていたのだろう。そして、その呪いは薄れつつある。彼は私を許してくれたのだろうか。いや、きっと…最初から呪っていたわけではない。私が道を誤らないように、ずっと見ていてくれたのだ。だとしたら、そろそろ安心させてあげられるのではないか。
「小夜、行こう」と彼が私を呼ぶ。
「うん。ねぇねぇ、帰ったらちゃんと名前のこと、考えてよ?」
「うーん、小夜は小夜だからなぁ」
そう言いながら、彼は歩き出す。私は一人立ち止まり、道の向こう側で私たちを見ている、黒い姿をもう一度見た。そして、彼に言う。
「ありがとう、お父さん。もう大丈夫だよ」
私の声は、届いただろうか。その姿は既にない。
「小夜、何をしているの?」
立ち止まる私を、彼が気にかけてくれた。彼は、私が隣にいないと、すぐに気が付くのだ。ちょっとしたことだが、私はそれが嬉しくて、つい足を止めてしまう。
「何でもない。今行くよ」
私は小走りで彼の方へと駆け寄った。季節は春。また新しい想い出が増えた。




