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「お前のピアノには、価値がない」
ずっと言われ続けたことではあったが、高校に入ってからも、父はそんな風に僕のピアノを評価した。
「何かを犠牲にしなければ、本当に欲しいものは手に入らない。もし、さらに上達したいのなら、何かを失う覚悟をしろ。私をがっかりさせるなよ」
「はい、お父さん」
父は少しだけ目を細める。僕の返事が空っぽであることを見抜いたのかもしれない。
「ピアノの声を聞けるようになれ。そうすれば、すべてが聞こえるようになる。あとは、その声に従って音を調節するだけだ。それができれば、思いのままだ。覚えておくと良い」
「はい」
僕は父の言うことが理解できなかった。それに、どうでも良くて、理解しようとも思わなかった。
「うん。では、毎日練習すると良い。期待しているぞ」
父はそれだけ言うと、忙しそうに家を出て行った。きっと、コンサートツアーがあり、これから日本中を回ることになるのだろう。僕が今、どんな生活をしていて、何を考えているかなんて、理解するつもりもないらしかった。
この頃、母が死んで間もなかった。小さい頃から、友達作りが下手だった僕にとって、母の死は、本当の意味で孤独の訪れだった。毎日、家政婦さんは訪れるが、必要最低限の言葉を交わすだけなので、僕にとって他人というものは存在しなかった。他人が存在しない、ということは、自分が存在しない、ということと殆ど同義だ。
高校になって環境ががらっと変わってからは、さらに僕の居場所はなかった。中学時代のように、いじめられることはなかったが、僕は誰からも相手にされることがなかった。世界にとって、僕は不必要な人間なのだ、と思い続ける日々になってしまった。家に帰ってもより孤独を実感するだけで、何も考えず、ただ落ち着ける場所が僕にはなかった。
そんな僕が何をするかと言えば、放課後一人残って、勝手に音楽室のピアノを弾くことだった。軽音楽部や吹奏楽部などの部活もあったが、ラッキーなことに音楽室は誰も使わなかったのである。
父には評価されないピアノではあるが、僕にとっては孤独であっても寂しくない世界に没頭できる、唯一の時間だった。
だから、僕は満足するまでピアノを弾いてから、誰もいない家に帰る、という習慣になっていた。授業を受けて、ピアノを弾いて、家に帰る。それを繰り返していたある日のこと、僕は詩葉さんに出会ったのだった。
その日も、ピアノを弾いていた。夕暮れに気付くことなく。僕だけの宇宙が広がり、そこは誰もいないから怖くないし、音で溢れているから、寂しいこともなかった。
その宇宙から現実に少しだけ戻った瞬間だった。拍手が聞こえてきたのである。久しぶりだった。母がいた頃は、ピアノのコンクールのようなものに出ていたから、拍手をもらう機会もあったが、それがなくなった今は、誰かが僕のピアノに拍手をしてくれることなんてなかったのだ。それとも、何かの勘違いだろうか、と手を叩く音がする方へ目を向けた。
そこに立っていたのは、知らない女性で、雰囲気からして、三年生のような気がした。つまり、これが詩葉さんとの出会いだった。
「こんな上手なピアノ、初めて聞いた。君、何年生?」
「あ……一年、です」
もう春も終わろうとする時期だったのに、下手したら高校に入ってから初めて、僕は声を出した。
「凄いね。ずっとピアノ習っているの?」
「いえ……はい、そうなんです」
「なんで最初は否定したの?」と彼女は笑った。
僕は彼女の笑顔を見て、自分の頬が熱くなるのを感じた。ただ恥ずかしかっただけではない。彼女は、僕が今まで見た、どんな生き物よりも美しく愛らしいものに見えたのだ。
だって、僕からしてみると、女の子は無縁だったし、さらに言えば、彼女は中学生のときに見かけた女子生徒とは比べ物にならないくらい大人っぽい、女の子と言うよりも、女性に見えたのだ。
