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悪魔の苗床  作者: 葛西渚
第五章 白川誠 Ⅱ
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8

僕は彼女の意識を確かに受信した。


やはり、彼女は僕に助けを求めている。姿を変えてまで、意識の一部分を切り離してまで、僕に探してほしいと叫んでいた。


だとしたら、僕は彼女を助けてみせる。いや、彼女がそれを求めていなかったとしても、僕は彼女を助けるだろう。なぜなら、僕が求めるのは彼女一人だけなのだから。そのためなら、すべてを犠牲にしてみせる。



そのときだった。ピアノを弾く、僕の手の甲が激しく光り輝いた。ちょうど手の甲を覆うくらいの小さな光だが、力強くて眩しかった。それは僕の手から離れて浮遊すると、意思を持っているかのように動き出し、穴の真上へ移動した。そして、ゆっくりと穴の中へ消えて行く。あれが何なのか、僕は漠然と理解した。僕が犠牲にしたものに違いない。


僕は確かめるつもりで、リストの愛の夢を弾こうとした。しかし、指が全く動かない。まるで、僕の記憶の中から、愛の夢だけが抜け落ちてしまったかのように。いや、記憶を失ったのではない。たぶん、才能が失われたのだ。いや、ピアノを弾くという行為すら、失ってしまうのかもしれない。


だけど、それで構わない。僕は演奏を続ける。すると、また僕の手の甲から光が発生し、穴の中へと移動して行った。また一つ。また一つ…と、それは発生しては、穴の中へと消えて行く。その度に、一曲一曲と、僕の中から音楽が消えて行った。リストだけじゃない。バッハ。ベートーヴェン、モーツアルト。ショパン。一つ一つが消えて行った。


「良いのか?」


僕の意志を確認したのは、部屋の隅で見守っていた、黒い塊の男だった。


「お前のそれは、値段を付けられないような、とんでもない価値があるものだろう。それをあの女のために、捨てられるのか?」


「捨てられるさ。何かを犠牲にしなければ、何かを手に入れることはできない。僕はピアノを捨てでも、音楽を捨ててしまっても、彼女を助ける」


「あの女はお前を裏切った。最後の最後で、手段も選ばず、どうしようもない男を選んだんだ」


「そうだね。貴方がそれを止めてくれたことは、とても感謝している」


僕はピアノを弾き続けながら、彼女の本心に想いを馳せた。


「今、僕がしている行為は、彼女の意志を捻じ曲げるようなことかもしれない。でも、そうまでして、僕は彼女を手に入れたいと思っている。彼女は僕のものだ。僕は彼女を手に入れて、幸せになる。僕たちなら、それができると思う」


口にしてみると、自分がどれだけ勝手なことを言っているのだ、と思った。でも、本心だったし、それだけ、人の気持ちなど配慮せずに、突き進まなければ、何も変えられないことなのだ。


そんな僕を黒い塊の男はただ見つめていた。僕の気持ちが、彼には見えているのだろうか。


「……覚悟があるなら、私に言うことはない。すべてをお前に委ねよう」


彼はそう言い残して、姿を消してしまった。この部屋にあるのは、僕とピアノと、僕が奏でる音だけになった。


◆◆


最初、それは雪かと思った。


蹲って、膝の上に置かれた私の手に、その光が落ちてきたのだ。温かくて優しい光が、私の手に。それが上から降ってきたと気付き、見上げると、光がまた一つ、また一つとゆっくり落ちてくる。私はそれを手にして、じっと見つめた。すると、そこから音が奏でられていることに気付く。ピアノの音だ。私の良く知る曲。何度も私を救ってくれた曲。


リストの愛の夢第三番。


光がさらに降ってきた。それはどれも音を奏で、ゆっくりと落下してくる。いくつも落ちてくる光は、気付くと規則的な感覚を空けて浮遊していた。次々と光が落ちて、それは集まって階段の形を成していった。


これが誰の演奏で、誰による救済なのか、考えるまでもなかった。私はこの階段を上がらなければならない。そして、何度も謝らなければならない。もしかしたら、彼が途中で諦めて、この光が突然消えてしまうかもしれない。階段は穴の上まで達することはないかもしれない。だとしても、私はこの階段を上がるべきなのだ。少しでも、彼が手を差し伸べてくれるのなら、私は絶対にそれに応えよう。今度こそ。


◆◆


あとは何が弾けるだろうか。どこかで聴いたポップソングや童謡まで、思いつくものはすべて弾いた。僕の指は、もう動かない。もう一度、弾き慣れた曲たちを演奏してみようと思ったが、やはりそれらは僕の中から、完全に失われていた。鍵盤の叩き方すら、もう分からない。


僕は自分の手の平を見た。ずっと昔から、当然のようにピアノを弾いてきたこの手。何かが変わったようには見えないが、決定的なものが失われてしまったのだ。それでも、と僕はその手を握りしめる。それでも、僕に後悔はない。


僕は立ち上がると、ピアノから離れ、穴の傍へ移動した。下を覗き込むと、僕の手から離れて行った光が螺旋状に輝き、穴の奥までつながっているように見えた。届いただろうか。


耳をそばだて、目を凝らす。穴の奥で何か変化がないか、と。すると、穴の中に動くモノを認めた。


「小夜!」


僕は思わず叫んだ。


「まこちゃん!」


階段を駆け上がるように、小夜が光を足場にして、こちらへと向かってくる。僕は手を差し出し、彼女を待った。小夜も手を伸ばす。僕は彼女の手を握ると、思い切り引っ張り上げた。彼女を穴の外へと導き、二人で床に倒れ込む。僕に覆い被さっていた小夜が、身を起こし、僕の顔を見下ろした。


「まこちゃん、ごめんね…」と彼女は言った。


「助けて欲しいなら、素直に言えば良いじゃないか」


「でも、私は……」


小夜の目が涙に溢れる。彼女がどんな気持ちで、この穴を昇ってきたのか、僕は少しだけ理解していた。彼女の意識に触れたから、何となく分かるのだ。


「良いよ。今は何も言わなくて。まだ小夜の中で、整理がつかないこともあるだろうけど、少しずつ納得していけば良いよ」


「……うん。ありがとう」


そう言った彼女の本心が、どこにあるのか、僕には分からない。もしかしたら、永久に整理がつかないことだって、あるかもしれない。


それでも良いのか?


誰かに問いかけられた。頭の中に、二つの青い光が浮かぶ。彼は姿こそ消してしまったが、まだ僕たちを見ているのかもしれない。それでも良い、と僕は返答した。それでも良い。だって。


「小夜が傍にいてくれれば、僕は良いんだ」


「後悔するよ?」


「しないよ。小夜にも、後悔させない」


「え?」


「忘れられない記憶は、たくさんあるのかもしれないけど、すべて僕たち二人の記憶に上書きしてしまおう。そうすれば、また忘れられない記憶ができる。それを二人で大事にしていこう。いつまでも。過去を全部、忘れてしまうくらいに」


彼女が消えてしまってから、僕はずっとこれを伝えたかった。小夜は納得してくれたのかどうか、ただ頷いてくれる。


「……うん」


僕と小夜は二人で、この不思議な家を出た。玄関にはもちろん茉文ちゃんはいない。幽霊人間は僕たちを囲って、遠巻きに見ていたが、襲い掛かってくることはなかった。不思議な街からも脱出する。灰色の空は、何事もない夜空に変わった。




こうして、僕たちは二人で、僕たちの家に帰ることができた。それから、小夜はいつものようにずっと家にいて、僕は大学に通う。父にはピアノが弾けなくなったことを伝えると、特に失望した様子も見せず、また忙し気にどこかへと出かけてしまった。ただ、その前に少しだけ話す時間があった。


「僕はピアノが弾けなくなったけど、少しも落胆はしていません。父さんから受け継いだ才能は、他人のために使い果たしました。後悔はしていません。正しい使い方だったと思います」


そう言った僕に、父は笑顔を見せた。彼がそんな表情を見せるのは、何年ぶりだろうか。下手をしたら、初めて見るのではないか、と思うほどに珍しいものだった。


「お前がそれで良いなら、構わない。きっと、三条もそういう使い方をしただろう」


「三条?」


聞かない名前に僕は首を傾げた。しかし、父は首を振るだけで、何も説明はしなかった。


「あれは他人に寄り添うための力だ。本来はきっと。私は世界中にいる、私のピアノを必要とする人々に寄り添うために使っているが、お前がそれをどう使うかは自由だ。お前が胸を張って、間違った使い方をしなかったと言うなら、私も誇りに思おう」


僕は父に紹介したい人がいる、と話したが、彼は時間がないと言って、去ってしまった。遠くから僕と父の別れを見ていた小夜は、僕と顔を合わせると、遠くを見つめて、こんなことを言った。


「長く生きてみると、色々と理解できることがあるね」


「どういうこと?」


「私は昔から色々な人に助けられて、この時代に戻ってきた。それは、まこちゃんに出会うため、色々な巡り合わせがあったんだなって。どんな話か、聞きたい?」


「……今は良いや」


僕は最近になって自覚したが、とても嫉妬深い性格なのだ。小夜が昔、どんな人間関係があったのか、今は聞きたくなかった。もう少し歳を取ってから、それでも受け入れる勇気があるなら、聞くことにしようと思う。


僕はそれから大学を卒業して、就職した。小夜も何とか仕事を見つけ、二人で細々と生活している。春になれば桜を見に出かけ、夏は海を見て、秋は紅葉、冬は雪の中を歩く。四季折々の景色を楽しむ。大きな刺激もない。ドラマ性もない。意外性もないかもしれない。人によっては退屈を感じることだろう。僕は小夜が今の生活をどう感じているか、気になって聞いたことがあった。


「小夜、幸せを感じる?」


すると、彼女は頷いて言うのだった。


「うん。お腹いっぱいだし、とても幸せだよ」


僕は彼女の何も変わらない答えに、笑ってしまった。僕は彼女が今の生活に不満がないのか、幸せを感じているのか、という意味で聞いたのだが、彼女はこの瞬間の満腹感に対して幸せを口にしたのだった。


そんな無邪気な彼女と一緒にいて、こうして笑っている僕こそ、本当の幸せ者なのだろう。

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