「えっと…その…」と口下手なりにも、全力で否定した理由を説明しようとした。
ちぐはぐな僕に対し、彼女は穏やかな表情で手の平をこちらに向けて、それを制止した。
「無理に説明しなくていいよ。君は言葉よりピアノで語る方が得意でしょ?」
僕はそのとき、初めて自分を言葉以外で説明する方法にピアノがあるのだ、と知った。
「ねぇ、もう一曲聴かせて」
僕は頷き、鍵盤に指先を乗せた。僕の好きな曲、リストの愛の夢を弾こうとした。いつもであれば、ここで別の宇宙へと移動ができるのだが、そのときは無理だった。すぐ近くで僕の指を見つめる詩葉さんのことばかり意識して、ピアノにつながることができなかったのだ。それでも一曲弾き終えると、詩葉さんはまた拍手をしてくれた。
「本当に上手。プロみたい」
そう言えば、ピアノの演奏を誉められることも初めてだった。僕にとって唯一の話し相手となった母ですら、父が演奏する本当のピアノを知っていたから、僕の演奏を誉めてくれることはなかったのだ。ピアノを誉められるのは、不思議な気持ちだった。何日か経って、嬉しいと感じている、と気付くことになるのだが、このときはどんな表情をすればいいのか、分からなかった。
「時間があるのなら、もう何曲か聴かせてよ。もし人に見られているのが嫌なら、私はそこに座って本でも読んでいるからさ」
詩葉さんは僕の返事を聞くこともなく、椅子に座ると本を広げてしまった。どうすれば良いのだろうか、と僕は戸惑ったが、ピアノだけはいくらでも弾ける。それが許されるのであれば、延々と弾けば良い。僕は暗くなるまで、ピアノを聴き、詩葉さんは黙ってそれを聴いてくれていた。
「ありがとう。もしかしたら、君は明日もここにくるのかな?」
見回りに来た先生に音楽室を追い出され、二人で校舎を出るとき、詩葉さんは僕に聞いた。僕は小さな声で「はい」と答える。
「そっかそっか。なら、君のピアノを聴きたければ、放課後に音楽室へ行けば良いんだね」
僕は何と言えば良いのか分からず「うん」とも「はい」とも言えるような、変な返事をした。
「ありがとう。君の名前は?」
「白川、誠です」
自分の名前すら上手く口にできない僕に対し、詩葉さんは滑らかに自己紹介した。
「私は楠木詩葉。三年だよ。よろしくね」
そんなことを言って、きっと彼女は二度と音楽室を訪れることはないだろう、と僕は思っていた。しかし、彼女は毎日のように訪れるのだった。
僕がピアノを弾いていると、黙って音楽室に入ってきて、静かに聞いている。本を読んでいる日もあれば、教科書とノートを広げて勉強することもあったし、何もせずに茫然としていることもあった。そして、見回りの先生に追い出されるまで、僕たちはそこで過ごし、帰り道に会話をする。取り留めないような会話を。
これは僕にとって、今までの人生で一番楽しい日々となった。誰かと会える、誰かと会話ができる、誰かが笑ってくれる。それがこんなにも嬉しいことなんて、僕は本当に知らなかったのだ。
そんな楽しい想い出の中でも、一つだけ酷く気落ちした出来事があった。僕は詩葉さんの前では、ピアノの実力を出し切ることができなかった。どうしても、緊張してしまい、ピアノとつながることができなかったのだ。
それでも、僕は彼女の存在に少しずつ慣れて、やっと実力を出すことができた。ピアノとつながり、僕は自由自在に音を出すことができた。ここ最近の演奏とは、一つも二つも違う次元の演奏ができた、と確信すらあった。もしかしたら、詩葉さんはびっくりするかもしれない、と期待をしていたが、特に普段と変わらぬ様子で、地味にショックを受けたのだ。これは何年経っても、思い出すと少し落ち込むことがある。
そんな日々の中、僕は詩葉さんに気になっていたことを聞いた。
「あの…詩葉さんは遅くまで学校にいて、ご両親に何か言われないんですか?」
僕たちが歩く先に見える空は、オレンジ色が紫色に覆われる直前で、夜の訪れを思わせた。詩葉さんは口元にいつものように穏やかな笑みを浮かべていたが、そんな夜の始まりを睨み付けるような鋭い視線を向けていた。
「私、親戚のうちに預けられているから。それほど心配されていないと思うよ」
「そう、なんですか…」
このとき、詩葉さんは普段よりも様子が暗かった。だけど、他人とのコミュニケーションの経験が少ない僕には、そういうちょっとした変化に、人の本心が含まれているなんて、思いもしなかった。
「白川くんは? お母さん、心配しないの?」
「母は…ちょっと前に死んで、基本的に父は家にいません」
「……そうなんだ。悪い事聞いたね」
「いえ、全然。だから家に帰っても、仕方ないんです。学校の方が何となく現実逃避ができたので。本当に、少しの違いでしか、ありませんけどね。でも今は…」
僕はそこまで話して、自分が早口で自分のことを語っていることに気付いた。そういうのって、他人には嫌がられるんじゃなかったか、と思い止まったのだ。突然停止した僕を見た詩葉さんは、首を傾げたが、すぐに気持ちを汲み取ってくれのか、こんなことを言った。
「なら、良いじゃない。私と白川くん。帰りたくないもの同士で、あそこで時間を潰す。悪くないと思うけど」
「……はい」
日々は流れて、夏休みが終わり、秋になった。詩葉さんは相変わらず、音楽室に訪れてくれたが、勉強していることが増えた。だから、僕は彼女が快適に勉強をするための音楽を奏でることに徹した。すると、ペンを置いた詩葉さんが、突然こんなことを言った。
「白川くんにも、友達が必要だと思うの」
「と、突然…なんですか?」
「人って、誰でも不完全なものだとは思うけど、白川くんはこのままだと、致命的に欠けたままだと思うんだ。私も、そろそろ卒業だし、君は他の人間とも関わって、大人になる準備をするべきじゃないかな」
「そうですね。凄いご尤もと言うか、返す言葉がないと言うか…」
「でも、こんな自分には友達ができない、と思っていない?」
「は、はい…それについても、返す言葉がないです」
「君は無理に喋る必要はないよ。言葉ではなく、ピアノで語れば良い。ほら、これ見て」
それは、一カ月後に開催される学校の文化祭のポスターだった。僕がそれを認識したことを確認すると、詩葉さんは裏返してみせた。そこに書かれていたのは、後夜祭ステージという文字だった。
「うちの学校はね、文化祭の後、後夜祭で体育館のステージを自由に使えるの。昔は落語やる人もいれば、演劇みたいなことをする人もいたけど、最近は軽音部の独壇場になっているんだ。軽音部って言ってもね、誰も知らないようなマイナーなパンクロックを演奏するだけなんだよ。ただ、あの先輩かっこいい、とかそんなことを後輩の女の子たちに言わせるだけの、見てる方が恥ずかしいステージなんだよ」
詩葉さんは、この後夜祭に何か思うことがあるのか、いつもより拳を握りしめて力説するかのようだった。だが、そこまで説明すると、悪戯な笑みを浮かべて言うのだった。
「ここで、白川くんがピアノ弾いたら、どうなると思う?」
「どうなるんですか?」
首を傾げる僕に、詩葉さんは不敵とも言えるような笑みを見せた。
「やってみようよ」
僕は次の日、詩葉さんに引っ張られるようにして、生徒会の後夜祭テージ担当の生徒のところまで行って、出演を申し込むことになった。しかし、ピアノの演奏と聞いた、生徒会の担当者は、良い顔をしなかった。
「歌はやらないの?」と言う。
「歌わないと、ダメですか?」
僕は、やらなくて済む、と半分安心しながら、そう聞いてみた。
「いや、ダメじゃないけど…やっぱり、盛り上がりに欠けるから、他の参加者より持ち時間が減っちゃうんだよね。だから、できれば歌をやってもらった方がいいけど?」
「詩葉さん。歌がないとダメみたいです」と僕は横にいる、詩葉さんに言った。
「えっと、楠木さんだっけ? 貴方が歌ったらどう?」と生徒会の人は言う。
「それ、良いかもしれないですね。お願いできませんか?」
僕はステージの持ち時間がどうなろうが、別に関係はなかったが、詩葉さんの歌声が聴きたくて、そう言ってみた。
詩葉さんは少しの間、黙っていたが、首を横に振った。
「ダメダメ。私は歌えないから」
「別に軽く歌うだけで良いですよ。お願いします、助けると思って」
しつこくお願いしてみたら、詩葉さんのことだから受けてくれるのでは、と思ったが、そんなことはなかった。詩葉さんは、珍しく目つきを鋭くしてから「私は、絶対に歌わないから」と言うのだった。
よく分からないが、詩葉さんにとって、歌うということは、触れるべきポイントではないようだ。きっと、苦手なのだろう。詩葉さんは一瞬見せた表情を引っ込めると、屈託のない様子で「時間は少なくなっても、歌はなくて良いよ」と言った。
「大丈夫。例え時間が少なかったとしても、白川くんのピアノは沸かせるから。だから、このまま申し込もう」
それから一ヵ月後、僕は後夜祭の舞台に立った。
詩葉さんが言う通り、そのステージにエントリーしたのは、軽音部のバンドグループばかりで、僕だけが浮いていた。そのせいか、僕は前座的な扱いとなり、出番が一番最初だった。ステージの前、詩葉さんはこう言って笑った。
「その方が都合良いよ。馬鹿なやつらを全員地獄に落とせるんだから」
「どういうことですか?」
「すぐに分かるよ」
僕は二百人程度を前にして、ステージに立っても、特に緊張はなかった。僕は何度もこれより多くの人がいるステージでピアノを弾いたことがあるのだから、この程度は数に入らないし、何よりも詩葉さんの前で初めて弾いたときに比べたら、どんなステージでも緊張することはないだろう。
僕は騒めき声を聞きながら、ピアノの前の椅子に座った。鍵盤に指を置く。それだけで、僕はもうそのステージにいなかった。別の宇宙で、ただ漂う存在となったのだ。
いつも通りだ。後は僕の中にある、もしくはその宇宙の中にある、音を奏でるだけ。ドビュッシー、ベートーヴェン、ショパン…詩葉さんが言うように、できるだけ誰もが聴いたことがあるものを選曲し、短い持ち時間の中、それを弾き切った。
ピアノを弾き終え、一礼をすると、拍手が起こった。久しぶりだな、と思ったが、僕にとってはそれだけのことで、特別なことではなかった。
「お疲れ様。よかったよ」と詩葉さんが言ってくれたのが、ただ嬉しかった。
「詩葉さん。誰も地獄に落ちたようには思えませんけど」
「それはね、これからだよ」
文化祭が終わり、振替休日が開けた日のこと、僕は今まで話したこともないクラスメイトたちから、なぜか声をかけられるようになった。
「白川、お前凄いな」
「白川くん、連絡先を教えてよ」
「目立たないやつだと思ったら、とんでもない特技を持っていたんだな」
何の話か、最初は分からなかった。次第にピアノのことだと気付き、僕の身に何が起こったのか理解ができた。今まで、このクラスで限りなく透明人間に近かった僕が、皆から存在を認められたのである。僕の代わりにピアノが語り、やっと皆に自己紹介をできたのだ、と僕は知った。
その日の放課後のこと、僕は一緒に帰ろうと言ってくれたクラスメイトの誘いを断り、音楽室へ向かった。珍しく、詩葉さんが先に来ていて、上機嫌な様子で勉強をしていた。
「詩葉さん、少し理解できました」
「何が?」と彼女はとぼける。
「後夜祭のピアノの意味です。急にクラスの人から話しかけられるようになりました。大人になる準備って、このことですか?」
今日だけで、僕に対し好意的に声をかける人間がかなりいた。僕だってそれは無下にできない。このままだと、自然と他人との付き合いが生まれる。そしたら、僕は否応がなく社会性を学ぶことになるだろう。
そんな僕の指摘に、詩葉さんは悪戯がばれた天使のような笑みを口元に浮かべる。
「望んでもいないのに、今朝から色々な人が声をかけてきます。中には友達になろう、って直球みたいなことを言われましたよ」
「そっかそっか。それは安心だね。私が卒業しても、白川くんは高校生らしい高校生でいられるわけだ」
「どうですかね…僕は自分がそんな簡単に人から好かれるとは、思いませんけど」
「白川くんがそうでも、周りはそうではないよ。後は状況に流されるだけで良い。たぶん、できるよ」
「……それはそうだったとしても、一つ分からないことがあります。僕は人付き合いが苦手だけれど、好意的に声をかけてもらえることは、嫌ではありませんでした。だとしたら、誰が地獄に落ちたと言うのですか?」
「それはね」と詩葉さんは言った。
僕の演奏の後、続けて何組かの軽音部のバントがステージに上がったわけだが、どれも盛り上がりに欠けたそうだ。軽音部の面々は動揺していつも以上に実力が出せず、見ている生徒たちも白けてしまい、後夜祭のステージは墓場でお経を聞くような、暗い状況だったそうだ。
「それはそうよ。だって、みんな下手くそだもの。最初に白川くんの演奏なんて聞いたら、どれも空っぽだって分かっちゃうんだから。どうせ、女にモテたいだけで楽器始めたような連中よ。ざまがないでしょ? 早く現実見て受験勉強に打ち込め、って話よ」
高々と笑う詩葉さんは、僕の見たことのない彼女だった。
「……詩葉さん、軽音部に何か恨みでもあるんですか?」
僕の疑問に詩葉さんは口の端を吊り上げるようにして、不敵とも言える笑みを見せた。
「私はね、あの手のタイプが嫌いなんだよ。格好ばかりで、中身がないような人間ばかりだから。それなのに、女の気を引くことばかり考えてさ。笑っちゃうよね」
そういう詩葉さんの表情を見て、僕は決してそういう道に進まないようにしよう、と決意した。
それから、僕は並みに友人と言えるような人間を得られたし、詩葉さんは無事に志望の大学へ合格。彼女の卒業を迎えることになった。
卒業式の日、僕は友人たちに「行けよ行けよ」と背を押されて、詩葉さんを呼び止めた。そして、僕は詩葉さんのクラスメイトたちが見る前で、こんなことを言うのだった。
「あの、詩葉さん…一年間、ありがとうございました」
「え? あ、うん。私こそ、ありがとう。白川くんのおかげで、集中して勉強できた」
「それは…何よりです。それで、ですね」
改まる僕に、詩葉さんは首を傾げる。
「僕も詩葉さんが入る大学に受験することを許してもらえないでしょうか?」
「……どういうこと?」と彼女は眉根を寄せる。
周りにいた、詩葉さんの友人らしき人々は、僕の意図を理解したらしく、失笑していた。その中の一人が、僕の気持ちを代弁して詩葉さんに言ってくれた。
「だから、詩葉さ…その子は、あんたを追いかけたいから、許可してくれ、って言っているんだよ」
「……そうなの?」
「はい、そうです」
そんな滑稽なやり取りのせいで、また笑いが起こる。僕は恥ずかしくて顔を真っ赤にするが、詩葉さんは違った。いつもと同じように、穏やかに微笑んでから、こう言うのだった。
「好きにしなよ」
そして、難題を出す教師のように人差し指を立てる。
「ただ、私が行く大学の偏差値は少しばかり高いよ。ピアノだけ弾いて、合格できるとは思わないようにね」
「わかりました」
こうして、詩葉さんは卒業する。それから二年間、僕は人並みに高校生活を送り、人一倍勉強をした。そして、志望していた詩葉さんの通う大学へ合格。父が帰る家を出て、東京で一人暮らしを始めるに至るのだ。ただ、東京に出てから、僕は詩葉さんと楽しい時間を過ごせるわけではなかった。再会した彼女は、何かに怯えるように、何かの影に怯えるような、そんな人に変わっていたのだった。その影が何のか、僕は早々に気付くべきだった。しかし、鈍感な僕はそれを理解できないままでいる。
彼女が何に怯えているのか、僕は知りたくはなかった。きっと、僕にとっては、優しくない現実が、そこにある気がしたからだ。だから、僕にはピアノが必要だった。彼女の不安を、僕の手で、少しでも取り除ける。それが僕のピアノなのだ。